奈落
太宰が任務に出て姿を消してから3日経った。椿は変わらず、主のいない太宰の執務室に居た。椿は務めていつも通りに、太宰が消える前と変わらず事務仕事をこなした。そのうち目の前の扉から、太宰がひょいと顔を出して帰ってくると、心の何処かで信じていたからだ。
太宰は死ぬ時は椿も連れていくと云った。その言葉を信じて椿は太宰の帰りを待ち続けた。
1週間が経った。太宰は帰ってこない。
椿は太宰の仮眠室に寝泊まりしていた。いつ太宰が帰って来ても分かるように。そして帰ってきたらいの一番に文句を云ってやろうとまで思っていた。
光が眩しい。身支度を整えて、執務室へと繋がる扉の把手に手を掛けて引く。
目の前で金属がぶつかるような、小さな機械が噛み合う音がした。
数人の黒服の構成員が銃を構えていた。その中心にいるのは鴎外。太宰の執務机に座っていた。
椿は口の中がカラカラに乾いていた。警報が鳴る。その先を聞くなと椿の優秀な勘が云っている。然し聞くしか出来なかった。椿はかすれた声で訪ねた。
「…何の、御用が」
「太宰君が失踪したことは、わかるね?そして太宰君に1番近かった君に、逃亡幇助の疑いがある。…私も娘のように思っている君を傷つけることは避けたい。大人しく、してくれるね?」
「…」
太宰の失踪。椿が必死に見ないようにしてきたその事実は、他でもない鴎外の口から放たれた言葉によって、ガツンと椿の頭を殴打した。
空が落ちる。世界がバラバラになる。
明るかった視界が暗転した。
次に目を覚ましたそこは、窓のない、冷たい地下牢だった。それは以前まで椿が閉じこもっていたような地下ではなく、様々な拷問器具の並んだ、所謂そういう事をする専用の地下だった。手には頑丈な手錠が嵌められ、鎖で体の自由は殆ど制限されていた。
椿は抵抗はしなかった。太宰が帰って来た時に自分が抵抗してしまえば、彼が帰る時に不都合が起こると。不気味なほど椿は声をあげなかった。ずっと黙っていた。死んでいるかのように、口を開くのは定期的に与えられる水を飲む時だけだった。
ある時、首領である鴎外が牢屋に来た。こんな所に首領直々に足を運ぶなど異例中の異例だろう。看守役が戸惑っていた。鴎外は憂いの帯びた目で見て、椿の傷ついた頬を撫でた。そして囁いた。
「……君が異能を使えば、こんな場所直ぐに出ることが出来るだろうに。何故しない?」
「…」
椿は何も云わなかった。何故そうしないかなど、答えるべくもなく、いつか帰る太宰の為だった。帰ってくる。椿は信じていた。信じていたのに。
「太宰君が消息を絶ってから2週間が経つ。彼はマフィアの網にも掛からない。完璧な逃走だよ」
「…何が云いたいの」
椿は地下牢に来てから初めて口を開いた。久々に出した声はかすれていた。目は鋭く鴎外を睨んでいた。
「太宰君はもう戻らない」
「ッ、うそ」
「こんな詰まらない嘘は吐かないよ。太宰君はポートマフィアから抜けた。君を置いてね」
「嫌、森さんやめて」
イヤイヤと頭を振って鴎外の言葉を否定する椿の姿は、まるでポートマフィアに引き取った頃の、幼い椿をみているようだった。鴎外は椿の心臓を抉るように言葉を続ける。太宰が居ないことを刻みつけるように言葉を吐く。椿はボロボロと泣き出した。嗚咽混じりに知らない、わからないと答える椿の声を鴎外は無感情に聞く。赤い目は椿から逸らされることは無かった。今迄口をひとつも割らなかった椿のその様子に、鴎外の後ろに控えていた黒服たちはどよめいていた。
「最後に聞こう。椿、君は太宰君の逃亡に関与しているか?」
「………しらない、何も云わなかった。太宰は私に何も云わずに、わたしを置いていった、」
「……そうか。分かったよ」
鴎外は踵を返すと、地下牢から去った。椿の嗚咽と啜り泣く声が地下に暫く響いていた。
▽
中也は首領である鴎外に呼び出されて最上階のその部屋に来た。扉を開けると鴎外は執務机で何処か難しい顔をしている。然し中也の姿を見れば直ぐにその顔はいつもの笑みを貼り付けた。
「やぁ中原君。ご苦労さま。報告でもないのに足を運んでもらって悪いねぇ」
「いえ。首領の命令ですから」
中也は帽子を手に持ちながら鴎外の言葉に耳を傾ける。何用か、突然呼び出されたこれに、中也は特にこれといった心当たりが無かった。あるとすれば2週間前に消えた太宰の事だろうか。疑われているのなら申し訳ないが、自分は恐らく組織の中で一番彼奴が消えて喜んでいる人間だという自覚がある。何しろもう振り回されることも奴の芸術的なまでの嫌がらせの餌食にならずに済むのだ。消えたとわかった夜に中也はいの一番に高い酒を開けたほどである。
寧ろ奴が消えて組織の中で一番悲しんでいるのは、誰よりも彼奴の側に居た椿だろうと、中也は近頃見なくなった彼女の顔を思い浮かべた。
「中原君。君にはとてもよく働いて貰っている」
「…首領のご命令ですから」
「ふふ、謙遜することはないよ。嗚呼、消えた君の相棒の事はそう気にしなくてもいい。誰も君を咎める事は出来ない。貶める事もね。君は彼の相棒だった。ただそれだけの事なのだから」
「……首領。私を呼んだのは、どういったご要件で?」
にこりと鴎外は笑みを深くした。中也は鴎外の口から放たれる言葉を緊張した面持ちで待つ。
「君に五大幹部として私の力になってもらいたい」
凄まじい爆弾が落とされた。中也は目をぱちぱちと瞬かせると、鴎外の言葉を反芻する。そして断るべくもなく、中也はその場に膝を着いた。
「謹んでお受け致します」
「その言葉を聞けて嬉しいよ、中原君」
幹部には直属の部下を1人雇い入れる権利がある。そう云った鴎外の言葉に中也は、先程浮かんだ椿の名を、ほぼ反射的に口に出していた。誤魔化そうにも出した後にそれは大抵戻せないもので、鴎外が聞こえていない筈もなく、普段とは違う笑みを中也へ向ける。
「…無理であれば、強くは強請りません」
「いいや、無理ではないんだ。然し彼女は今、少し難しい時期でね」
中也は察した。太宰が消えてそう経たないのだからそれも仕方ないだろうとも思った。暫く鴎外は考えると、机の引き出しから1つの鍵を取り出す。中也は其れを見て、怪訝な顔をした。
何故ならその鍵は、地下牢の手錠の鍵だったからだ。
「この鍵に合うものを探しなさい」
その言葉を最後に、中也は鴎外の執務室を後にした。手には鍵を握っていた。