虚の棺
少女が蹲っている間に、あの魔物は去った。月はいつの間にか低く、じき朝日が昇る。少女はフラフラと覚束無い足取りで、人のいないマフィアのアジトから地下牢へと帰った。
「やっと帰ってきたか。今回も全員殺しただろうな」
ガタと座敷牢に誰かの手が掛かる。その声には嫌という程聞き覚えがあった。
少女の父親だ。
何も云わない少女に是ととったのか、父親は「そうか」と口を歪めた。
「今回は帰りが遅かったな、彼奴も心配していたぞ。帰った事を知らせたら大袈裟に安心していた。『頑張ったね』だと」
「………どうして、どうしてかあさんは会いに来てくれないの。あいたい」
「…、彼奴は今病に侵されている。お前に伝染らないように会わないのだと云っただろう」
頭がぼうっと重く感じた。少女は、あの魔物の言葉を思い出していた。虚ろな瞳で父親を見上げる。
嘘吐きの顔か、これが。こんなに醜い顔をしていただろうか。
殆ど無意識に、少女はその小さな口を開いた。
「死んだから、じゃなくて?」
「……何処で聞いた?」
瞬時に、父親の顔が一層歪む。
「また得意の盗み聞きか。溝鼠は本当に何処にでも沸いてくる様だな」そう云って、父親はぐしゃりと自身の髪を掻き毟る。そうしてじろりと少女を見遣ると、ガッと八つ当たりのように牢の格子を蹴り、言葉を続けた。
「嗚呼、……彼奴は死んだ。精神病に侵されて、呆気なく。本当に使えない、荷物ばかりになる女だった。お前を生んだこと以外はてんで役に立たなかったな!!」
バサリ。吐き捨てるような言葉と共に、資料の束が投げ込まれる。そこに次の標的が書いてあるだろう事は容易にわかった。然し、少女には最早其れを確認する必要は無い。少女が標的にすべきは、始末すべきは。
ここなのだから。
「お、おい…何をやっている? や、止めろ、よせ。銃を降ろせ、降ろせッ!!!」
頭が、熱い。
発砲音。人が崩れる音。マフィアが崩壊する音。毎夜聞いてきた少女の耳には、慣れ親しんだ心地好い音だった。
少女は此処を、此処の誰よりも知っていた。言わば此処は少女の庭だった。通常の通り道も非常の抜け穴も、部屋の配置も、その時間そこに誰がいるのかも記憶していた。然し、今日は何かが違った。手に取るように判るのだ。今どこで誰が何をしているのか。まるで少女の掌の中に此処が収まっていて、何処からでも此処を見渡せるような夢幻が、少女の目の前にぽっかりと浮かんでいた。そして、そこに映る人間すべてを、まるで人形遊びでもしているかのように自在に操れた。
嗚呼、一人。また一人と消えていく。己の手で己の口へと銃を運び嗚咽混じりに泣いて引き金を引く姿は哀れで、胸が空く思いがした。然しそれと共に、何故今頃になって異能が応えたのかと、少女は途方に暮れていた。
何故気付かなかったのだろう。早くこうして母と逃げれば良かったのだ。この地獄から、私が母を連れ出せば。
母は、死なずに済んだかもしれないのに。
もっと、少しでも早く。これが私に応えていれば、母は死なずに済んだかもしれないのに。如何して、今。と。
母は、一人で苦しんでいた。私と会っていた時も、正妻の存在に怯えて、助けてくれない父親に失望して、此処での居場所が無に等しい自分に絶望して。私という存在が、父に必要とされる存在が、唯一母の拠り所に成っていたのだ。然し、異能を望まれていた私は異能を使えなかった。父親はそれにイラつきを隠しもせず、正妻は母を更に責め立て、陰湿な嫌がらせを続けた。私は会う度窶れていく母に、薄々気づいていた。濁った目をしていた。暗く、黒い。此の世を何も映していないかのようなその目に気づきつつも見ないふりをして、母の僅かな熱に縋り付いて、この世に留めるようにきつくきつく腕を回していた。そんな私に、会えていた頃の母は弱い力で応えていた。それだけで私は幸せだった。まだ大丈夫だとその度に、根拠もなく安心していたのだ。そう、根拠も無く。
私が莫迦だったと気付いたのは、母と会えなくなって、すべてが崩壊してからだった。
壊れてしまった。母も、母の幻想も。私の温室が、完全に。
壊れたものは、戻らない。失われたものは、かえってこない。
二度と。
それならばもう、凡て要らない。
一晩にして、父親もそのマフィアの構成員も凡て残らず命を落とした。少女は異能を使った。それ故か、茹だるような体の怠惰感に、一人座敷牢で糸の切れた操り人形のように倒れ込み気を失った。
それが父親の許で過ごした、最後の日となった。