Sunday
それ以上はやめるんだ。

青年が偶々裏通りを通りかかった時、真冬の中、湖の前に佇む女の後ろ姿があった。

「なんですか、突然」

その女は、一向に振り返らず、背を向けたままカカシのように、或いは周りに生える一本の木のように突っ立っている。

暗闇で息を潜めたその姿は、正に異様だった。

「馬鹿な真似はよすんだ、そんな事をしてもあなたは救われないよ。永久に過ちと向き合わなければならなくなるんだ……」

「私も共に逝くのです。ここが私たちの墓です」

青年は懸命に引き止め続けた。

やがて女は漸くといった頃、振り返った。その姿は一口に言えば霰もなく、不衛生であり、髪を始め所々が散らかっていた。
そして、腕元に赤児を抱えていた__

青年は固唾を飲んだ………

この生死の岐路にあるような緊張感は、幾度も体験した青年にすら、慣れないものだった。

しかし前触れなく女は前進して、湖の中に落ちた。

青年は肩にかけたショルダーバッグを投げ捨て、女の後を追うように湖に飛び込んだ。

温度が消え去り、冷たい空気の漂う真冬。
そこに晒された湖は身体を劈くように冷たかった……。

青年はまず、赤児を地上に引き上げた。
すぐに湖の中に引き返し、女を探した。だが、女の姿が思ったよりも早く沈んでいたらしい。
姿が見えない。

同じ人間でも、赤児と成人女性の体積が圧倒的に違う。故に沈むスピードが違う。その為、確実に助けられる水面に近い赤児を引き上げた。
命の尊さに優先順位があると言うなら、間違った判断ではない。
しかし、勢いよく沈むことが想定できたら女を先に引き上げるべきだったかもしれない。
いずれにしても、赤児は水面に浮いていた可能性が高かったのだから……
湖は思ったよりも深かった。しかし所詮は湖らしくすぐに底が見え、底に終着していた女を引き上げた。

青年は、今までになく、全力で足を動かした。
地上に出ると酸欠寸前の状態だった体に、いっぱい空気取り込んだ。
そして、よろめいたがしっかりと両足を着いて、2人の息を確かめた。
急息の中に、大きな溜息を吐いた。

やがて、夜下で1時間は経った。

「平気か?」

青年は女の肩に優しく手をかけた。
本当ならば、上着の一枚かけてやりたいほどに、薄着であった。
それから察するに、本当に“してしまう“気だったことがうかがえた。
最初は自分が来たことで、その選択に至ったとも考えたのだ。

生憎、同じものを着用するのが常であった青年は、年中と薄着で、上着というものを持ち合わせていなかった。

青年は赤児を抱えた無言の女を、老婆を率いるようにして明かりの集う所へと歩んでいった。
すると、突然にすすり泣きが聞こえた。
一体、何事だろうと青年が伺うと女は鼻水を垂らしながら号泣している。

「ぅっ……、うぅ…!」

漏出していた声は、苦しそうな喘ぎにも聞こえた。
恐らく女はある事に対する後悔と、自責の念に駆られていたに違いない。

青年はそれらの複雑な心中を察し、何も述べることはなかった。
だが内心、引き止めたことが気がかりで仕方がない。今は素直に引き返しているが、次は1時間も猶予は与えてくれないことだろう……
仮に今ここで励ましても、恐らくその場しのぎに終わり、また彼女は苦しみに耐えられなくなる。

「あなたは……身寄りはいないのか」

いれば少しは救いだった。けれど女は首を横に振った。
青年は金色の髪を滴らせて、そうか、といった。

「………私、落ちた時あの子を離してしまった……抱いていられなかった……わたしの腕から逃げるように抜けてしまったの………」

「……なら幸いだな。」

「え……」

「新生児は呼吸器官を操れない。だから鼻腔から水が入れば、反射的に水を返すこともできず、小さな肺はすぐに水に浸かってしまう。あなたが少しでも手を離すのが遅かったら、……助からなかったろう」

でも私は殺す気だったのよ、と言わんばかりの面持ちだった。
一方に皮肉にも、殺そうとした手が、命を救ったようにも聞こえた。不慮の救済というべきだろうか……女は髪の茂みに隠れるように俯いた。

青年は街までの帰路、自身が昔読み漁った情報誌や、興味深い浮説を持ち出した。

「随分前だ。

世界一寒い国と言われるサーハ共和国で、飼い主がペットの犬に水をかけて、屋外に放り出した。

気温はマイナス32度の氷点下。
約2時間、人間と違い毛があるといえど、水を含んだ服を着ていると言えば身もよだつ話だ……。

獣医が駆けつけた時にはもう完全に凍結されていた。
幸い、あるかもわからないほどだが息の根はあって獣医は懸命に賦活を促した。

助けて、と目で訴え犬は微かに手を動かしたが、もう手遅れだったんだ。
脳は動くが、その他の機能、あらゆる細胞が殆ど死んでいる。

まだ意識はあり、生きているというのに死んでいるのと同然だなんてな……。
非常だろう。犬は1歳ほどだったらしい。
不幸な事に子は親を選べないのさ」

女は、そうね、と頷いた。

そうして話しているうちに、女の家らしい場所までたどり着いた。
女を見送ると、青年は立ち去ろうとした。

女は礼をしたい事を理由に引き止めたが、断るのだった。

「すまないが、行かねばならないところがあるんだ」

「ならば名前だけでも……」

私は……クラピカだ。

青年はそう言うと、風のようにその場からいなくなった。
彼女に対する不安も、どこか和らいでいた。

女は玄関前で、柔らかな毛布に自身と赤児を包めて、寒そうに白い息を吐きながら、青年が見えなくなるまで見届けたのだった。
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