温室の名前


此処に来てから暫く経った。然し椿は、日中はエリスと普通の子どものように__と云うには些か華美であるが__生活していた。
かと思えば、客人が来れば椿は奥の部屋に押し込められる。エリスは椿と遊べない事が不満なのか、閉じられた扉の向こうでツンと澄ました態度をとっては鴎外を泣かせていた。
この状況に椿も慣れ始めた頃、その日もいつもの様にあちらの部屋から客人が去るまで扉を背に腰を下ろして待っていた。


祖母の家を出てから幾日か過ぎたが、椿は一度も異能を使わなかった。最初は、鴎外も異能を利用するために引き取ったのだと思っていた。然し、予想外にも鴎外は椿に異能のいの字も云わず、それを使うことを強要しなかった。
椿は不思議に思っていたが、忌々しい父親の許での事が身に染み付いている自分に気が付くと、直ぐに考えることをやめた。
この異能は、自分のためのものだ。誰かに使われる為のものじゃない。私が私の為に使うものだと、無意識に椿の手に力が入る。

「…」
未だ扉の向こうでは客人が居座っているらしい。長い時間話し込んでいるのか、椿が部屋で待つ時間が最高記録を叩き出そうとしていた。
椿はそろそろ腰と尻が痛くなってきたので仕方なく立ち、部屋の中をうろうろする事にした。放って置かれるのは慣れていたが、最近は嫌と何と云おうとエリスが構って来ていたので久々の静けさに少しの寂しさを感じる。以前なら暗い座敷牢に1週間2週間、一人でいることなんて当たり前だったのに。
部屋の中は明かりを付けていなかった為に薄暗かった。窓の外を見れば日は傾いて、月が顔を出している。青白いそれに、思わず椿の頭に紫の目の男がフラッシュバックした。

“其の小さな手で、今迄どれ程の罪を犯してきたのでしょう”

ぎゅっと拳を握る。今は無い短剣が手のひらにあるかのように感じた。然し、その手を見てみれば、当然だが短剣など握っていない。思えばあの男の一言で、椿の温室は崩壊し、異能を使うまでに至ったのだ。
あの夜、異能を使った日。あの感覚を椿は覚えていた。
凡てが私の手のひらの上にあるかのように感じた、見えている凡ての人間が私の思い通りになった。目を閉じて、あの男の幻影を断ち切るように意識を違うものに集中させた。見るのは隣の部屋、そして此のビル。凡ての階層と凡ての人間を私に教えて。

「“箱庭”」

その異能の名を口にする。
途端に、ドッと情報が溢れ出す。そしてそれは再構築され、立体ホログラムのように椿の脳へと映し出された。通常であれば、その情報量の多さに椿程の子どもの脳は耐えられない筈であった。然し椿はその情報に相当する脳の容量と、それを再構築する処理能力を、奇しくもあの父親のマフィアの座敷牢で会得していた。
つまり椿の“箱庭”は、脳の容量と処理能力によって使用範囲と効果が大きく異なる。そして椿は、それをある程度有効活用できる脳を持っていた。そして、そのホログラム化した場所にいる人間であれば、椿はそれすらも自在に操ることができた。
それは異能の中で最も忌み嫌われる、“精神操作”に類する異能。空間把握と精神操作の合わさった「箱庭」は、正に椿の支配する世界と言っても過言ではない。
​─────…然し其れにも、弱点はあった。

ズキ、

「ッい、嗚呼…!」

ポートマフィアビルの最上階は地上から数百メートル離れている。その凡てを“箱庭”化した椿の脳は、流石のその容量と処理能力をしていてもパンク寸前だった。椿は異能の制御を充分には出来ていなかった。異能を使えば制限無く箱庭は広がり、何れポートマフィアアジトを超えて地上の凡てを椿の支配下に出来る。然しそうすれば、あまりの情報量に脳の処理は追いつかず、何れ脳死する。椿を頭痛が襲ったのは、脳がこれ以上は危険だと警告を出している証拠だった。

頭を抑え蹲る。異能を解除すると脳へ滝のように流れ込んでいた情報は消えた。

「はーっ、は、う……」

ミキサーで脳を直接掻き回され、金槌で頭蓋骨ごと砕かれているような堪えきれない痛みが椿を襲っていた。
息付く間もなく与えられる拷問のような痛みに立つことも出来なくなった椿は、暫く薄暗い部屋の中、冷たい床に体を預けていた。チラリと見た窓には、月が高く昇っている。青白い光は椿を照らして、嘲笑わらっているように見えた。