なすところなく日は暮れる


中也は直ぐに鴎外の言葉の意味が分かった。探した手錠の鍵は、あろう事か地下に繋がれた椿の手錠の鍵だったのだから。
看守役に事情を聞けば椿に太宰の逃亡幇助の疑いが掛けられているらしい事を知ると、中也は一目散に椿の地下牢に駆け寄り声を掛けた。

「…椿」
「………ちゅう、や?」

酷く力の無い声だった。美しかった髪は乱雑に垂れ、白い肌は至る所に血が滲んでいた。ちらりと髪の間から覗いた顔も、以前の椿とは変わり果てていた。涙に濡れ、感情という感情をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせた末のその顔は、何も感じず、何の生気も感じない。無機質で人形のようなそれは、酷く中也の心を掻き乱した。
椿の地下牢に一歩、また一歩と入りながら中也は問う。

「お前は、太宰の失踪に関与しているのか?」

「…………わたしは太宰に云われればきっと何だってした。今回のことも」
「ッ手前、」
「でも、知っていたなら私は太宰と一緒にここから消えていたよ、中也」
「………………………嗚呼」

そうだな。という言葉は地下牢の冷たい石畳に吸い込まれていった。中也は持っている鍵で椿の手錠を外した。固く体を固定していた鎖も外し、椿の手を引いて地下牢を出た。
酷く荒らげた感情が瞳の奥に揺らめいていたが、それ以外、椿はかえって不気味なくらい無口で静かだった。



そして連れてきたのは中也の幹部として与えられた執務室だった。
中也はまず椿を風呂に入れた。のろのろと体を動かしていたのか普通の女よりも倍以上掛かった為に中で死んでいるのではないかとヒヤヒヤしたが、きちんと生きて出てきた椿にほっと胸を撫で下ろした。地下で涙に濡れていた顔も少しはマシになった。
そして飯を食わせた。地下牢での食の所為か、初めは戻す事が多かったがゆっくりと慣れさせて空っぽの胃に食べ物を詰め込んだ。元々折れそうなほどだったというのに更に細くなっていた椿は、中也が軽く小突いただけでバラバラと壊れてしまいそうだった。血色も悪く、それらが気にならなくなるまで暫く掛かった。

其れから以前と比べれば劣るものの、大体の体力が戻ると椿は自分から進んで外に出たいと云い、よく任務に行くようになった。然し未だ危なっかしくて見るに堪えなかった中也は、出来る限り椿の任務に同行した。太宰失踪への関与が晴れたわけでは無いため監視という名目でもあった。
外に出た椿の戦い方は以前とは異なっていた。態々敵の目前に姿を現し、箱庭で拘束した敵の体を短剣で切り刻む。任務が終わった後の椿は毎回血に塗れていた。目はずっと何処かを、何かを見ていた。


ある時椿は倒れた。目の下には薄らと隈が浮かんでいた。目が覚めた彼奴はまた直ぐに医務室を抜け出して殺戮を繰り返した。
それが暫く続いてから、外に出るだけマシかと考えていた中也でも椿に注意をした。標的の居なくなった敵組織拠点で、フラフラと足元の覚束無い椿を支える。椿の顔は中也に向けられることは無く、未だ切り刻む敵を探しているようだった。

「無理するな」
「…」
「太宰を探してんのか?」
「…」

「おい、聞いてんのか!」
「聞いてる」

黙り続ける椿にイラつきを隠しもせず吠えると、至って冷静な声で返事をした事に驚いた。
そして椿は中也の手から数歩離れ、振り返ることなく云った。

「もう構わないで。任務にもついてこなくていい。見舞いもいらない。太宰?違う。殺したいから殺してる。何故か人を殺す時はとても、心が落ち着く」

以前の椿であれば絶対に云わないだろうその言葉に、再び中也は目を見開いた。殺戮を恐れていた椿が、殺戮によって心の平穏を保つなど。
無理矢理歯車が噛み合わされ動かされているような違和感。その背中は今にも壊れそうだった。聞こえないはずの悲鳴が聞こえた気がした。

「…はぁ、つまり八つ当たりって事だな」
「違う」
「違わねぇよ。たっく…帰んぞ。敵はもう居ねえ」
「…帰る?」

帰るところなんて、何処にあるというのだ。

「中也は、如何して私に構うの?如何して私を外に出したの?」


唐突に投げかけられたその問いに、中也はすぐに答える事が出来なかった。
心配だから?違う。否、違わないが恐らくそれが凡てではない。
弟子だから?それも違う。ただの弟子なら朝起きてから寝るまで気にする筈がない。
じゃあ何だ、元相棒の部下だから?それは絶対に有り得ない。そんな事で中也は椿を、地下牢から出した訳では無い。
答えはずっと前に蓋をして、中也の奥底で燻り続けた想いだ。そんな事、わかっていた。然し其れを今の此奴に押し付けて如何するというのだ。更に混乱させるだけだ。下手をすれば抱えきれずに壊れるだろう。それは避けたい。女を壊してまで自分の想いを伝えられるほど、中也は本能が強くはなかった。

「如何して中也は、私に構うの?私を、外に出したの?」

再び問われたそれに、中也は口を噤む。
椿は初めて中也を見た。その目は暗く、黒い闇を携えて、中也の目前に迫った。

「気の毒だと思ったから?同情したから?…それなら要らない。欲しくない。如何してまた私を外に出したの?兵器にする為に?殺戮をさせる為に?………それなら最初から人間らしさなんて、感情なんていらなかった。感情なんて八つ裂きに殺して、怪物にしてしまえば、兵器にするならそれで充分だったはずでしょ?!?!!」


椿が声を荒らげる所など、後にも先にもこれが初めてだった。

凡ては椿が太宰や中也によって感情を持ち、育てられ、その末に傷ついた心の叫びだった。
太宰が消えた。椿にとってのそれは世界の損失であり、逃れられない現実だった。逃れられない事に絶望し、やり場のない怒りや憎しみを剥き出しにしていた。今迄の静けさはそれらを必死に押し殺していたからだった。
椿も悪い奴ではない。地下牢から出し、世話を焼く中也に感謝こそすれ、怒りをぶつけることはお門違いだとわかっている。然し堰き止めていた筈のダムが今、決壊した。留めていた其れは椿の心に仕舞っていた言葉ごと吐き出させた。

「…全部嘘だった。優しい言葉も、手の温かさも、私を連れて行ってくれると云ったのに。太宰は凡てを踏み躙って、ちぎって捨てた……私を置いていった」

信じていたものが粉々に砕けた時、椿は凡てを拒絶した。
太宰に抱く感情も、勿論その感情の中枢となっていた信仰と呼べる信頼も凡て無くなった。芽生えかけていた何かも、塗り替えられてその名を知る術はもう無い。
あるのは裏切られた怒りと煮え滾る憎悪だけ。

ハァハァと肩で息をして云う椿に、中也は近付いた。




「………違ぇな。手前は悲しんでる」


「! 違う!!!」
「いいや違わねぇ。手前は悲しかったんだ」

中也は椿の頬に手を伸ばす。指先が透明な滴に触れ、拭ったそれは椿の涙だった。そこで椿は初めて自分が涙を流していることに気付いた。

「、違う」
「信じていた太宰に裏切られて、それが怒りと憎しみに変わっちまうくらい、手前は悲しかったんだよ、椿」
「……」
「殺戮を繰り返して心が落ち着くなんてのも嘘だ。手前は今も、其れを止めた太宰を探してんだろ」
「、ぅ」

椿が怒りや憎悪だと思っていた感情は、抱えきれなかった深い悲しみだった。椿にはわからなかったのだ。これまで深く悲しむ事が無かったそれを発散させるには、既に知っている感情とそれを結びつけて無理矢理出すしかなかった。
然し名を付けられた其れは、椿の目から涙となって溢れる。中也は椿の頭を自らの胸に押し付けて云った。

「今は悲しみに浸かっちまえ、怒りと憎しみに身を任せるな」

其れはお前の身を滅ぼす。其れこそ手前の体を壊し尽くす迄、制限無く暴れる汚濁のように。

椿は中也の胸に顔を押し付けながら云う。その声は酷く揺れていた。

「…わたしは、どうすればいいの?太宰はもう居ない。どこに帰ればいいかわからない。どうやって立てばいいのか、わからない。息の仕方さえ、」
「……俺の隣に来い、椿」


「今度は俺が手前の手を引いてやる。離さねえよ、絶対に」

「だから俺の手を取れ、椿」


押し付けた頭を掻き抱いた。椿は恐る恐る、中也の背中に手を回すと、暫くして糸が切れたようにそのまま気を失った。
彼女の精神は元々限界が近かったのだ。其れを無理矢理動かして、寧ろよく今迄立っていられたものだ。
椿の手から短剣が落ちる。其れは血に塗れていた。人の居なくなった敵組織拠点から2人の影も間もなく消えた。


日は既に、没しかけていた。








「愛憎は紙一重……ってな。つくづく損な役回りだ。これも手前の嫌がらせか?太宰。でもなぁ、置いていったのは手前だ。もう俺は手前に遠慮するなんてことはしねぇ、二度と御免だぜ」


「俺なら彼奴に、あんな思いはさせなかった」









通信を切ると、ふぅと人物は息を吐いた。

「これで恙無く最終段階まで完了、だね」

中也は鴎外が用意した椿をポートマフィアに縛り付けておくための鎖だった。
太宰を失った彼女が機能するため、彼女をポートマフィアから離さないためには、信頼のおける人物の選定をし、宛てがう必要があったのだ。

「…私は嫌われてしまったかもしれないからねぇ。任せたよ、中原君」

最上階の執務室。そこには人知れず呟く鴎外の姿があった。