閑話 人は見かけによらない


見事執務室から脱走を果たした椿は何処に逃げ込むべきかと考えていた。一先ずエレベーターに乗り、硝子張りのそこから見える街をぼんやりと眺める。
流石にこの格好で街に出るのは目立ちすぎるだろう。其れにただでさえ動きづらいのだから出来れば動かずに隠れていたい。
其れならば、と答えは直ぐに出た。

「うん、引きこもろう」



地下、椿の部屋がある階にエレベーターは止まった。
あの部屋は以前は牢屋だったが今では椿の城だ。あそこ以上に椿が知る場所は無い。其れにこの階全域に箱庭を巡らせておけば何時誰が来ても取り敢えずは逃げることが出来る。名案だ。

意気揚々と部屋の扉を開けると椿は扉を直ぐに閉めたくなった。

「やぁ、椿。おかえり」
「やっと戻って来たか…って椿、何だその格好?」

頭がくらくらした。嗚呼、部屋に入る前に箱庭を使っておけばよかった。其れなら椿の部屋で我が物顔で居座る太宰と中也の存在を事前に知ることが出来ただろうに。事態は確実に面倒くさい方向に転んでいる。椿が出来ることは1つだった。

ガチャン
「あ、閉めた」
「てめっ閉めてんじゃねぇ!!」

扉を閉じたと同時にスタートダッシュ。然し幾ら椿の足が早くとも、着物の可動範囲がそれを邪魔した。結果あろう事かエレベーターにその手が届く前に捕まった。
ひょいと軽く俵担ぎされ元々苦しい腹部に更に負荷が掛かる。中也の肩に揺られながらこの状況からどう逃げ出すかの算段を考えていたが、目の前で太宰がニコニコと見張っている為、凡百方法が絶望的な形で終わる最後が垣間見える。

「何逃げてんだ手前……」
「いやぁ、寧ろ今迄よく逃げないなぁとは思っていたけれどね。今日は記念日だ!」
「……一応聞くけど何の?」
「君が私たちの教育から逃げたけど捕まった記念日」
「長ぇよ!!あと何だその名前」

ガチャリと椿の部屋の扉が開かれる。あれほど城だと思っていた部屋がこの2人の所為で牢屋に逆戻りだ。トスリと中也に降ろされる。勿論「逃げんなよ」と釘を刺されながら。シャラと髪飾りが耳元で鳴った。

「…姐さんか?」
「だろうねぇ、趣味がいいもの。中也と違って」
「あ゛?殺すぞ」
「うふふ、綺麗な着物だ。よかったねぇ椿」
「……」

するりと太宰の手が帯をなぞる。そのまま上に手を伸ばすと、化粧の施された椿の頬を手のひらで包み込んだ。
とてつもなく悪巧みを考えている顔だ、と椿は察して身構える。キッと太宰を見ると対照的にニコリと笑顔を返された。

「いやぁ、1度やってみたかったんだよ」

ガシリ、肩を掴まれる。片腕は腰を通り過ぎ、背中の帯を掴んだ。真逆、そう思った時には既に遅かった。

「うふふ、お代官様ごっこ」

次の瞬間、世界が目まぐるしく回転した。否、回転しているのは自分だった。三半規管が混乱している。中也の困惑する声も聞こえた。

太宰はお構い無しに椿の体から帯を引き解いていった。よいではないかというお決まりの言葉付きで。
椿は成す術も無かった。太宰が帯を巻き取り終わる頃には目が回り、折角纏め上げられた髪も幾らか落ちてしまっていた。
椿はぐらぐらと揺れる感覚に耐えきれず、丁度後ろにあった天蓋付きベッドへと倒れ込んだ。床じゃなかっただけマシだと思いたい。

「…ハァ、何やってんだ太宰」
「聞いてなかった?お代官様ごっこだよ。中也もやるかい?」
「いい。それより椿起きねえな。大丈夫か?」
「椿?」

ひょいとベッドを覗き込んだ太宰はゴクリと息を呑んだ。

散らばる髪。帯が抜き取られ、乱れた着物の合わせからは、細い首と白い鎖骨が見えた。
着物の紅によって其れは蝋を溶かしたように白く強調され、きめ細かく、思わず触れてしまいそうになる。
彩られた唇は男を誘い込むかのように薄く開かれていた。
閉じられた瞳、悩ましげに寄せられた眉。熟れた果実のように放たれる甘さに、太宰は思わず目が釘付けになる。

ギシ、と太宰がベッドに膝を着いた。

乱れた着物の合わせから、椿の鋭い蹴りが太宰のがら空きの胴に叩き込まれる。
ベッドの下に落とされた太宰は「酷い!」と声を上げたが内心ではほっとしていた。危なかった。何が、などと聞くのは無粋である。
次いで中也が同じく椿を見て一瞬動きを静止したが、直ぐに介抱に回った。

「きもちわるい……」
「水飲むか?」
「今飲んだら吐く」
「やめろよ」

「中也、私も介抱が必要だよ」とベッドの下から声が聞こえたが、中也は「手前はそこで寝てやがれ」と一掃した。
矢張り教育は中也に乗り換えた方がいいかも知れない…と未だ目が回っている椿はぼんやり考えたが、着物の重みと胸から腹のあたりの気持ち悪さに思考が押し流される。目も開けれられない程では無くなったが、頭はまだ揺れているような気がした。

ふわりと体が浮く。中也が横抱きにしてきちんとベッドに体を寝かせてくれたらしかった。ついでに覚えがあるのか、着物の合わせを直して呉れる。太宰の所為で抜かれ床に落ちた帯は畳まれた。

「……ありがと」
「ハァ、太宰のアホの仕出かした事だ。今更だな」
「…」
「まァ、手前が逃げた挙句に起こったことだけどな」
「………………ごめ、」
顔に天蓋ではない影が掛かる。首元を何か擽ったいものが触れた感覚の後、軽いリップ音が耳に入った。


「……これは介抱料ってことで」


暫く目眩は収まりそうにない。

太宰から中也への教育乗り換えは暫く保留にしようと決めた椿だった。