墓場 - deer

四文字の囀り

あんなにも心地の良い声が、地獄を見せつけるように離れない。

「好きだよ」

たった四文字の囀りが、心の奥のさらに柔らかいところを刃物のように啄んでいく。目を閉じる度に思い出す。何度でも、鮮明に繰り返されるのは、最愛が他の男へ囀る姿だった。

その夜は深かった。大人同士で酌み交わす酒は悪くない。無駄に話題が豊富で、無駄に演劇が好きな馬鹿ばかりで嫌いじゃなかった。
明日に響く前に切り上げたのが運の尽きだったのだろう。いつもなら潰れるまで飲んでいたというのに。気紛れに談話室など覗かなければ、こんな気持ちを知らずに済んだはずだった。

「左京さん?左京さん!」

「......すまねえ、何か用か?」

「ここの予算なんですけど、そんなことより顔色酷いですよ?昨日眠れなかったんですか?」

「......監督さんには関係のない話だ。それで、そこはもう少し削れ。布に金かけすぎだって瑠璃川に言っておけ」

「ちょっ、左京さん!?」

あいつの声に背を向けて寮を出る。しばらくは自宅で寝泊りをしよう。ヤクザなんてしのぎをしていても、目の前で壊れた初恋に耐えられる術はなかった。

「おい迫田」

「へいアニキ!どうしやしたか?今日は一段と恋に破れた男感が出てやすぜ!」

「殺すぞテメェ。余計なことはいいから、しばらく向こうの家で過ごせるだけのもんあとで運んでおいてくれ」

「わっかりやした!」

これでいい。しばらくは通いで稽古に参加すれば問題ないだろう。食事に関しては伏見にしばらくいらないと伝えてある。あとは、この気持ちが整理できるまで......一体どれだけの時間が必要なのだろう。
答えを見つけるには途方もない時間が過ぎるのを待つしかないのだと、頭を抱えたくなった。

段差に躓く。扉にぶつかる。赤信号で渡ろうとする。不幸が凝縮したような一日は、控えめに言って最悪だった。
恋に敗れるとこんなにも視野が狭くなるのか。次からは失恋する役を優先的に回してもらうべきだろう。今なら完璧に演じきる自信があった。
いや、恋に敗れることと、恋を失うことは別なのだろう。俺は碓氷には負けたが、いづみへの気持ちを失ったわけではない。
......負けた時点で潔く身を引けない野郎が一番気色悪いわけではあるが。
消耗しきった身体を引き摺り、何とか辿り着いた部屋の扉を開けるとそこは......他の男に囀っていたはずの最愛がいた。

「おい、迫田。何の冗談だ?」

監督さんが見えるんだが。瑠璃川手製の死ぬほど可愛いエプロン付けた可愛いをこねくり回して固めたような女がそこにいる。
おかしい。恋に破れたショックで頭までおかしくなってしまったのだろうか。

「どれだけ目を細めても本物ですよ。様子がおかしかったから迫田さんに言って入れてもらったんです!」

「ま、待ってくれ。だからってなんでこんなところ......駄目だろ?お前はちゃんと相手が」

「今日一日中フラフラでご飯もろくに食べてないんですよね?私知ってるんですからね!ちゃんと食べてくれるまで帰りません!」

「いや、だから、想ってる相手がいるのに俺なんかと二人きりじゃマズいだろ?」

俺のために怒っている姿は非常に可愛い。恋に破れた後だからこそ、的確に急所を突いていると言えるだろう。だが、そんな邪な感情を持ったまま接するべきではない。
自分の気持ちがコントロールできるまでは、なるべく離れて......無理ならそれこそ俺だけがいなくなるようにしなければいけないのだろう。

「何でそんなこと言うんですか?」

「何でってお前......」

「私が、いつ、誰を好きって言いました?」

「そんなの、あれだ、その、すまねぇ。昨日の夜お前が碓氷に告白してるところを通りががってだな」

「私が真澄君に告白......?」

どうにも話が噛み合わない。だが、忘れようにも忘れられないほどあの姿が頭にこびりついていた。碓氷とこいつが向かい合って、そして、

「好きだよって言ってたじゃねぇか」

ようやく顔を上げた頃には、滝のように絶え間ない涙が頬を濡らしていた。好きな女に泣かれるのは堪える。この涙に勝てる日は一生来ないのだろうと、何となく悟っていた。

「私が本当に真澄君にそんなこと言ったんですか!?ちゃんと聞いたんですか!?そんなことで私は冷たくされて、しばらく寮には帰らないなんて言ったんですか!」

「す、すまねえ。碓氷のことが好きなら、監督さんが幸せなら身を引こうと......」

「馬鹿じゃないの!私は!私が!好きなのは!!ここにいる、目の前にいる、ずっと、ずっと好きで、前から、約束したのに......お兄ちゃんと結婚するって、ずっと言ったのに」

子どものように声を上げるいづみがあまりにも愛おしい。何度馬鹿と罵られようと、この感情が潰えることはないのだろう。

「好きだよ。好きだ。俺は、あの時から、お前が手を引いてくれたあの時から、ずっといづみのことが好きだった」

「わ、私だって、好きですよ!真澄君にだって、左京さんのことが好きなのか聞かれたから、好きだよって言っ」

それ以上、その囀りで他の男を呼ぶのを聞きたくない。臆病で、意気地無しで、甲斐性も無い俺に出来ることは、その涙を拭いながら、唇をゆっくりと啄むことだけだった。

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