てんやわんやなあの子


「あ、樋口」
「ヒッあっお、お疲れ様です!!!」
「お疲れ…特に何もしてないけど」
「そ、そう…ですか……」
「樋口はまた、龍之介に置いてかれてるの?」
「ええ、まあ……。…」
「元気だして」
「…」

樋口一葉は目の前の女、椿の扱いがいまいち分からなかった。

樋口は芥川──現在首領直轄遊撃部隊長にまで上り詰めた芥川の部下である。
今、樋口と椿の2人はポートマフィアアジトエントランスにて顔を突き合わせており、樋口は芥川の任務同行後の帰りであった。冒頭の通り芥川は樋口を置いてさっさと任務終了の報告へ向かってしまい、既に見る影もない。恐らく報告後はまた新たに任務を貰ってくるのだろうと樋口は考えていた。
然し芥川は先の任務で負傷した筈だった。次の任務に行く前に医務室へ何とか向かってもらわねば…と樋口が顎に手を当てて考えていた時に、背後から突然声が掛かったのだ。それが椿だった。

椿は樋口にとって、最も扱いに困る人物である。理由としては幾つか存在していた。ひとつは芥川の姉弟子であるらしいということ。ひとつは中原幹部の直轄部下であるということ。ひとつはポートマフィア首領の娘らしい(それにしては髪色や顔が似ていない)ということ。
そして何故か、芥川の部下である樋口に構ってくることだ。現在もぽんと肩に手を置いて励ましていた。

「難しい顔してる」
「な、近ッ?!」

いつの間にか至近距離まで近付いていた椿に顔を仰け反らせ後退する。こういった予想不可能な行動も、樋口が椿の扱いに困る要因でもあった。然し椿はそんなことはつゆ知らず、首を傾げて「何をやっているんだ」と云いたげに見てくる。貴女の所為でもあるのですが…とは尊敬する芥川の姉弟子であり幹部の部下であり首領のお気に入りである彼女には口が裂けても云えない為、ぐっと言葉を飲み込む。椿はうーんと顎に手を当てて考える素振りをした後、ピンと思いついたのか口を開いた。

「龍之介が何かした?」
「……」
「あれ、違う?」

難しい顔の原因としては1つ足りないが、芥川の怪我も樋口の心労の原因でもあった。間違いではない。「先輩が、怪我を」と絞り出した答えに椿は「なるほど」と頷く。そしてその後ろに、丁度報告から帰ったのか芥川の姿が見え、思わず樋口は「先輩!」と声を上げた。芥川は樋口の姿を確認し、次いで椿の姿も確認するとギッと眉間を寄せてその儘歩み寄って来た。

「……五月蝿い樋口。エントランスで叫ぶな」
「す、すみません…!!」
「…」

じっと見る椿に気付くと芥川も椿へ視線を向ける。そしてハッとすると踵を返してその場を離れようとした芥川の腕を、何かが引き止めた。言わずもがな椿だった。

「龍之介」
「……………………………………離せ」
「右腕上腕」
「! ッ離せ!!!」
「五月蝿い龍之介。エントランスで叫ばないで」

ズルズルと連行される芥川を樋口は震え乍ら見送りそうになって慌ててその後を追った。着いたのは矢張り医務室。芥川は眉間に深く皺を刻んで「まだか」「早くしろ」と治療を急かしていた。それとは対照的に椿はゆっくりゆっくり治療を施し、偶に包帯をキュッと締め上げて芥川を黙らせる。樋口はその様子を見て終始震えっぱなしだった。いつ芥川の黒獣が椿を切り裂いてしまうか気が気じゃなかった。然し芥川の荒い口調の割に黒獣はひとつも姿を見せることはない儘治療は恙無く終わり、椿は呟くようにして云う。

「樋口心配してたよ。部下に心配させてどうするの」
「…」

椿の言葉に芥川はチラと樋口へ視線を向けた。ギクリと反応する彼女の耳に入ったのは、芥川の「そんな物、僕には要らぬ」という冷たい声だった。「もういいだろう。僕は行く」と云って、芥川は外套を翻して医務室を去った。

「…」
「矢張り…迷惑でしたよね。私の心配なんて、先輩には」
「龍之介の治療嫌いはいつもの事だから、そんなに気にしなくていいよ樋口」
「………でも、先輩は」
「…寧ろ怪我をその儘にして任務に出ればその内、龍之介はもっと大きな怪我を負う事になる。龍之介が求める戦果も、それじゃあ本末転倒」
「…」
「これからは樋口が診てあげて。救急箱はいつもここに、」

「無理です、私には……先輩は、貴女の方が」

「……私は中也の部下。龍之介とは姉弟子と弟弟子というだけで、別に態々医務室まで引っ張って治療する理由は……前はあったけど、もう無い。それに最近のあの感じだと、偶々鉢合わせでもして引っ張らないと龍之介は医務室になんて一生足を向けないだろうね」

「樋口は、龍之介が倒れるのを何もせずに後ろで待つ?」

樋口は口篭る。その先に続く言葉を云おうか云うまいか迷っているようだった。椿はそれを察してか言葉の続きをただす。樋口は自身の膝に目線を向けた儘、口を開いた。

「…私には、何もしないなんて無理です」

自信なさげな声色の割に、しっかりと最後まで口に出されたそれは、樋口の芥川に着いていく決心だった。
然し時に樋口は芥川の叱責でその決心が折れそうにもなっていた。こんなところでこれからやって行けるのかとも悩んだことは何度もある。向いていない、とは自分でわかっているものの、どうしても何故か、そう思うたびに芥川の姿がチラついて思いとどまるのだった。
芥川の去った医務室に残るのは、開いた救急箱と仕舞い掛けの包帯。結局芥川は満足に休まない儘、樋口を置いて任務に出てしまっただろう。椿は黙って樋口の言葉に耳を傾け、その後暫く室内は沈黙した。


「そっか」

そう云うと椿は、樋口の前まで移動し膝の上できゅっと握られた手を取る。椿の突然の行動にビクリと肩を揺らし唖然と取られた手の方を見ると、椿はその顔に普段の無表情からは想像出来ないほど柔らかな笑みを浮かべていた。それはまるで光に照らされ白く輝くギリシアの彫刻のようであり、祈りを捧げる修道女のようでもあった。その表情には神聖さ清涼さと、何処か慈愛の念すら感じる。目が合うと椿は一層目を細め、そして永遠ともいえる刹那の沈黙の後「龍之介をよろしくね」と云い、固まる樋口からするりと手を離すと踵を返して何処か…──恐らく中原幹部の執務室だろう──に行ってしまった。
1人取り残された樋口はぽかんと手が離された状態の儘、暫くあの不思議な女の消えた扉を見ていた。そしてはた、と云われたことを思い出す。

「先輩を、よろしく…?!」

何がどうしてその言葉が出たというのだろうか。益々椿という女がわからなくなった。
頭を抱えた樋口は、後日自身の尊敬する先輩である芥川に椿の事をそれとなく聞いてみた。芥川は無駄な会話をしている暇があったら任務を戦果をと眉間に皺を寄せていたが、ゴホと咳をひとつすると暫く考えた末に「奴は、」と口を開いた。

「有刺鉄線のバリケードのような女だ」
「有刺鉄線のバリケード」

心が休まらなさすぎる。


芥川の答えに、樋口は更に頭を悩ませた。
そこに偶々通りかかった芥川の妹である銀は、(そういえば貧民街の隠れ家は有刺鉄線で囲んで野犬がそう入れないようにしていたな………)と人知れず嘗ての暮らしを思い出していたという。