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ローが扉を開いたその先のアクアリウムは電気もつけられず、人気も感じない。
違う部屋に移動したのかと軽く見渡すと、隅で丸くなっている水槽からの光に照らされた人影ーー名前を見つけ、その隣に腰を据えつける。
とっぷりと眠りに落ちている名前の目元は痛々しく赤らんでおり、頬には涙の跡が目立つ。
ローはその顔に静かに手のひらを寄せた。
額から瞼を通り、頬に落ち着かせる。
熱でもあるのではないかと錯覚するほどに暖かく、つい先程まで涙を流していたであろう事が窺えた。

さて、先程のナミには内心舌を巻く思いであった。
名前をここまで連れてきておいて肝心の話はしてやれないのは、彼女をドフラミンゴの毒牙から守りたい一心で。
名前がドフラミンゴに見つかれば、あの怜悧狡猾な男のことだ、自分を引き摺り出す為にまず間違いなく人質にしようとする。
そして教えてもいないというのに何処で覚えたのか、健気な忠誠心で横溢した彼女は人質にされることなく己の命を絶つだろう。
それだけは絶対に避けなくてはならなかった。

もういっそのこと全て話してしまおうか。
作戦も、その裏で密かに画策している己の心内も。
従順なように見えて変に頑固な名前も、全てを話して分かれと伝えれば首を縦に振ってくれるだろうか。
ただ名前が承知をしたところでドフラミンゴが容赦をかけてくれるわけではない。
そう考えればやはり何も伝えず、今すぐにでも離脱させるのが良いのでは。
他のクルーたちとはその思いでパンクハザードで別れ、先にゾウに向かわせていた。

分かっている。
パンクハザードに連れてきてしまえば計画上共にドレスローザに向かう他なくなるのだから、本来であればたった1人であろうと仲間を連れてくるべきではなかった。
どういった心持ちで自身がドレスローザに向かうのか、それを伝えずに巻き込むのがどれほどまでに残酷なことなのか、
分かっている。

名前には何故そうした判断が下せずずるずると傍に置いてしまうのか、何故危険を理解した上で全てを話したいと思ってしまうのか、賢しいローは己の気持ちに既に気づき、名前をつけていた。
それでも13年もの間、内に秘めてきた己の…恩人の本懐を遂げる為、押し込めてここまできていたのだった。
切望が叶いそうな今、例えばそれで刺し違えるようなことになるのであれば、最初で最後になる想い人に一番近くにいてほしい。
しかしそれは、名前の気持ちや安全面が全く考慮されていないローの独りよがりでしかないということも確かに了知していた。

未だ寝息を立てる名前の顔を今一度眺め入る。
“あんたがはっきりしないから、名前だって迷ってる”、ナミに言われたその言葉は、今のローの胸中を覗き見られたような気持ちになったのだ。

はっきりしない、正しく言うならはっきりさせない。
意図的につくった曖昧な関係のまま、ふわふわどっちつかずでやり過ごしていくことがどれほどに楽だったか。

眠っているのを良いことに自身の手を置いた頬の横、名前の下唇を徐ろに親指でなぞる。
ふと指の腹に何かボコボコとしたものを感じ、身を屈めて唇を注視するといつ作ったのか塞がりかかった傷が。
さっき手当てをした時に自分で言い出しやがれ、と理不尽な憤りを覚えつつ、その傷を…否唇を、近距離でまじまじと見つめてみる。

不意に魔が刺した。
ゆるり、名前の顔に自身の顔を近付けていく。
頬に置いていた手を移動させ、そっと顎を掬い上げた。
今にも触れそうになった瞬間、我に返ってはたと動きが止まる。
作戦が動き出した今、頭に浮かぶのは恩人の顔ばかり。
そんな中途半端な気持ちのまま、しかも眠る名前に口付けたところで何が変わるのか?
何かを変えたくて動いているわけではないだろう、したいのならばすればいい。
内なる自分が囁く。
だが今現在の自分は“死の外科医”海賊トラファルガー・ローという皮を被った、恩人から貰った命をただ繋いできただけの何かだ。
13年前のあの日から、ずっとそう。

目の前ですやすや眠るこの女は、名前は。
自身でさえも訳の分かっていない生い立ちでありながらきちんとそれを受け入れて、この世界で“苗字名前”として生きる為必死に日々を過ごしている。
どっちつかず、何者でもないままただ只管に生き抜いてきただけの己が触れていい人間ではない。
一種の呪縛ともいえるこの感情を脱ぎ捨てることが出来た時、きっと初めて彼女に触れることができるのだろう。
いい加減、はっきりさせなくてはならない時が来たのだ。
眼前の名前の様子は依然として変わらないが、顔を離し、顎に添えた手をそのまま肩に移動させて揺り起こす。

「……ん、え、せんせい、」

少しの間を置いて目を覚ました名前は、自身を起こした人物を見てわたわたと慌て始め、頬や瞼を袖で擦り始めた。
ふぅと短く嘆息し、ローはその両手を掴んで止めさせる。

「わ、ちょ、」
「……悪かった。何も話さずにいて」

その言葉を聞いた名前は目を瞬かせ、動揺を示す。

「いえ、あの、先生は悪くないですから。先生が私に作戦を話したくないのは私が至らないせいですし」
「違ェ。至らないのはお前じゃなくて…おれだ」
「え?」