形の無い夢


椿は飛び起きた。
ドッドッと鼓動が鳴っている。身体中を血がせわしなく駆け巡っていた。ポトリと米神から落ちた汗がシーツにシミを作る。
窓が無い部屋は外がどうなっているかなどわからない。然しこの生活に慣れていた椿は、恐らく今が真夜中に相当する時間だろうことはわかっていた。



椿が飛び起きたのは夢が原因だった。それも目が覚めると忽ち忘れてしまう夢だ。然し飛び起きずにはいられないほどの悪夢だった。ゾワゾワとした感覚と恐怖は体に残っていた。

「……これ以上、何が恐ろしいの」

椿の独り言がポツリと部屋に響く。
椿は太宰の第三段階によってあの忌まわしい過去と決別した。もう恐ろしいものは無い。恐ろしいと思っていたもの…自らの異能を扱えない恐怖は、異能を制御できるようになって克服した。
然し今日、再び見た悪夢は椿の胸中の恐怖を逆撫で、抉り、目前に叩きつけたのだ。叩きつけられた其れは、目が覚めると忘れてしまう。確かに強烈な恐怖を感じたというのに、目が覚めると霧を掴むように形が朧気になるのだ。夢とは元来そういうものではあるが、強烈なものは大抵起きても覚えているものでもある。然しこれはまるで最初から形などは無く、ただそこに恐怖のみが有る。ぽっかりと開いたその黒々とした闇は、自分を呑み込もうとしているような気さえした。

夢は今回が初めてではなかった。
初めて見たのは初任務の夜。
次に見たのは第三段階の任務の夜。
その後も何度か夢を見た。その度に飛び起き、それからは眠れずに朝を迎えた。
そして椿は今日、任務でマフィア潰しを行ってきていた。

「殺した相手の死に顔がこびりついている訳でもない…」

夢の原因は不明だった。以前も夢について考えたが、結局わからなかった。
わかることは任務に行ったその夜に夢を見ることだけだ。然し椿は、特に毎回の任務中に恐怖を感じたことは無かった。偶にヒヤッとする事はあっても、強烈な命の危機等を抱く事は無い。大抵の敵は椿の存在を認識することが無いまま始末されるからだ。

「…ねむ」

椿の瞼は連日の任務と太宰の書類整理で限界だった。
上司と部下になってから、太宰はことある事に椿を任務に行かせ、「上司命令」とにっこり笑い、任務から帰ってきた椿に自分の書類整理をさせていた。尚その間太宰は執務室に何もせず居座ったり、外に出たりしている。外に出た時は夜まで帰って来ない。夜遊びでは大抵女を引っ掛けていた。以前帰ってきた時にキツい香水や酒の臭いがした時は思わず顔を顰めて、シャワーにぶち込んだのは記憶に新しい。椿は鼻が良いからか、ダイレクトに鼻腔の奥をツンと突いてくるそれらが嫌いだった。それを云うと太宰は「子どもだなぁ」と笑うのだが、太宰と歳は一つしか違わないではないかと抗議した。然し「経験の話だよ。君は紙の上の事しか知らないだろう」と返されては、ぐぅの音も出ないのだ。
然し眠い。意識は夢を恐れているが体は睡眠欲に正直だった。瞼がどんどん落ちていく。
プルプルと頭を振り、椿は床に足をつけた。







太宰は自身の執務室の隣に設置された仮眠室にいた。仮眠室と云っても簡素なものではなく、調度品は凡て最高級品だった。其れを見る度に金をかける所が違うのではないかと思う太宰だったが、幹部という立場の威厳をそれらは示しているのだと直ぐに納得した。
酒を飲み適当に遊んで帰ってきた執務室に、出掛ける前書類整理を押し付けた椿は既にいなかった。執務机の上にはまとめられた資料やら書類やらが端を揃えて積まれており、太宰が最終的に確認しなければならないもの以外は片付けられていた。椿は部下としても優秀だった。戦力として育てたがこんな所でも役に立つとは、そこまで考えていなかった太宰にとって嬉しい誤算だった。

外套は街で揉まれた為に少々草臥れてしまっていたが、暫く休ませておけば皺も伸びるだろうと其れを脱ぐ。途端にふわりと酒と女の香水の香りがして、そういえば椿はこの臭いを嫌がっていたな、と思い出した。見た目は少女と女の境に差し掛かるというのに、中身はまだまだ外を知らない子どもの彼女には度々笑わされる。その割にムキになるのだから太宰の悪戯心を擽るのだ。椿の嫌そうな顔を思い出して太宰の口角が上がる。
仮眠室はその名の通り仮眠の為の部屋だが、簡単なシャワーも備え付けられていた。すんと腕に鼻を寄せると脱いだ時と同じ臭いがする。このまま明日の朝に椿へ嫌がらせをするのもいいが、また服のままシャワー室に閉じ込められるのは御免だな、と考えた太宰は仕方なく、衣服を脱いでシャワーの口を捻った。



シャワーの途中から、執務室に1つの気配が滑り込んできた。其れは暫くそこに留まり、太宰がシャワーから出ても動く気配は無い。ゆったりとした動作で水気を拭き取り、新しい衣服に袖を通す。銃を仕込む際に弾を確認すれば充分収まっていた。草木も眠る深夜に訪ねてくるなど何者か、と太宰は多少警戒しつつ仮眠室の扉を開ける。執務室机付近に人影が見えた。

「………椿?」

そこにいたのはうつらうつらと船を漕いでいる椿だった。立ちながら漕いでいる。器用なものだ。
懐の銃に掛けていた手を下ろす。何故彼女が、と太宰は椿に近づくと、椿はぼんやり太宰を見上げた。とてつもなく眠そうである。何時もよりも幾らか舌足らずな口調で、椿はおかえり、と云った。

「帰ってたんだ…」
「嗚呼、丁度さっきね。どうしたんだい?夜に私の所に来るなんて初めてじゃないか」
「……眠れなくて」
「……」

これは誘われているのだろうか。太宰は思考を1周させたが、酒の入った脳でも否違うと結論付けた。こんなに眠そうな顔をして誘う女など見たことが無い。まず椿が太宰に対してそういった言動に出るなど天地がひっくり返っても無い。悲しい事だがこれが事実だ。
然しこれほど眠そうであるのに眠れないとはどういう事か。太宰は口を開いた。

「眠れない、ねえ…私にはとっても眠そうに見えるけれど。中也の目付きの悪さといい勝負だよ」
「………夢が」
「夢?」
「任務の後は、必ず見る。それが、怖くて眠れない」
「ふぅん…」
「責任取れ」
「えっ」

そもそもこんなに眠いのは太宰が任務に立て続けに行かせるのと太宰がさぼった書類整理のせいだ云々。
愚痴のように零す椿の目は完全に据わっていた。これは寝かせなければ明日に支障をきたすな、と察した太宰は仕方なく、仮眠室へと椿の手を引いた。大人しく付いてくる椿に、これは既に半分寝ているのではないか?と太宰は思ったが、そのままベッドにころんと転がすと、焦ったように(然し矢張り眠いのか動きにキレが無い)起き上がろうとする。眠い癖に眠りたくないと駄々をこねる姿は子どもだった。大人しく寝てほしいところだが1人では寝ないだろう。太宰は椿と共にベッドに入った。起き上がろうとする体に腕を絡めて無理やり縫い付ける。「う゛ー」だの「はなして」だの云っていた椿だったが、そのうち腕の中でごそごそと身動ぎをはじめ、暫くすればそれも落ち着いた。

何となく既視感を感じたかと思えば、以前も太宰はこうして椿と寝ていたことを思い出した。
龍頭抗争真っ只中、初めて椿を外に連れ出した日だ。あの時も魘される椿の背中を撫でていたが、あれも夢の影響だろうか。
チラリと腕の中で丸まっている椿を見る。目は閉じられているが眉間には皺が刻まれていた。そもそも夢とは記憶を脳が整理するために見るものだ。夢見が悪いということは、任務に出た先で何か恐ろしい目にでもあったのだろうか。然しそんな危険な目に遭ったなどという報告や素振りも特に無いため、夢の原因はまた別にあるのだろうと太宰は考える。
然し意外だったのは、こういう時頼るのは鴎外や、不本意だが中也だと思っていた。隣で眠る椿に自然と口が歪んでいく。


うう、と腕の中で声がした。寒くもない筈なのに椿の肩が震える。太宰があやすように背中を撫でると、震えは止まった。また感じる既視感に笑いがこみ上げてくる。スウスウと寝息を立て始める椿は未だしっかり太宰の衣服を掴んでいた。

既に窓の外では空が明るみ始めている。