まじない


「まって」

其の背中は黒い外套を翻して進む。此方をひとつも見ず、伸ばしても伸ばしても手が背中に届くことは無い。寧ろどんどん遠ざかっていくような気がした。

「待って、太宰」

太宰が進む度に椿は背後から迫る闇に呑まれていく。粘性を持った闇は椿の体をずぶずぶと呑み込み、やがて顔を覆い尽くし、伸ばした指の先まで闇が包み込んだ。

溺れるような感覚。肺の中にまで闇が流れ込み椿の呼吸を奪った。
最後に見た闇の先でも太宰は振り返ることは無かった。


目が覚めた。部屋に窓は無い。かといって部屋凡てを闇が支配している訳でもなく、間接照明がぼんやりと室内を照らす。椿は天蓋を見つめて「夢か」と胸を撫で下ろした。

椿は久々に異能を使った。そして矢張りその晩、悪夢を見た。然し悪夢は今迄のような形の無い夢ではなく、太宰の姿を映し出していた。




「……椿」
「?」

執務室で机に向かい事務をこなしていると不意に名を呼ばれる。顔を上げて声の主の方を見れば、かちりと視線が合った。
中也は椿の顔を見て、昨日のことを思い出し、もう一度顔を見て、その眉を寄せた。

「ひでェ顔だな」

今度は椿がピクリと眉を動かす番だった。レディに向かって失礼だ、と云うとレディが何処に居ンだよと返されてぐぬぬと唸る。中也は立ち上がると椿に近寄り、その目の下に浮かび上がる隈を指で撫でた。

「事務はいい。寝ろ」
「…寝ても悪夢を見るなら意味無い」
「……はァ。矢っ張り見るのか、それ」

隈は悪夢によるものだと中也は知っていた。そしてそれが椿を眠れなくすることも知っていた。だから使わせたくなかったんだ、と愚痴りながら隈をぐしぐしと撫でると、椿は鬱陶しそうにその手を払い顔を背けた。今度は向けられた頬をぐに、と中也が摘む。何なんだ、と椿が口を開く前に、中也が念を押すように「休め」と云った。椿は首を縦に振らない。

「そんなに云うなら寝かし付けて」
「……云ったな?」

冗談の心算で云った言葉にニヤリと中也が挑発的に笑む。ここぞとばかりに椿を小脇に抱えると、執務室に誂られたソファに放り投げた。あまりの早業に椿が目を白黒させていると空いた隣に中也もボスっと腰掛ける。そして椿の頭を自らの膝に押し付けた。

「ぐえっ」
「オラ、幹部を枕にする機会なんざそうねぇぞ」

たんと休みやがれ、と聞こえた声に、頭を押さえる手を持ち上げてじとりと見る。何処か得意そうに笑っている中也は、椿が起き上がらないようにご丁寧にも重力操作までする始末だ。通常より重い自分の体を動かすのは今の体調と相まって頗る怠い。
諦めて椿が中也の膝に垂れかかると、トントンと一定のリズムで背中を叩かれたり頭を撫でられる。本当に寝かし付ける心算だ…と思い乍らも、椿の瞼はするすると落ちていった。



スウスウと寝息を立て始めた膝の上の女に、中也は「寝たか」と呟くと同時に長い長い溜息を吐いた。否、寝ろとは云ったが男の硬い膝で普通本当に寝るか?この女には世間一般の常識が通じない訳ではない…が、懐に入れた人間に異様に懐くし警戒心というものが無いし疑うことを知らなさ過ぎる、と中也は人知れず危機感を覚えた。首の傷だってそうだ。芥川との一件を中也は耳にしていた。椿は拘束への抵抗を全く見せずに居たという。
今やポートマフィアの中でも特に凶暴だと謳われ始めた芥川。太宰が消えてから凶暴性を増した羅生門の強攻は留まるところを知らないらしく、近頃は黒獣だけでなく、羅生門を花の形に模して攻撃する方法も編み出したとか。器用なものだ。近いうちに上級構成員に名を連ねるだろう事は容易く予想できる。


モゾ、と椿が動いた。
中也が視線を移すと、目は閉じられているがきゅうと手を握りしめる椿がいた。「ぅ…」という寝言もこぼれ落ちる。異能の悪夢か、と中也は椿の背中をあやす様にぽんぽんと撫でた。表情が和らいでゆく。

然し椿の口からは、今最も聞きたくない男の名が呟かれた。

「太宰」

ピタリと中也の手が止まる。
次いで苦虫を噛み潰したような顔を浮かべ、眠る椿の横顔に近付いた。髪を梳けば指の間から絹のようなそれがはらはらと落ちる。中也はボソリと絞り出すように、眠る椿へ云った。


「………矢っ張りまだ手前の中に居るのか」

太宰は。
中也は静かに首の傷へとキスを落とした。