おむすびころり
椿は道の真ん中でとある影と対峙していた。
その日は偶々、椿の行きつけであるクレープ屋さんが閉まっていた。そして偶々、野良猫たちの餌場の張り込みをして外で時間を潰し、その帰りに偶々、普段は使わない道を使ってみようと思い立った。
凡ては偶然の産物で、目の前に倒れるこの少年も、恐らく、偶々何処かにつまづいて倒れてしまい、打ち所が悪く起き上がり方を忘れてしまっただけなのだろう。
じゃないとピクリとも動かないこの状況は可笑しいと、椿は顎に手を当てた。次いでグゥウウという音が何処からか……足元の少年から響いた。そして呻き声に混じって何かを云っている。椿はそそそ、と近付き耳を傾けた。
「うぅ……腹減ってもう…死に…そ……」
起き上がり方を忘れたのではなく腹が減って動けないだけだった。
不幸にも行き倒れた少年を見てしまった椿は、近くのコンビニまで異能で最短ルートを導き出し、1つ税抜き100円のおにぎりを買い、再び少年の倒れていた場所へと訪れる。
人の命を奪うマフィアが聞いて呆れるな、と椿は未だ道に突っ伏している少年の目前に、買ったばかりのおにぎりを置いた。すると音に反応して少年がチラリと顔を上げる。次いで目前の待ちわびた食糧に目を剥くと、一目散に飛び付いた。
慌てて口に詰め込まれるおにぎりと少年の様子を椿は暫くぼんやりと見詰めた。
ざっくばらんに斜めに切られた白髪。ボロを纏っていてその袖から見える手足も幾らか細い。放浪者、地下から逃げてきたのかとも推測したが、何となく違うかと思った。そういった日陰の者達は弱く臆病だ。こんな街のこんな所で倒れていたら臓器密売を生業とする者達の格好の標的だという事は知っている筈。…近頃活性化し荒稼ぎをしだした奴等にはそろそろポートマフィアが制裁を下さなければならない。
然し少年の見目はそんな事には構っていられない、今生きることで精一杯だとでも云うようで、口いっぱいに頬張ったおにぎりをもちゃもちゃと噛んで、失われていた栄養を摂る事と空腹を満たす事が今の彼の中では最優先事項だった。目の前に正体不明の女がいても、そして今彼が食べているおにぎりはその女が差し出したものだということも、今の彼には特段重要な事ではなかった。母親に知らない人からものを貰ってはいけないと教わらなかったのだろうか、因みに椿は鴎外に口を酸っぱくして云い聞かされてきている。
少年が椿の存在に気が付いたのは、最優先事項を成し遂げた後だっだ。
(……あれ、でも何でこんな所に握り飯が…?)
先程から視界の端にチラつき、動かない人影を、口におにぎりを詰め込み乍らも少年は認識していた。そもそも何故こんな道端におにぎりが突然現れることがあるというのか。それも丁度腹が減っている人間の前に、ピンポイントで!
少年は恐る恐る顔を人影へと向けた。人影はおにぎりを食べている間もずっと此方を見ていた。食へと注がれていた全神経が、食べ終わった末にやっと周りの情報を掻き集め出す。
目の前にいたのは、全く見覚えのない女だった。
日焼け知らずの傷一つない肌。余程大切に育てられたことが一目でわかった。女の雰囲気とでも云うべきだろうか。自分とは住む世界が違う、瞬時にそう思った。光に反射して艷めく髪に少年は目を細める。全体的に折れそうなほど華奢で、ガラス玉をはめ込んだかのような目と視線が合った。
ぽかんと少年は女を見る。女は無表情のまま少年を見る。女は爪の先まで整えられた手を差し出した。ビクリと少年は肩を反応させるが、差し出された女の手の上を見て、今度はそこに目が釘付けになる。
「も一個食べる?」
「…い………いただきます………………」
差し出されていたのは新たなおにぎりだった。貰えるのなら貰いたい。一先ず空っぽの胃に食べ物を入れたものの、少年は空腹を満たすまでには到達していなかった。
「はい」と手渡されたそれを、少年は今度はゆっくりゆっくり口に運ぶ。先程よりは性急でないそれを、女は黙って見ていた。少年は何処か気まずい気持ちでおにぎりを食う。絶妙な塩気と選び抜かれた具材の味がする筈なのに、1つも集中できていない味覚はそれらの前を素通りした。
結局少年はおにぎりを3つ食った。3つ目を食ってやっとおにぎりの味を堪能した。少年が食った所を見届けると、女はすっくと立ち上がり云った。
「…あまり細い裏路は通らない方がいい」
「へ、」
「でないと臓器をばらばらに売り飛ばされるよ」
「ヒッ………」
ぞわ、と少年は未だ自分の体に収まっている臓器の辺りを摩った。大丈夫だ、まだ売り飛ばされていない。「気をつけます…」と顔面蒼白にして云う少年に満足したのか、女は踵を返してスタスタと行ってしまう。最後に4つ目のおにぎりを少年に渡して。
「! え、あの、これっ!!」
「あげる」
「……あげる」
椿はそう云うと、今度こそ踵を返して歩みを進めた。
まぁまぁいい暇潰しになった、と椿は帰路につく。近所の野良猫に餌付けするような感覚でおにぎりを与えてしまったが、この後の少年の事など椿は微塵も考えていなかった。きっともう会うこともない。可能性としてあるとすれば臓器密売の拠点で少年が物言わぬ臓器としてばらばらにされた後だろう。然し臓器によって人の特定は出来ない為、そんな再会は椿にとって会ったとは呼べない。
無いな、とその可能性を振り出しに戻した後、目の前の野良猫に気を取られた椿は、既に先程の少年の事を頭の片隅に追いやった。
青い目をした黒猫だった。
(……あとひと月もしないで、中也が任務から帰ってくる)
今の椿の導となる人物は、半年ほどヨコハマを離れていた。その任務が決まった時椿は愚図っていたが、頻繁に寄越される連絡にあまり寂しさなどを感じることは無く、寧ろ定期報告よりも多い連絡に笑ってしまったくらいだ。連絡の方法は多種多様で、携帯での通話やら写真やら、手紙やら、花束まで贈られてきたこともあった。恐らく今日も帰ったら何らかの連絡があるだろう。出来れば食べ物が届いているのが好ましい。
歩調を軽くすると、椿の姿はヨコハマの街に消えていった。
後日椿は、気紛れで助けたこの少年と思わぬ再会を果たすことになる。