墓場 - deer

古市に恋したオネェの話

【赤】
 可愛いものが好き。キラキラしたものが好き。そんなところから始まった人生は、いつの間にか正しくない道へと進んでしまった。決して簡単ではなかったが、たどり着いた先で店を構えてママと呼ばれるようになっていた。
 ずっと男は馬鹿だと思っていた。汚くて、頭が悪くて、いつだって雌のことしか考えない。そんなものにアタシはなりたくなかった。ならないと思っていた。それなのに、結局アタシも男という呪いから抜け出すことなんてできなかったのだ。
「あらあら、ずいぶん濡れちゃって、イイ男が台無しじゃないの!」
 男を見つけたのはお店に向かっているときだった。この雨では折角のヒールが汚れてしまうと溢した息が白かった。天気予報は三日前からずっと雨だ。傘を差さずに歩くには向いていないことだけは確かだろう。
「風邪引いちゃうわよ。ほら、取って食ったりしないから、お店に寄って行きなさいな。タオルくらい貸してあげるから」
 返事がないのをいいことに勝手に手を引き連れて行った。頭にカタカナ三文字がついてしまうが、曲がりなりにもバーであるので酒くらいしかなかった。タオルにまみれて日本酒を煽る姿があまりに可愛らしくて吹き出してしまった。
「そんなに笑うことねぇだろ」
「だって、タオルに包まれながらいかつい顔した男性が日本酒煽ってるんだもの」
「まあ、泣かれるよりはマシか」
「そうね、そんなに可愛らしい格好で泣かれたらもうどうにもならないわね」
「うるせぇよ」
 こんな日に傘を差さない男が訳ありでないわけがないと思っていたが、会話には困らないようで安心した。多少の軽口も受け流せる程度の距離感で大丈夫だと分かっただけでも大きな収穫だろう。
「で、お兄さんのお名前を伺ってもいいかしら?」
「……俺の名前はいっぱいあってな」
 別に本当に名前を知りたいわけではなかった。この男が名前という質問に対してどんな回答をするのかを知りたくなっただけだった。上手に嘘を吐くのか、正直にそのまま言わないのか、どのタイプなのか気になっただけで、こんな返事は想定していなかったのだ。
「じゃあアタシはルドルフかしら。やだ、黒猫なんて可愛いものになれるかしら」
「黒猫ってより化け猫だろ」
「そうそう、ちょっと二股のって失礼ね! 三味線にするわよ!」
「イッパイアッテナは三毛じゃねえだろ」
「じゃあ間を取ってビールで溺死で許してあげるわ」
「どことどこの間だよ」
「アタシの股間に決まってるじゃない」
「汚ねぇな」
「脱毛してるから大丈夫よ!」
「そういう問題じゃねえだろ」
「じゃあどういう問題なの」
「…どういう問題だろうな」
「ほら、アタシは股間も美しいんだから何も問題ないわよ!」
 今となってはイッパイアッテナすら下品な言葉に聞こえてしまいそうだった。児童文学への扱いとしては最低だと思うが、この脱線事故は心地の良いものだった。何が悲しくて初対面の男に自分の股間事情を暴露しているのだろうと思わないでもない。それを気にしたら終わりだと全てを二丁目の闇の中へと葬った。
「で、そっちの名前は?」
「ママでいいわ。アタシはこのお城のママなの」
「二文字は呼びやすくていいな」
「記号だもの。短い方が便利じゃない」
「そうか。なら俺もなんでもいい。勝手につけてくれ」
「あら、呼び方が必要になる関係になってくれるのかしら?」
「酒が美味い店は嫌いじゃねぇからな」
「じゃあまた来てくれるときまでに考えておくわね」
 もう会うことはないと思っていた。人間らしい関係が似合う男ではない。誰とも関わらず一人で生きることを好むタイプだと。だが、中身はとても柔らかいものでできているのだろう。外だけ固く、重い。歳を取れば取るほど損をしていくような生き方をしているのだ。
「久しぶりだな」
 また男に会ったのは雨の日だった。お気に入りの鈴を鳴らした彼に大きく振りかぶってタオルを投げつけた。いつもずぶ濡れだからズブと名前をつけてやろうか。謝らなければいけない先が増えてしまう気がするが、進化退化光線銃も無いので過去に隕石がぶつかることもないだろう。
「人の店ばっかり濡らして! もっと濡らすべきものがあるでしょうに!」
「また来たんだ、もっと歓迎しろよ」
「だったらもっとしおらしくしてなさいよ! 開き直りすぎよ! 毎回毎回タオルばっかり使わせて!」
「お節介って言われねぇか?」
「摘まみだすわよ!」
 そこら辺の野良犬の方が礼儀正しいのではないだろうか。何を食べたらこんな図々しくなるのだろうか。全く持って可愛くないが、拾ったのも、また次を作ってしまったのも自分なのだと溜め息を飲み込んだ。
「何か食うものねえか」
 呆れたことにずぶ濡れなだけでなく空腹でもあるらしい。これが犬猫ならば心温まる物語でも始まりそうだ。生憎このタオルまみれ相手ではそんな物語が始まる気配もないのだが。
「ミルクがゆでいいかしら」
「お前は黒猫が好きだな」
「気球に乗って来たらどう? そしてそのまま落ちなさい」
「つれねぇな」
 オネェはそれなりに面倒見がいい種族だ。そうして面倒を見合わないと生きていけないような場所の住人だからなのだと思っていた。全員に当てはまる特徴ではないにしろ、自分の周りにはそういう人が多いような気がしていた。
「別に濡れて来るのは構わないの。ここはどんな人間も飲み込むための街だもの。でもね、毎回濡れてると風邪でも引くんじゃないかって思うじゃない。それこそどこの魔女っ娘かしらって」
「ルージュで伝言は書かねぇから安心してくれ」
「そんなことされるなら猫の方がまだマシね。知らない内に子どもまでこさえそうだけど」
「白猫娶るほど飢えてもねぇよ」
 また拾うこともあるだろうと牛乳を買っておいてよかったのだろう。温まるから、と昔の男が作ってくれたレシピはここでも役に立つようだった。この男もこれを食べたら目に映る全てのことがメッセージになるのだろうか。
「ほら、出来たわよ」
「悪いな」
「あら、アタシはありがとうの方が好みなんだけど?」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 想像に反していただきますは欠かさなかった。育ってきた環境ゆえか、それとも、と余計な詮索をしたがる頭を止めた。下手に深入りはしない。そう決めたのも自分なのだ。それを軽々と破るわけにはいかなかった。
「美味しい?」
「悪くない」
「そんな返事じゃ女にモテないわよ?」
「男に言われてもな」
「うるさいわね。ケツの穴ガタガタ言わせるわよ」
「そりゃあ怖い」
 軽口を叩きながらも完食したので言葉の通りだったのだろう。手作りの食事を誰かに食べさせたのはいつぶりだっただろう。
「お粗末様」
「ごちそうさん」
「それで、今日はどうするの?」
「客になってやろうか?」
「いいわよ、お金ないんでしょう?」
「俺の評価どうなってんだ」
「捨て猫か何かでしょ」
「ママが飼ってくれるって?」
「血統書持ってきたら考えてあげるわ」
「拾ったら最後まで責任持てって言うだろ」
「ごめんなさい、突発性難聴になったみたいなの」
「首輪して鳴き声でも上げればいいのか?」
「やめなさいよ変な気起こすわよ」
 聞こえてるじゃねぇかと笑う男の顔をどうやったら歪めさせることができるだろうか。シンプルに殴りたくなってしまった衝動の代わりに大きなため息を吐いた。
「少なそうな幸せが逃げるぞ」
「一言多いのよ! 別に逃げても追いかけて行くからいいの」
「どんな幸せも逃がさねえのか」
「当たり前じゃない。虫取り網だって常備してあるんだから」
 幸せが少ないんじゃない。幸薄いだけなのだ。そっちの方がヒロインみたいでロマンチックだと野太い女子会で決まったのは最近のことだった。目指すべきは世界名作劇場であり、こんな場末でこんな野良を拾うヒロインなんかではないはずだった。
「まあ、こんな見てくれのおっさんだが、それなりに稼ぎはあるから安心してくれ」
「こんなタオルまみれの客なんていらないわよ。お金なんていいから大人しくアタシに飼われてなさい」
 どうせここで追い出しても傘を差さない男だ。それならここでただ酒をしながらタオルに包まれていた方が安心できるのだ。結局、一度でも屋根を貸した私の負けで、この男の気が済むまで私は受け入れ続けることくらいしかできなかった。
 
【緑】
 白にまみれたおっさんを飼い始めたらしい、という噂はすぐ広まった。どうせなら植物に詳しい細マッチョが良かった。現実と理想というものが噛み合うことの方が少ない世の中だ、求めすぎるとろくなことにならない。今を慎ましく受け入れながらいつか王子様がやってくる日を夢見るくらいが丁度いいのだ。
「ママああいうのタイプだった?」
「違うわよ。ペットよペット」
 ペットにしては帰ってくる頻度が少ない気もする。二、三週間に一度顔を見せればいい方で、その度に白まみれにしてやっていた。とんだ不良ペットを拾ってしまったと思う。それでもこうして雨が降ると外を気にしてしまうのだから、オネェという生き物は難儀なものだと思った。
「ママってペットとか飼わないタイプだと思ってた」
「どういう意味よ」
 このお城の常連は若い客が多かった。アタシ自身そこまで歳を喰っていないからなのか、二丁目の隅の隅という立地がそうさせているのか。恐らく正解などないのだろう。ここはいつでもそういう場所だった。
「ほら、元居た場所に戻してきなさい! って言いそうだからさ」
「あら、アンタそれママって言葉のイメージだけでアタシのこと何にも考えてないじゃないの! もっとアタシのことも考えなさいよ!」
「ええ……、ママのこと考えるならもっとボインなお姉ちゃんのがいいな……」
「失礼しちゃうわね! こんな美人が目の前にいるのによくそんな口きけたもんね!」
「いや、ママは確かに美人だしさ、通っちゃうくらいだけど、何だろうな、遠いんだよ。何かさ」
「急に文学的になっちゃって。そりゃあアタシは高嶺の花でしょうよ」
「ううん、何て言えばいいのかなあ。変な吸引力だよね。俺は嫌いじゃないけどさ」
「悪口だったら叩き出すわよ?」
「違うよ、多分褒め言葉」
 変と言われて喜ぶ女はそういない。だからこいつはモテないのだ。こんな場末のバーを必要としている人間にまともなやつなどいないのだから。女ですらなかったが、そこを突っ込み始めると本当に綺麗な股間の話まで遡らなければならないのでやめておこうと思考を止めた。
「あ、レインコートマンだ」
 悪酔いしない内に水を飲ませてしまおうとそれを用意したときだった。レインコートマンとはまた酷いあだ名ができたものだと扉へ目を向けた。相変わらず傘を差さないらしい。風邪を引けばいいのにと思ってみるが、結局こうしてタオルを投げる精度を磨き続けるのだと思った。
「じゃあ俺は帰るね。またねママ」
 気をつけなさいよと差し出した傘は客のものではない。誰かの忘れ物だったのだろうが、ずいぶん長く放置されたままなのも勿体ないと勝手に貸しているものだった。
「お前は傘が好きだな」
「普通の人はみんなそうなの。雨なら傘を差して見えないお天道様を待ってるのよ」
「太陽は平等じゃねえだろ」
「知らないの? 見上げるのは自由なのよ」
 日の当たらない人間というのは少なからず存在している。こんな生き方しかできない自分も決して太陽が似合う人間ではない。それでも、たまには太陽に当たらないと参ってしまう。見上げるくらいの自由は許されているはずだ、と野太いヒロインたちが言っていた。
「陽はまた昇る、か」
「その言葉は世代によって差がありすぎて致命傷だからおススメしないわ。明日があるさくらいにしておきなさい。世界規模じゃないと傷は避けられないのよ」
 世代間の認識のずれというものは本当に恐ろしい。たまにこうして同じタイトルで発売されたものがあるが、年齢によって中身が大きく変わってしまう。全く話が噛み合わず、思ってたより年寄りだったと言われた傷は未だに癒えていなかった。
「俺にはくれねえのか?」
「アンタにはタオルがお似合いよ。大体、傘なんてあげたらもう帰って来ないでしょ?」
「ずいぶん冷たい飼い主だな」
 二週間ぶりだというのに男の様子は何も変わっていなかった。残念なことに時間はたっぷりあったので飼い主らしく観察をしてみたが、爪の長さまで変わらないとは一体どういうことなのだろうか。案外、見えない首輪が沢山あるのかもしれない。どこかの飼い主による手入れが行き届いているのだろうか、と勝手に想像していた。
「久しぶりに帰ってきたと思ったらおセンチじゃない」
「死語どころじゃねぇな。別に、今日も雨だと思っただけだ」
「あら、雨嫌いだったの? アタシは雨は嫌いじゃないわ。アンタ雨降ってないと帰って来ないし、この視界の悪さならアタシはそこらの女に負けないくらい引く手あまたになれるのよ?」
「視界を狭めた舞台で狩りをする部族か」
「誰が部族よ誰が。麻縄巻いて引きずり回すわよ!」
「お前が馬役か?」
「何でよ! せめて攫われた町長の娘くらいにしなさいよ!」
「要求が多いな」
「こっちはいつだってシンデレラなのよ。いい? アタシはお姫様なんだから」
「王子様が現れるのを待ってるって?」
「そうよ。ちょっと野太いお姫様がいたっていいでしょ?」
 姫にしてはデカすぎると言いたいのだろう。キン肉バスターで沈めた後に牛丼を食べている方が似合うと言った客と同じ目に遭わせてやろうか。確かにその辺の王子様よりは間違いなくアタシの方が強いけれど、それでも守ってくれそうな筋骨隆々王子様を夢見たってバチは当たらないと信じたい。
「姫ってのはもっと淑やかで、髪は長くて、今にも折れそうな女なんだろ?」
「姫にだって個性くらいあるわよ。ちょっと股間が膨らみやすい姫だってきっといるわ」
 自分のものは無いけれど、と付け足した。元々同じ物をぶら下げていたが、これでもアタシはお姫様なのだ。必要ないものは取ってしまえと突貫工事でさよならしていた。
 到底理解できないという顔をしていた。それもそうだろう。ぶつが無いと男というのは困ることの方が多いのだ。それなりに優秀な法律の外側にいる医者のおかげで苦労は特になかった。それでも、実際になってみないとこの身体の構造は理解できないものだと思った。
「下取って上入れたのか?」
「そんなにアタシに興味があるわけ?」
「お前にというより、生命の神秘に興味がある」
「そこは嘘でも肯定するところよ。まあ、上は入れてるわよ」
 総工事費は気軽に口にできる金額ではない。かなり苦労して貯めたお金が一瞬で消えてしまった。流石に四桁は大きすぎた。工事が癖になってリフォームを繰り返す同業者も少なくはないので、それに比べればマシな部類に入るのだろうと分析していた。
「思ってたよりちゃんと女なんだな」
「引っ叩かれたいのね。分かったわ。歯ぁ食いしばりなさい」
「遠慮しておこう。歯だけじゃ済まなさそうだ」
「嫌ねぇ。ちゃんとブラックジャックに連れてってあげるわよ」
「病院送りは確定なのか」
「もしかしてゴッドハンドの方がお好みだった? やっだ、それならおススメのお店紹介してあげるわよ?」
「姫にしては言動が汚すぎるだろ」
「下ネタの一つも言えない生娘より楽しい時間を送らせてあげるわよ」
 生娘という時点であらゆる部分の負けが確定している戦いだが、世の中は生娘が好きな男だけで構成されているわけではない。その中のさらに特殊で狂った人間という、選ばれた勇者だけがアタシたちの剣を引き抜くことができるのだ。いや、剣は捨ててしまったが。剣を受ける鞘になることはできるのでギリギリセーフだろう。守られるだけの姫でなく、勇者の剣の鞘としてパーティにいる姫というのも悪くはないはずなのだ。
「そんな姫は嫌だ」
「大喜利のお題じゃないのよ」
「どうせなら細くて守りたくなるようなやつがいい」
「アンタ案外普通の趣味してるのね」
「悪いか」
「いいんじゃないの。男はいつでも夢を見る馬鹿なんだから」
「辛辣だな」
「だって、あんまりにも普通のお姫様なんですもの。髪は長くて、身体は細くて、守りたくなっちゃうような女の子なんて」
「お前も髪くらい伸ばしたらいいじゃねえか」
「伸ばしたら王子様が迎えに来るってなら考えてあげるわ」
 この感情は理解するべきではないと思った。ペットの理想のお姫様があまりにも遠くかった。そういうお姫様がいたのだろう。これは推測なんて生易しいものではない。確信と言ってもよかった。こういうときの女の勘より強い証拠はないのだから。
 お姫様なんて人それぞれだと言った後のこれは少しどころじゃないものを心臓から持っていってしまった。アタシはそれなりに気に入っていたのだ。たまにしか帰って来なくても、最後はこのお城が家になればいい。そんな希望を抱いていたほどに。勝手に期待して勝手に砕けるとはなんて自分勝手なのだろうか。だからアタシは性別も全てを捨てたというのに、こうして結局繰り返してしまうのだ。
「白馬探すところからか」
「金持ちが遊ぶところにならいるんだから大丈夫よ」
「そこだけリサーチしてるのかよ」
「迎えがないなら自分でするくらいの気概がないとこんなご時世でお姫様なんてやってらんないのよ」
「そりゃあ逞しいな」
「どんな馬でも乗りこなしてみせるわ」
 オトナの乗馬クラブなんて響きはとても昼間に話せるようなものではなくなりそうだ。野太い女子会のテーマにしてもいいかもしれない。馬も乗れるオネェというのも新しくて悪くないような気がしてきた。気分はいつでもマリーアントワネットなのだ。ないものねだりばかりしているようなその辺の女に成り下がってたまるものか。反骨精神こそ力の源である。
 そうやって茶化してみたものの、自覚した感情というのは隠すのが難しい。欲が出た。この関係に最も必要がないと言ってもいい欲だ。忘れるにも蓋をするにも必ずどこかで隙間から出てきてしまう、そんな欲だった。
「でも、悪くないんじゃねぇか? お姫様になりたいってのは」
「明日は雪でも降るのかしら」
「俺は嫌いじゃないって話だ。何もないよりずっと立派だろ。いつかの何かを夢見ながら生きるってのは」
「……傘を差さないよりは立派なのかもしれないわね」
「だろ? だからこんなデカいお姫サマも嫌いじゃねぇ」
 
【青】
 男の笑った顔を見たのはそれが最初で最後だった。どうしてこのタイミングだったのかは、いつまで経っても分からなかった。それでも、ペットの笑顔は想像の数倍綺麗で、それを作れる本物のお姫様が羨ましかった。あのときのアタシは笑えていたのだろうか。馬鹿ね、こんな美人なお姫様嫌おうって方が難しいのよ、そんなことを言った気がする。もう記憶もあいまいだった。あれから二年が過ぎた。一つの季節を過ごすと、アタシのペットはぱったり姿を見せなくなった。
 猫は死期を悟ると飼い主の前から姿を消すという。猫と呼ぶにはいささか可愛さが足りなかったような気がした。果たしてあの男は猫だったのだろうか。こんなことを思い出すのはいつだって雨の日だった。ペットの話をした常連はあの後できた可愛らしい彼女と結婚し、今や一児の父となっていた。時が経つのは本当に早いものだと思う。こうして季節はまたアタシだけを置いて過ぎて行こうとしているのだから。
 今日もアタシはお姫様だった。夜のお城のお姫様。毎晩違う衣装で開かれるどうしようもない舞踏会のために乗り込む電車はかぼちゃの馬車のはずだった。シンデレラには魔女がいた。じゃあアタシには何がいるのだろうか。魔女すら自分で演じるのなら、いっそ王子様だって自分で演じてしまえるような気がした。らしくない。王子様だけは信じて待ち続けなくては、お姫様でいられなくなってしまう。
 逢魔が時だからだろう。どこかこの世じゃないような、そんな奇妙な感覚に襲われてしまうと少し神経質になってしまう。人間なんてそんなものだ。意味のないことに意味をつけて安心したがるのだ。弱くなってしまったのではない。アタシはいつでもお姫様でいなくては。
 ちちんぷいぷい、と心の中で唱えていた。魔法が使えるお姫様も悪くない。あの男ならそういうのではないだろうか。そんなことを考えながら顔を上げた。
「えっ……」
 見覚えのあるレインコートだった。相変わらず傘を差していないのだろう。少し湿ったその色は忘れたくても忘れられた試しがなかった。
 人の波に逆らわず早い足取りで電車に乗った。生きていたのか。じゃあ猫ではなかったのね。そんなまとまりのない言葉が頭をめぐっていた。どうするのが正解なのか、今のアタシには分からない。二年も帰って来ないペットへの言葉など、今まで生きてきた中で考えたこともなかったのだ。
 元気だった? アンタ、相変わらず傘差さないのね。ほら、タオル貸してあげるから、またお城へおいでなさいな。何よ、舞踏会へ招待してあげるって言ってるんだからありがたくついて来なさいよ。
 馬鹿ねえ、アタシがそう簡単に忘れるわけないでしょ? アンタはアタシのペットなんだから。拾ったら拾ったなりに責任くらい持ってるわよ。どうせまたお腹でも空かせてるんでしょうから、温かい食事くらい出してあげるわよ。
 頭の中のアタシは呆れたように笑えていた。口の端も震えていない。それなのに、本当のアタシときたら情けない。隣の車両からその顔を伺うだけで精一杯なんだから。それなりに込んでいるおかげか、男からこちらは見えていないようだった。それでいい。今見つかってもまともに話せる自信などなかった。
 舞踏会のためのヒールは男を見つめるには丁度いい高さだった。少し痩せたように見えた。二年も経ったのだ、外見が変わるのも仕方がないのだろう。それでも、そんな目を見たことがない。あの季節を過ごした男はそんな悲しい目をしていなかった。
 伸びた髪の毛が顔を隠した。それでいい。無性に泣きだしてしまいそうなこんな顔を間違っても見られたくなどないのだ。アタシも馬鹿だから、あのまま髪を伸ばしてしまった。男が愛したお姫様に少しだけでも近づきたい、なんて、本当にどうしようもない気持ちが全てだったのだ。
 男の笑顔は私のものなんかではなかったのだろう。あの男の全ては、かつて愛したお姫様のものだった。お姫様に何があったのかなんて知らないし知りたくもないが、きっともう二度と会えないような場所へ行ってしまったのだろう。アタシのペットはそういう男だったのだ。
 電車の扉が開いた。下りるのはアタシで、アイツじゃない。これが最後だろう。男の顔を見ればそれくらい簡単に理解できた。さよならバイバイ、元気でいてね、なんて言うのは正しくないような気がした。精々死んだら地獄で会いましょう? アタシもアンタも天国なんて幸せな場所へは行けないんだから。
 振り向いたのは電車が発車する直後だった。一体どこへと向かうのだろうか。少しでも幸せな方向へ近付けばいい。アタシのペットはそれを選ぶような男ではないが、それが今のアタシの欲なのだ。アンタの背中はそんなに小さかったのね。見慣れない後ろ姿は、酷く小さく、今にも泣きだしてしまいそうに見えた。伸ばした手は届かない。届いたところで、どちらも何もできないのだろう。
 静かに唇を噛んだ。綺麗に塗ったルージュは落ちてしまっただろうか。ここにバスタオルがあるなら伝言を書きたかった。お姫様がいなくたって、王子様は傘を差していいのだ。お姫様がいなくたって、立派な体格をしたどうでもいいお姫様となら、馬鹿な話をしていいのだ。
 真っ白なタオルがあったなら、ルージュの伝言はさぞ映えたことだろう。誰よりも強く美しいお姫様になるための、真っ赤なルージュだった。
「さよならだけが人生だ、ね」
 出会いと別れを繰り返し、人は明日へと進んでいく。良い縁ほど早く消えて行ってしまう。あのペットとの関係には丁度いい言葉なのだろう。さよならだけが人生だ。だから生きろ。そんな言葉をつけて大きな声で言ってやりたかった。
 きっとアタシたちの出会いには意味は無かったのだろう。そんなものなのだ。お互いにとって、名前なんていらないような、そんな関係でしかなかったのだから。たまたま雨の日に歩いた場所が一緒だっただけの、そんな偶然があっただけの、他人同士にすらなれなかった可哀想なお姫様と王子様の話だった。
 軽い音と共に舞踏会への階段が広がった。この道を歩けば、いつもと何も変わらないお城が姿を現して、いつもと何も変わらない招待客たちとの日常が始まるのだ。引きずり込まれそうな時間は終わりを告げた。ここからは夜のお姫様のための時間が始まる。鐘が鳴るのは十二時ではない、どうしようもないお姫様のための時間がやって来る。
 視界を狭めていた雨はいつの間にか上がりそうだった。雨の降らない街にアタシのペットはやって来ない。そうしていつもの夜が始まるのだ。
 白を失った街は、消えない光を反射し続けた。それから、隅に佇むお城のお姫様の元に雨が降ることはなかった。【終】

ALICE+