信なば諸共
椿がポートマフィアアジトに帰ると、見知った帽子頭がエントランスに誂えられたソファに腰掛けていた。
「朝帰りか?不良娘め」
「…不良って」
ポートマフィアに不良も何も無いだろう。そう云いたげな目線を寄越すと中也はソファから離れ、椿に近寄る。
「………無事だな」
「傷一つない。敵は凡て殺した」
「そりゃあ良い。太宰の野郎が『帰ったら伝えろ』だと…報告までが任務だ」
中也が此処に居たのは太宰の伝言を椿に伝える為だった。幹部様は人使いが荒いと愚痴を零して、自分の任務があるからと中也は去っていった。椿は暫く中也の背中を見守っていたが、其れが見えなくなると伝言通りに太宰の執務室へと足を向けた。
太宰の執務室前まで来ると、椿は一応その扉をノックした。部屋の外に見張りは居ない。然しその扉の向こうには2つの気配があった。暫くすると「誰だい?」という声が扉の向こうから呼びかけられる。その声は確かに太宰の声の筈だったが、酷く冷たい。扉の僅かな隙間から冷気が滲み出ているようだった。
「…椿。任務の報告に来た」
「! 君か。入り給え」
僅かに柔らかくなった声。
もう1人の気配が気になる所だが、椿は冷たいドアノブを捻り執務室内へと足を踏み入れた。
そこは分厚いカーテンによって殆どの光が遮断されていた。然し何かに切り裂かれた隙間から僅かに差し込む光が部屋を疎らに照らす。
アンバーの机も、革張りのソファも、壁も、絨毯も、元々は美しく新品のような輝きを放っていた筈だが、今ではそのどれもが抉られたような傷が有り、見窄らしい変わり果てた姿となっていた。
椿は息を呑む。ここで何が行われていたのか想像してすぐに太宰の姿を探した。
太宰は部屋に悠々と立っていた。包帯や頬に当てられたガーゼは相変わらずで、それはこの部屋の状況で受けた傷ではない事がわかる。
寧ろ彼の足元で、床に膝を着く黒い少年の方が明らかに重傷だった。
「! 太宰、」
「遅かったねぇ椿。私も中也も君の帰りを待っていたのに、待ちくたびれてしまったよ。さぁ、報告を聞こうか!」
「……事前に読み込んだ資料と地図で周辺を記憶し、敵アジトを箱庭に閉じ込めた。後は自殺させたり、仲間割れさせたり…全員殺した。アジトが灰になるのを見届けるために朝まで待っていた」
「そうか。それで朝帰りというわけだね…お疲れ様。これで君への私の教育は終わりだ」
足元の少年に1つも気をやる素振りを見せず、まるでこの空間には太宰と椿しか居ないかのように振る舞う太宰に、椿は内心戸惑っていた。
その少年は芥川だ。先日から太宰の上機嫌の元となっていたのだから、どれほど優秀なのだろうと思っていたが、これではまるで真逆じゃないか。
太宰は椿に近づくと、態とらしくとびきり甘い声で優しく囁いた。手のひらが椿の頬を滑る。
「帰りが遅くて心配したよ。ともあれ、傷は無いようだから安心だ。帰って休んでいいよ…それとも、私の部屋で休んでいくかい?」
「………いい」
パシリと太宰の手を掴んだ途端、芥川からぶわりと殺気が膨らんだ。其れは黒い獣となって此方に飛び込んでくる。不味いと察知した椿は掴んだ太宰の手を引き背中に庇おうとした。
然し太宰は其れを予見していたのか、引かれた手をそのまま椿の体に絡ませて抱き込む。これでは箱庭を使うことが出来ない。太宰の背中に迫る黒。
「太宰!!」
「心配いらないよ」
ハッと太宰を見る。その顔は愉しそうであり、嬉の感情も読み取れた。然し何を考えているのかは読めない。
黒獣はその凶暴を叩きつける前に、太宰の手によって霧散した。其れを見届けると太宰はパッと椿から離れ芥川へと向かっていく。そして勢いそのままに、蹲る芥川の腹へ脚を叩きつけた。それも1度や2度では無く、何度も何度も。
「!! ぅゴホッ!ゴホッ、う゛、がッ!」
「……本当に、君は呆れるほど単調だ。あまり私を失望させないでくれ給え」
興が削がれた。今日は終わりだ。私が帰ってくる前にこの部屋から消え給え。そう云うと太宰は傷だらけの芥川を置いて、椿の背を押して執務室を出た。黒獣は追ってこない。
「…あれは」
「君の教育と違う、と云いたいのだろう?彼はあれでいい。あれが最適解だ」
「……」
「私は少し出掛けてくるよ。椿も来るかい?」
「いい」
「そうか。……まぁ、彼の事は君が気にすることではないよ」
まるでこれ以上は関係ないのだから口を挟むなとでも云うようだった。芥川の話をする太宰の声は終始冷めていて、顔は酷くつまらなさそうにしていた。太宰は名残惜しそうに椿の背中をする、と撫でてその場を後にした。
椿は太宰の姿が見えなくなると未だ動かない室内の気配に駆けた。勢い良く扉を開けたため大きな音が室内に響く。其れにビクッと体を反応させた芥川だったが、消耗しているのかそのまま黒獣を出すことは無かった。
コツ、と靴が鳴る。椿は念の為箱庭を執務室内に張り巡らせた。芥川は動く気配が無い。椿はしゃがみ、芥川にその手を触れようとした。
刹那、頬に赤い線が引かれる。
椿は咄嗟に箱庭で芥川を拘束した。芥川の獣は布の可動範囲内であった椿に攻撃を仕掛けたが、想像以上に消耗しておりそれ以降は指一本動かせなかった。然し彼のこの行動は、彼の地獄で培った精一杯の威嚇だった。体は動かせなくとも、瞳はギラギラと椿を睨みつける。
(…手負の獣)
まさしくそれだった。来るもの凡てを拒絶する獣だった。今の芥川は異能を操る事は出来ない。然し例え頭だけになっても芥川は自らのその歯で椿の手を噛みちぎる。そんな気迫があった。
然しこの状態で、芥川はどうするつもりだろうか。何れ太宰が帰ってくる。それ迄に彼が回復し自力で部屋を出ることが出来るとは考えられない。そうなると帰ってきた太宰にまた腹に蹴りでもなんでも入れられ雑巾のように外に放られるだろう事が容易く想像できた。
椿は睨みつける芥川と暫く目を合わせ考えていたが、折角出来た弟弟子だ、世話を焼こう、という結論に至ると噛みつかれないように箱庭で芥川の口をきゅっと閉じ、その骨と皮と傷だらけの四肢を担いだ。戸惑った芥川の声にもならない喚きが聞こえるがこの際無視した。この箱庭で椿に勝てるものなど先程出ていった太宰くらいだろう。
荒れた部屋をぐるりと見て芥川の異能の凶暴性を再確認する。この細く貧相な容姿に騙されて今までどれほどの者が獣の餌食になっただろうか。そう考えて自分も似たようなものか、と1人自嘲して、椿は今度こそ太宰の執務室から出たのだった。
▽
「施しなど不要…!離せ女!僕を愚弄するか!!」
「口だけは元気だね。………あっ間違えた」
「〜〜ッどうやったら包帯を締め上げる事になる!このッ止めろ!離せッ!」
「動かないでよ、手が滑って首絞めそう」
「くッ……………」
「暴れたら絞める」
「……」
確実にやる。この女はやる。
漸く黙った芥川に、椿の脳内ではカンカンカンとゴングの音と共にwinの文字が浮かんだ。
芥川は医務室まで担いでいる間に、何とか体を揺らすくらいの力が戻ったようだった。しぶとい…否、頑丈だ。然し異能を出さないところを見ると短時間での回復はこれが限界だろう。
そうと分かった椿の行動は早かった。医務室に着くなり担いでいた芥川を「重い」とベッドに放り投げ、医務室の人間は騒然とした。それもボロボロの少年を投げたと思ったら端的に「骨折、打撲、擦り傷」と云って今度は少年の衣服を剥ぎ取り始めたのだから、一同は暫くぽかんとしていた。
然しそれが処置が必要なものだと分かると慌てて少年を取り囲み始める。芥川は突然多くの人間に囲まれ、その鋭い目で威嚇した。然し武器である筈の服は椿に剥ぎ取られてしまい、結局見ず知らずの人間に処置を施されて現在に至る。
最終的に、体力と共に精神もすり減らした芥川へお構いなく包帯を巻き始めた椿を、医務室の人間はこっそり鬼だと思った。
「これでよし」
満足したらしい椿に解放された芥川は既に動く気力が無く、体力回復に務めるために大人しくベッドに沈み込んでいた。
動けるようになったらこの女をいの一番に殺そう、という考えが頭の片隅に浮かぶ。ここまでの屈辱を感じたのは初めてだった。然し同時にここまで世話を焼かれたのもまた、初めてだった。女は呑気にベッドの側に腰掛け、頬杖をついて此方を見ている。動かないか見張っているのか。
フン、と芥川は鼻で笑うと口を開いた。
「何故僕に構う?」
「…なんでだろ?」
「聞くな。何なんだ貴様、矢張り僕を愚弄しているのか?」
「……しいて云うなら、弟弟子だから」
「弟弟子?」
「そ。面倒見なくちゃ」
「……僕にそんなものは不要」
「じゃあ死にたいの?」
「……」
「私も死にたくなかった。だから太宰に付いていった。でもアレのする事は何時も無茶苦茶だから、何度か森さんとか中也の所に逃げ込んだの。毎回見つかったけど」
「でも、太宰は無駄な事はしない」
「今の君への理不尽もきっと何か考えがある。だから喰らいついて、太宰に。倒れても私が引き摺って治して立たせてあげる」
「何を、」
「君の欲しいもの、太宰が持っているんでしょ?」
「!」
「どんな形であれ、太宰はきっと与えてくれる。私がそうだったから」
第三段階の任務はアジト凡てを“箱庭”で囲み、椿があの夜と決別する場を太宰は用意した。もう何も守れなかった自分は居ない。そう云っているようだった。
「君は地獄に居た。私も地獄に居た。状況は違うと思う、でも救われたのは確かだった。だから君にも救われて欲しい」
信仰だ。芥川はふと頭に其れが浮かんだ。この女は異常なほど太宰という男に自分の運命を委ねるまでの行き過ぎた信頼を寄せているのだ。其れは最早信頼と云うよりは信仰に近い。絶対的な其れは疑う事は無く、女にとって太宰という男は世界そのものではないかとさえ感じた。
然し芥川も、太宰のその圧倒的なカリスマに魅せられつつある人間の1人であった。太宰の言葉は何時も己の体の奥の感情を駆り立て奮い起こし、黒獣の刃を研いでゆく。
己に生きる意味を与えられると云った。この女の云うことが真なら、何時か太宰は己にも其れを与えてくれるだろうか。然し己が体は貧弱貧相。既に太宰の教育に対して悲鳴を上げていた。燃えるような意志を持っていても、体が使えなければ意味が無い。立ち上がることのできない体を既に何度も呪った。それも、この女の手があるなら、若しかしたら。
太宰の背中に手が届くかもしれない。
「…成程」
ならばこの女を使ってやると思った。
「僕の名は芥川、龍之介」
「私は椿。龍之介、宜しく」
「フン」
太宰の背中に手が届くその日まで、この女を殺すことは待ってやろう。そう思った。然し何時か太宰の背中に手が届いたその時は。