きっとただいまと言って


その日の中也は朝から首領である鴎外の招集が掛かっており、執務室には暫く椿の書類を捲る音やペンが紙に擦れる音のみが響いていた。目の前の書類の束をせっせと消費していく。中也は以前の上司である太宰と比べて書類を貯めないし怠けたりもしないため、机の上を書類が埋め尽くす事態にはなったことが無かった。そのため椿が会得した書類を素早く捌く特技がここのところ披露される機会も無い。

昼近く、漸く執務室へと帰ってきた中也は何処か重い空気を背負っていた。チラと椿を見て長い長い溜息を吐きながらガシガシと頭を掻く。勿論それに気付いた椿はピクリと片眉を上げ、走らせていたペンを置いた。中也は執務机ではなく、執務室に備え付けられたソファに座ると、隣をポンと叩いて椿を見る。

「……森さんが何?」
「否、首領が何かあったわけじゃねえ」

トトト、ぽすん。と中也の隣に腰掛け聞く椿に、中也は歯切れの悪い様子で「あー」やら「その、」やら云っている。その様子は浮気がバレそうな夫のようである。…中也と椿は少なくとも只の上司と部下だが。
然しその内決心したのか、中也は目を閉じて深呼吸し、開いた目を椿へと向けた。一体何がその口から明かされるのか椿は全く見当がつかないまま言葉を待つ。2人の間に緊張が走った。


「西方の鎮圧任務に行くことになった」


「……それだけ?」
なーんだと張り詰めた糸を緩めるように椿はソファの背もたれに寄り掛かる。その様子を見て中也は「それだけってお前…」と顔を覆った。そしてくぐもった声で本来の爆弾を落とした。

「任務は俺1人だ」
「え」
「期間は半年」


「………椿、お前は連れてけねぇ」
「!!」

走り出そうとした椿の腕を予め掴んでいた中也は「待て待て待て待て」とその体を引き止めた。今の顔は確実に鴎外の執務室に乗り込もうとしていた、危ない。と中也は抱き込んだ椿をソファに戻す。戻そうとしたが、今度は椿の腕が離れなかった。ぎゅうぎゅうと痛いくらい、それこそ一生離れないのではないかと思うほどへばりつく椿に、中也は予想していたこの状況に再度溜息を吐く。密着した体からすぐに分かった。椿は震えていた。

「………………………捨てるの」
「捨てねえよッ!!!半年つったろ」
「その間に心変わり」
「しねぇ」

「………それでもやだ、私も連れてって」
「お前なぁ…」


ゆっくりと首に巻き付く腕を引き剥がし椿の顔を見る。それは青を通り越して白く、瞳は揺れていた。太宰に置いていかれたことを思い出していると直ぐに察した。中也は莫迦が、という言葉と共に包み込むように再度椿を抱き締めた。背中をポンポンと擦り一先ずは落ち着かせる。太宰の件は椿のトラウマだ。無理も無い。椿はあれから置いていかれる事に敏感になっていた。

「椿」
「…」
「今回は連れてけねぇ」
「…ん」

鴎外に呼び出されて言い渡された事なら、それは首領命令であり、それはポートマフィアの人間であれば絶対に守らなければならない事だ。ここで幾ら椿が駄々をこねたところで中也が困るだけであり、結局彼は1人で任務へ行く。不安だった。その儘中也が帰ってこなかったら、椿は再び裏切られて失うことになるのだから。
然し中也は、太宰の時とは違ってその目をずっと椿に逸らさず向けていた。真剣な眼差しで「絶対に帰ってくる」そう云われれば、いやでも信じたくなってしまう。否、もう信じるしか無いのだ。

「連絡する」
「定期報告?」
「それもあるけどな。手前の携帯にも入れるしあっちで珍しいもん見つけたら贈ってやる」
「……変なのは要らない」
「あ?俺が選ぶもんが変なもんなわけねぇだろ」

電話も出来る限り出る。手紙も、何なら毎日花を贈ってもいい。そう云う中也にそこまでは求めていない、と返すも椿はどんどん心が落ち着いてゆくのがわかった。中也に捨てるつもりがないことが漸く心の奥に落ちたのだ。


「あ、お前のその悪癖も直しとけよ」
「? 悪癖…?」

「1人の人間に執着…否、依存だな手前の場合…兎に角、生きる事を誰か任せにするな」
「!」
「自分の為に生きろ、椿」


「直ぐには難しいだろうが、今回が良い機会だろ」
「……難しい」

椿は今迄自分の為には生きてきたが、それと同時に誰かの為に生きてきた。父親のマフィアで母の為に、ポートマフィアで太宰の為に。そして今は、手を差し伸べた中也の為に。
誰かの為に生きる事を悪いとは云わない。然しそれも行き過ぎてしまえば良くない。太宰の時のようなショックが再び椿を襲えば、椿は二度と立ち直ることは出来ないだろう。中也が裏切ることは無いにしても、だ。裏社会という闇そのものは誰かの意思に関係なく、鋭利な刃物である死が喉元を常に捉えている。

「そうかよ。…まぁまずは、自分の為に、仲間を守れよ」
「自分の為に?」
「手前を必要とする仲間は、云うなれば手前の居場所だ。それを守ることは、手前自身を守ることでもある」
「…わかった」

良い子だ、とくしゃりと髪を撫でられる。
椿が念を押すように「でも中也も絶対帰ってきて」と云えば、くくくという笑いと「応」という声が返ってきた。中也はそのまま椿の頭を引き寄せ額にキスを落とし、「手前も一番に出迎えろよ」と2人は互いに約束したのだった。