再来の夜叉とお茶会
ズダダッと椿はポートマフィアアジト内を駆けていた。椿が通った後のそこを暫くすると数人の黒服がバタバタと横切る。事情を知らないマフィア内の通行人は揃ってその光景に首を傾げていた。
「ハッ……」
椿は箱庭で進行方向で待ち伏せをする黒服の存在を確認した。キュッと踵を返し別の逃げ道へと足を向ける。
椿が逃げている理由は、ほんの数分前までに遡る。
この日、椿は中也経由で紅葉と会う約束が取り付けられていた。
紅葉は椿を妹や娘のように可愛がり、椿も紅葉には大変懐いている。偶に開かれる茶会に出される茶と和菓子を椿は大層気に入っていた。そして今日もその茶会だろうと椿は思っていた。
何時もは紅葉のセーフハウスへと出向くのだが、紅葉がポートマフィアアジトへ足を運び自身の執務室へ椿を招いた為、椿は紅葉の執務室へと足を運ぶ。約束の時間になり扉を開けると、そこには、
にっこりと。男だけでなく女まで頬を染めてしまいそうなほど美しい笑みを浮かべた紅葉がいた。ここまではいつも通りだった。
その手にいつか見たような簪や小物さえなければ、椿の足は紅葉の執務室へすんなりと入っていただろう。一瞬で椿は予感した。これは良くない、と。
「よく来たのう椿。待っておったぞ?……何故そんなところで止まっておるのじゃ、此方へ」
手招きされてじりじりと警戒の色を浮かべつつ部屋に入る。紅葉は相変わらず、艶やかな紅で彩られた唇に弧を描いていた。椿は慎重に口を開いた。
「…それ、何?」
「嗚呼。これは…」
それ、とは云わずもがな紅葉の持つそれである。
ふふふ、と笑って紅葉が目を細めた。寒くもないのに悪寒がする。そろりと椿が部屋を見渡すと……………予想通り、着付けの道具一式と化粧道具一式、奥に掛けられている振袖が見えた。さっと顔色が青くなる。紅葉と目が合った。
そしてそれが合図と云わんばかりに、椿は走り出した。然し紅葉はそれを予測していたのか、予め用意していた部下たちに司令を出す。
「追え。必ずや連れて来るように」
こうして椿のポートマフィアアジトを舞台にした鬼ごっこは幕を開けたのである。
後から聞こえる複数の足音に、椿は足の回転を早くした。角を曲がり、天井の通気口を開けると手を掛けて滑り込む。閉じた数秒後、黒服が掛けていく様子を確認して椿はふぅと息を吐いた。
ざっと箱庭を見て追っているのは紅葉の直轄の部下たちだ。こんな事に部下を使わないで欲しい。紅葉の統率は恐ろしく、椿は箱庭が無ければ何度か挟み撃ちされかけていた。恐らく監視カメラの方も部下が見て指示を出しているに違いない。……人員を割くところを確実に間違っている。
然しそうなると、監視カメラの点在する通路を使うのは幾ら逃げ足の早い椿でもいつか必ず捕まる。どうしたものか、と天井裏で考えていると真下で優雅な足音が響いた。
チラと見れば紅葉の姿。紅葉は通気口から覗く椿にニヤリと口角を上げると、椿はさっと通気口から身を翻して離れた。次の瞬間、先程まで椿がいた場所が抜け落ちる。
ゆらりと見えたそれは紅葉の異能、『金色夜叉』だった。
(…本気過ぎる…………)
たら、と椿の米神を汗が流れた。椿の箱庭は異能までは操れないということを知っての計画だろう。それに幾ら椿でも、紅葉の異能『金色夜叉』と戦うことは避けたかった。特に今は武器といえるものを持っていない。丸腰で夜叉の凶刃から逃れるなど不可能に近く、圧倒的に不利である。
瞬時に判断した椿はその場を離れる為、暗い天井裏を駆けた。
▽
自身の執務室にいた中也は、天井の気配にピクリと反応した。間者か、と異能発動の準備をする。然し予想外にも室内の通気口から現れたのは、椿だった。
「?! 手前、姐さんの所に行ったんじゃ」
「逃げてきた。匿って」
ストっと軽やかに着地すると、流れるように中也の座る執務机の下へと移動する。この光景は数年前太宰の教育から逃げ込んで来た時と重なるな…と懐かしそうに中也が様子を見ていると、視線に気付いたのか椿も中也を見た。そして神妙な顔つきでこそりと声を出す。
「絶対、特に紅葉姐と紅葉姐の部下が来ても何も云わないで」
「………」
特にの後を強調して云う椿。
中也は何も云わずに机の下の椿に手を伸ばすと、するりと頬を撫で、もう片方の手に握られた通信機に云った。
「姐さん。椿捕らえました」
途端にずしりと椿の体に重力が掛かる。
床に体を磔け、目を剥いて中也を見た椿の「裏切り者ォ!!!!!!」と叫ぶ声は、丁度執務室へと向かっていた紅葉の部下達の耳にも届いた。
「絶対ゆるさねー………………」
「口悪ぃぞ」
教育的な意味でも機嫌的な意味でも中也の所為だ、とじろりと睨めば中也はしょうがないだろと肩を竦めて見せる。椿を追い捕らえる命令を受けていたのは黒服だけではなく中也もだった。紅葉の直轄麾下だった時期のある中也に、椿の言葉よりも紅葉の言葉に天秤が傾くことは当然である。頼みの綱だった筈の人物の思わぬ刺客に、椿はとうとう紅葉から逃げることは出来なかった。
「重力操作はズルい」
「手前もどうせ箱庭使ったんだろ?」
「数の暴力には拳と異能で対抗するしかない」
「………お前挟み撃ちされた時に何人か部下沈めたってな。後で謝っとけよ」
「挟み撃ちも卑怯だった。これだからマフィアは……」
「手前も所属してんだろ………っつうかそんなに嫌か?着物」
「重い、かたい、動きづらい」
「全否定かッ!!…口閉じて大人しくしてれば手前も幾らかマシに見えるのにな」
普段は只の猛獣だ、と口外に云う中也に椿はむっと眉間に皺を寄せる。因みに今は異能の利かない夜叉に運ばれて紅葉の待つ執務室へと行く道中だった。逃げることを諦めた椿は夜叉の後ろを歩く中也へ愚痴を零す。中也が何故そんなに嫌かと聞けば、椿は暫く考えた後に口を開いた。
「……いざと云う時、着物じゃ異能にしか頼れない」
「!………莫迦か。お前一人くらい俺が守ってやる」
「へぇ」
「なんだその反応……兎に角、姐さんにはいつも世話になってんだろ?一度でいいから着てやれ」
「………前に着た時は一度と云わず数十回着物を着せられ帯を締められた」
「…」
「……姐さん着せ替え好きだからな」と遠くを見て頷きながら云う中也に、椿はその着せ替えでこっちは軽くトラウマだと云う。
そうこうしているうちに地獄の門、もとい紅葉の執務室前に着いた。解放されるのは何着目に袖を通した後だろう、と力なく椿が呟くと、中也は訳知り顔で口を開く。
「いいや、今回は多分一度で終わるぞ」
「?」
「………入ってからのお楽しみってとこだな」
「ほほ、愛いのう椿。矢張り見立て通りじゃ。さ、回って見せてお呉れ」
「? 軽い、きつくない、やわい…」
ひらりと回ってみても、それは従来の着物と比べ椿の動きを阻害することは無かった。羽衣のように椿の体を包むそれは寧ろ良すぎる手触りと軽さだ。椿は興味津々といった感じで自身が身に付けるそれに手を這わしている。その様子を見て紅葉は満足そうに「気に入ったようじゃな。特注した甲斐があったというものよ」と云って笑った。
「特注…?」
「私が普段世話になっている仕立て屋がおってのう。お主の写真を見せたら意気投合して、創作欲掻き立てられたらしく仕立て屋の主人が是非振袖を作りたいと申してなぁ」
「……」
何故写真を持っていたのかということはこの際聞かなかった事にしよう、と椿は出かけた言葉をそっと胸に仕舞った。
紅葉が最後に薬指で椿の唇に紅を引き化粧が終わる。次に髪を纏められ、用意されていた簪や小物までもが着物の色や模様と合わせられている事に気付くと、益々何故紅葉がこんなにも気合を入れて…それこそ部下総出で椿を追い掛けて徐に着付けを始めたのか気になった。
鏡越しに紅葉を見ても視線は合わない。終わったら聞こう、と椿は着物の模様を見つめて暇を潰した。
「さぁできたぞ、椿」
うつらうつらとし始めていた耳に紅葉の心地良い声が聞こえた。
「成人祝いじゃ。受け取って呉れるか?」
「……うん、ありがとう」
成人。その言葉で理解した。確かに世間一般では成人すると振袖を着て成人式なるものに参列する。然しポートマフィアに所属する椿はそんなものに参列する筈もない。紅葉は紅葉なりに、可愛がっている椿の節目となる成人を祝いたかったらしい。
紅葉の手を取って立ち、隣室で待つ中也の元に向かった。中也はソファに腰掛けていたようで、2人の姿を見つけると立ち上がる。中也の視線が向けられる。
椿は目の覚めるような紅の衣を纏っていた。
白い肌と着物が互いが互いを引き立てるようにその彩を放つ。紅の着物には流れるように見事な花模様が描かれていた。全体を引き締めるような黒地の帯は背中で大輪の花を咲かせ、何本もの飾り紐が覗く様は粋である。袖と襟には控え目にレースがあしらわれている。
百花の王である絢爛な牡丹、楚々として佇む百合、嫋やかな椿、風に凪ぐ優雅な藤。花のようであるが、そのどれもが椿を形容するには足りない。足りないほど、少女は美しく成長した。
上から下までじっくり椿を見て、中也はニッと笑う。
「中々様になってるじゃねえか、椿」
「ふふ。今回のはお気に召したようじゃぞ。…中也、アレを」
紅葉が云うと中也は片手に持っていた小ぶりの桐箱を開け、中から何かを取り出した。シャラ、と音を立てて出てきたのは、椿の花を模した見事な耳飾り。花弁一枚一枚、細やかに作られたそれは、花だけでなくさり気ない装飾も施されている。紅葉が中也に云って用意させたらしい。詰まるところ着物は紅葉、耳飾りは中也からの成人祝いだった。
中也の手が椿の耳へと伸びて其れを付ける。動く度にしゃらんと音がした。
「黙ってりゃ、傾国の姫って感じだぜ?似合ってる」
一言余計だ。
じとと中也を見た後に礼を云うと、隣の紅葉が「却説」と口を開いた。
「もう1人、お披露目しに行かねばならぬ者がおる」
「?」
中也に見送られ紅葉に手を引かれる儘エレベーターに乗り込むと、それは最上階へと昇る。云わずとも椿はその1人がわかった。
扉が開き紅葉は迷いなく進む。そして最上階、奥の扉の前に来ると黒服が紅葉を見て、椿を見て、困惑したように動きを止めた。それに構わず紅葉は執務室の扉の前に立ち、開けるぞと黒服に云った。黒服は止めなかった。然し椿はきゅっと紅葉の手を握る。
紅葉は眉を下げて笑って云った。
「いつまでも意地を張っておるでのう。鬱陶しいのじゃ」
カチャリと扉の把手が鳴り、椿は背中を押されてひとり鴎外の執務室へと足を踏み入れた。耳飾りがシャラと揺れる。
椿の視線の先には、鴎外の姿があった。鴎外もまた、椿を見て珍しく其の目を見開いていた。
「…椿ちゃん?ッッ?!!!」
椿は鴎外の懐に問答無用で走り寄りタックルを決め込んだ。鴎外の声が揺れた気がしたが、……否、何も聞いていない。
「…………………………………………………………桜本舗のケーキ食べたい」
「桜本舗のケーキ」
ミミック、そして太宰の一件後、鴎外と椿は凡そ数年振りに再会した。
本来首領というものはそう簡単に会えるものでは無いが、異例だった椿にしてみればそれは長い長い冬のようなものであった。
鴎外に抱擁した儘顔を上げ、椿は口を開く。
「顔も見せない、目も合わせない。……あれから一緒に紅茶も飲んでない。…私のこと嫌いになった?成人するから?」
「如何してそうなったのかね?…いいや、嫌いになるものか。椿ちゃんは私の可愛い娘だよ」
「目見て。私の」
「…」
何だか尋問されているようだ、と鴎外は内心思っていた。然し今しがた云った言葉に嘘偽りは無い。寧ろ鴎外は、太宰の一件で椿の方が鴎外を嫌っているのではと思っていた。それに太宰と椿が引き離されたのも鴎外の計画によるものだったのだから。当時はミミックとポートマフィア、異能特務課の3組織による抗争の全容を椿は太宰に守られその一部しか知り得なかった。然し頭の良い、しかも鴎外や太宰に育てられた椿の事だ。あの抗争が計画によるものだと今の椿には知られている筈。後ろめたい気持ちが無かった訳では無い。だからせめて椿を遠ざける事にしたのだ。
「…私、森さんの事は好き」
「! 椿ちゃん、私はね」
「太宰の事は気にしてない」
「あの時森さんはポートマフィアの為に行動した。私、今はポートマフィアのみんなが好きで大切だから、怒ってないし、森さんが気に病むことじゃない。それよりも私は森さんと話せない方がいや。紅茶が飲めないことがいや。私を見ないで話す森さんがいや」
「嫌われてしまったかぁ」
「ねぇ、私もう子どもじゃない。太宰のことは自分で何とかするから」
椿はじっと強い眼差しで鴎外を見た。彼女は自分で真実に辿り着き、世界を失っても鴎外を許すと云う。
「………本当に、いつの間に大きくなったのだろうねぇ、この愛娘は」
鴎外は目を細めて、抱きつく椿の体を抱きしめ返した。纏められ飾られた髪を崩さないように頭を撫でる。
その日、2人は久々に一緒に紅茶を飲んだ。