少女15歳
部屋には、静かに頁を捲る音が何時迄も響くようだった。窓は無く、有るのは天蓋が垂れるベッドと、周辺に積まれた本。
ベッドの上には膝を立てて座り、“クラウゼヴィッツ”“戦争論”と書かれた本の頁を捲る椿の姿があった。
1年。365日。年によっては366日だが、概ねの1年は365日間だ。
1年間、椿は部屋にいた。時間を潰すものは壁一面に誂えられた本棚、その中に収められている本のみ。椿は凡百ジャンルの本を読み漁り、時には鴎外に知識を教え込まれ乍ら1年を過ごした。
その間、椿は身体的にも成長した。1年前迄は父親のマフィアで不摂生な生活を余儀なくされていたため、その体は可哀想なくらい不健康で、戦って出来た傷痕は痛々しかった。然しポートマフィアのこの部屋で、本を読み耽り、時には鴎外の趣味に付き合わされ、エリスと遊び、飯も3食しっかり食べおやつ付きの温室のような暮らしをしてきた椿は、それこそアヒルの子が白鳥になったかのようにその貌を顕にした。
日を浴びない肌はもとより白かったが、手入れの行き届いたそれは更に白磁のようにまろやかな白さになっていた。
真っ直ぐに伸びた亜麻色の髪は同じく手入れされ、艶のあるそれは光を縫い止めたよう。
長い睫毛が縁取る瞳、高くもなく低くもなくスッと通った鼻、血色の良い唇。
それらが形作る少女の姿は、月の光のような儚さを感じさせた。
今や、一時期裏社会を騒がせた“マフィア潰し”だとは誰も思うまい。
パタリ。読んでいた本を閉じた椿は、そのままベッドへと背中から倒れ込む。ぼふりと柔らかく椿の体を受け止めたマットレスはクイーンサイズ。本を置いても寝られるこの快適なスペースが椿のこの部屋での主な活動場所である。
というよりは、これ以外にやることが無いという方が事実だ。
「飽きた」
凡百戦争戦略論に影響を与えた、著クラウゼヴィッツの戦争論。1章以外は未完のまま製本されたという代物だが、そこに書かれる内容は興味深かった。然し1年繰り返し読んでいれば流石に飽きが来るというもの。最初から最後まで暗唱する勢いで読み込んでしまった椿には、その本に最早新たな情報を見出すのは難しい。
(他の本を探すか)
そうは云ってもこの部屋の本棚の本は凡て、少なくとも2度は読んでいる。そろそろ鴎外に新しい本を所望する事を思案しながら、ベッドから降り、ペタペタと床に音を鳴らしながら本棚に近づいて物色を始めた。
本棚には、鴎外の私物と言われる本が数多く収められている。中でも戦争戦略論などの国家戦争に絡むものが系統では特に多く、エリスの選んだファンシーな児童書の隣に仕舞った時は拭いようもないミスマッチと違和感だった。
(森さんはきっと私をマフィアのために使いたいと思ってる)
椿は与えられる書物の系統から察していた。鴎外が自身をマフィアの戦力として育成したいということを。然し、
(でも、私は此処から出ちゃダメ…異能を使えばまた周りの誰かが死ぬ)
此処から出ればまた母や祖母のような被害が出る。私と私の異能によって殺される。私の大切な人や居場所ほど、早くそれを壊しに来る。
(……私の異能なのに、私の云うことを聞かないなんて)
椿は未だ自分の異能を制御することが出来なかった。1年前のあの夜以降、“箱庭”は使っていない。
使わない理由は様々だが、1つは鴎外に止められているからだ。異能を制御出来ないまま使い、ひとり部屋で倒れられているのは肝が冷える、と。
もう1つは、椿の根底にある種の恐怖が棲みついているからだ。止められない異能、それによって破壊される居場所、大切な人。椿は自身の異能の所為で失った。もう戻ることも取り戻すことも出来ないものをだ。
そして、また異能を使えば、居場所も、大切な人も壊す何者かが現れる気がしてならなかった。母にとっての父親、祖母にとっての魔物。
(……嫌な事を思い出した)
椿が異能を目覚めさせる引き金になった人物。あの夜に出会った魔物、フョードル・ドストエフスキーの顔は、もう朧気にしか思い出せなかった。然しふとした時に蘇るのだ、暗闇に浮かぶ紫水晶の瞳を。耳の鼓膜に溶け入るあの声を。
きゅっと震える手を握った。
▽
コンコン、と椿の部屋にノックの音が響いた。
この部屋に脚を運ぶ人は限られている。黒服か鴎外だろう。扉を開けたのは、矢張り鴎外だった。然しその後には黒服も見える。
「…首領」
「おはよう、椿ちゃん。…ふふ、首領だなんて。いつもの様に『森さん』で良いのだよ?」
今迄も、後ろに黒服の部下を控えさせている鴎外に、椿はたどたどしく「首領」と口にしたが、鴎外は決まってそう云うのだ。然し「森さん」と呼べば後ろの部下に睨まれるため、椿も仕方なく、部下がいる前では「首領」と呼ぶ。
「おいで、椿ちゃん」
そして、部屋に閉じこもってから早1年。初めて鴎外は椿を連れ出した。