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ゆっくり、それはもうゆっくりと意識が浮上する。
死ぬ間際に今までの出来事が走馬灯のように蘇るというが、あれは嘘だと思う。
何故なら眼前はどこまでも真っ白。
思い出のひとつもありゃしない。
ただ、天使が迎えに来るというのは本当だろう。
目の前に霞んで見える天使の顔。
真っ白で、まんまるで、ふかふかでー…

…天使なのに、真っ白でまんまるでふかふか?
…白、熊?

「起きた!起きたよキャプテン!」

次第にくっきりとしていく目の前の状況を、私は理解できないでいる。
…白熊だ。言葉を操ってはいるが、紛うことなく白熊。
動物園やら水族館、もっと言えば野生下にいるようなタイプではない、なんだかえらくデフォルメされたような見た目をしているがこれは白熊だろう。
大きいし、白いし、熊だ。

「(え、じゃあなんで喋ってるの?)」

起きた起きたと騒いではしゃぐ白熊。
よく見たらご丁寧にオレンジ色のツナギまで着ている。着ぐるみ?
確かにその感じはなくもないが…なんで着ぐるみ?
それよりもここは何処だ。上体を起こす。
職場の休憩室で倒れたはずなのに、何故か全くもって見知らぬ場所で寝かされていた。

「キャプテンキャプテン!」
「うるせェぞベポ」

白熊の行く先を目で追えば、そこにはこれまた、

「(…悪魔)」

白熊を天使と例えるならば彼は悪魔だろう。
そんな面構えの男がこちらを見ていた。
短い蒼黒の髪にぎょろりと動く薄墨色の鋭い三白眼、極め付けに隈がとんでもなく酷い。
髭も生え、お世辞にも人相がいいとは言えないその男は立ち上がり、こちらに近付いてくる。
その様を視界に入れたが早いか、こちらはすっかり緊張・警戒モードへと移行した。
体はかちこちに動かせない状態のまま、上から下へと視線を動かす。
座っているときは気づかなかったが、細長くもしっかりとした逞しい体躯、一体身長は幾つだ、股下何cmだと問いただしたくなるスタイルだ。
ほんの数歩で容易に私の目の前まで辿り着いた彼の手がぬ、とこちらに伸びてくる。
反射的にびくりと身構えるが、彼は私の腕を取り静かに脈を測っただけだった。
大人しくされるがまま(…というより相変わらず動けない状態なのだが、されるがままということにしておく)になりながらもよくよく見れば、服の袖から覗いている腕、手の甲、指に至るまで刺青で飾られている事に気付いてしまう。
…まず間違いなく堅気ではなさそうだ。

「気分は」
「………」
「お前に聞いてる」
「……気、分」
「いいとか悪いとか、ここが痛いあそこが気持ち悪いとかあるだろ」
「なんとも、ない、ですが」
「なら良い」

喉に張りつく言葉を捻り出す。
ちいさく掠れた音を聞き取った彼は私のそばを離れ、また机に向かう。
何かを書き留めているようだった。
堅気でないくせに医者の真似事かなにかだろうか。

「体調が問題ないなら診察は終わりだ。ベポ、部屋まで運べ」
「アイアイキャプテン!」

てこてこと効果音がつきそうな足取りで再び近づいてくる白熊。
……いやまて、こちらは何も終わっていない。

「……ちょっと待ってください。どういう事ですか?」
「何がだ」
「私に何をしたんですか?」
「なんだ、操の心配か?安心しろ「違う」……」
「激しい頭痛、手足の震え、嘔吐。私は間違いなく脳血管障害の何らかで卒倒した。恐らくク「クモ膜下出血を起こしていたからオペをした。あまり興奮するな、再発するぞ」…は、」

震えでうまく動かない喉も、一度絞ればそれなりに言葉は出てきた。が、それに対する返答に顔が歪むのを感じる。この男、何を言っているの?

「っからかってるの?ふざけたこと言わないで!開頭した形跡もない、痛みも全くない、そもそもこんなにすぐ起き上がれるはずが、」
「興奮するなと言っている。同じことを2度言わすな」
「っ、」

ぴしゃり、と遮られる。

「3度目はないぞ」
「………」

男は私が黙ったのを一瞥し、再び白熊に声をかける。
嬉しそうに返事をした白熊は私を抱え上げ、別室へと移動した。

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「ここでとりあえず寝ててね。ご飯持って来るからベッドから出たらだめだよ」

相変わらず流暢に言語を操り、呆然とする私をベッドに座らせて部屋を出ていく白熊。
これだけ時が経っても何が何だか分からない。
オペって何?あの男は誰?あの白熊は?
何よりも、ここは何処?
考えを巡らそうとしても、まるで回路が凍りついたかのように回らない。
あれらは人攫いなのか?
こんなノーマルフェイスな社畜アラサー女を攫って何の得がある?
そういえばあの地震は?
ものすごい大きさだったけど、病院は何ともないのか?
実家は?無事なのか?
疑問ばかりが浮かんできて、何ひとつ考えがまとまらない。
むしゃくしゃしてベッドに勢いで倒れ込む。
長いため息の後、今更かのように、とくとくと脈打つ自身の心臓に気づいた。
その拍動を暫く感じる。

………とりあえず、今わかることがひとつ。
私は生きている。
私は気付けば大粒の涙を流していた。

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