早朝の知らせ
窓の無い部屋に朝日は差し込まない。
然し染み付いた体内時計と生活習慣によって、椿には今が朝だとわかった。
薄らと開いた視界の中、チカチカと何かが光る。ベッドサイドに置かれた携帯のそれは、誰かからの連絡を知らせるもの。
開いた画面、日付を跨いだ夜中に送られたメールの差出人は中也であった。
表示されたメッセージは、『今日帰る』
「………………………え、」
▽
常に数人の足音が響くポートマフィアエントランス。その隅で、ちょこんと身を寄せて座る少女と女の姿があった。
「ほんと、ごめん……」
「…気にしてない」
方や沈んだ空気を纏い、少女はふるふると首を横に振る。
「椿の話は興味深い。これも楽しい」という少女のフォローに表情を一時緩ませるも、然し矢張り…と女、椿は肩を落としていた。
「行きたかった、鏡花とヨコハマ巡り…中華街、横浜スタジアム…赤レンガ倉庫…それにそこのクレープ、本当に美味しいの。食べて欲しかったのに」
「…うん、でも、今日は椿の大切な人が帰ってくる」
「大切というか上司…まぁ、うん…間違ってはない……」
間違ってはいないが…といつもより眉を下げる椿の背中を、少女は慰めるように撫でた。
この鏡花と呼ばれた少女は、半年前、西方の任務へと向かった中也と入れ替わるようにしてポートマフィアに引き取られて来た。
紅葉がいたく気に入り、可愛がり、椿もその繋がりで鏡花とは組織の中でも早くに知り合った。
最初こそ鏡花は口数が少なく感情の無い人形のようであったが、暫く会って話すうちに心を開いていったのか、見違えるほど鏡花と椿の会話は続くようになった。見掛けることがあれば走り寄って来てくれる事もあり、紅葉の溺愛とまではいかないが椿も椿なりに鏡花を可愛がっていた。
その構いっぷりに教育係である芥川は「貴様は年下に構わねば気が済まないのか」としばしば呆れていた。その言葉に椿は一瞬キョトと目を丸くしたが、よく考えてみれば久作、鏡花、樋口、それに黒蜥蜴の立原に銀を構い倒しているな、という自覚はあった。そしてその対象には勿論芥川も含まれる。怪我の治療は樋口にあの日から殆ど丸投げているが、偶に泣き付かれて芥川を引き摺る手伝いをしていた。
……加えてマフィア内ではないが、クレープの少年、中島敦も恐らく年下だろう。近頃探偵社に居ると云う人虎に懸賞金が掛けられているが元気にしているだろうか、とぼんやり思った。タイミングが悪いのか、未だあの公園で敦とは会えていない。トッピング付きクレープはいつ食べられる事になるのだろう。
そして椿はこの日、鏡花と出掛ける約束をしていた。
何故こんな話になったのかというと、椿が野良猫の餌場の張り込みも兼ねてよくヨコハマの街を散策しているため、表通りも路地裏も、地図に載っていないところまで網羅しているという話に鏡花が興味を持ったからだった。
「任務で街に出るでしょ?」「…任務の後は、血が目立つ。それに、報告の為に直ぐ戻る」「…嗚呼、それは仕方ないか…」云々。『任務ついでに街の散策』ではなく、寧ろ逆になっている椿とは大違いに鏡花は真面目だった。任務が課されたら寄り道せずに目的の場所へ向かい、完遂後は真っ直ぐマフィアへ戻ってくる。
それでは街散策など出来る筈が無いな、と考えた末に、なら私が連れていけばいいじゃないかと椿は思い立った。そして教育係である芥川から鏡花の休みをもぎ取ったのだ。
それを鏡花に云うと彼女は一瞬不安そうな顔をした。自分が外に出てもいいのか、と。
鏡花の見目は可憐な少女だったが、その正体は六月で35人殺した暗殺者だった。
紅葉の『金色夜叉』と似た『夜叉白雪』という残虐な異能を持ち、“35人殺し”と呼称され、血濡れた夜を駆ける自分が真昼の街中を、任務でもないのに歩いていいのか。
鏡花のその姿は、嘗て自身の異能に恐れていた過去の椿と重なった。だからなのか、余計に椿は鏡花を放って置くことが出来なかった。恐れなくても大丈夫だと、世界は1つではないという事を教えたかった。
彼女を外に連れ出すのを、ずっと楽しみにしていたのだ。
然しその予定は、朝に見た一通のメールで凡て泡沫となる。
たった4文字。然し椿にとって待ち望んだ4文字には、違いなかった。
今日、とは日付を跨いだ夜中に送られたのだから今日で間違いない。然し時間は?朝帰るのか昼帰るのか、それとも夕方か?夜か?
結局椿は朝メールを見て飛び起き支度をして、早朝からエントランスに張り込んだ。
そして鏡花とは元々待ち合わせをエントランスにしていた為、無事に会うことができた。事情説明をし、エントランスから離れることが出来ない事を伝えると鏡花は一言「わかった」と云った。然しその顔には少し残念そうな…否、椿本人が心底残念がっている為に見えた幻覚かもしれない。
その日の予定はエントランスでの茶会となった。通り掛かった広津には暫く何をやっているのかと見られ、茶会だと答えるとその後間もなく最中が届けられた。美味い。
用意した茶菓子とお茶、それに最中も、日が傾く頃には凡て2人の乙女達の胃袋の中に収められていた。
甘味に対して異様に大きくなる胃袋は乙女の七不思議のひとつに数えれる。
結局、丸1日待っているものの中也は現れない。
空が赤く色付き初め、烏達が巣に帰る声が聞こえる。
チラと隣の鏡花を見れば、真っ直ぐと背を正して座っていた。そろそろ鏡花の初休みが終わる。
「ごめんね、折角休みとったのに」
「ううん。茶会も楽しかった…ありがとう、椿」
「今度また芥川から休みもぎ取るから絶対出掛けよう」
寧ろ今回の詫びも兼ねて絶対に連れ出さねば、と意気込む椿に鏡花はふっと笑みを漏らした。
堪らず椿は鏡花を抱き締め、別れを云うと名残惜しそうにその小さな背中を見えなくなるまで見ていた。
「……中也、連絡したのに何も返って来てない」
何時頃帰ってくるのか、と聞いた送信済みのメールを確認する。届いている筈なのに返信は何も無い。
鏡花が居なくなって暫く待っていると、段々と心細くなってきた。外はもう薄暗い。明るいエントランス、数人の人が行き交う中で1人、備え付けられたソファの上で膝を抱く。
(………はやく帰って来て)
正面口のドアが開く電子音に顔を上げると、心待ちにしていた姿がそこにはあった。
ソファから立つ時にバランスを崩したが持ち直し、走ってその胸に飛び込む。其れを待っていたかのように開かれていた腕は、椿の体を包んだ。
暖かい。其れによく知っている匂い。ぐりぐりと抱き着いて擦り寄れば、「おい」やら「待て」やら聞こえた後、仕方ないとでも云うような溜息の後に髪を撫でられた。
「熱烈な歓迎痛み入るが、そろそろ顔見せろよ」
漸く顔を上げ、椿は目の前の青と視線を合わせた。
「……おかえり、中也」
「嗚呼。ただいま、椿。約束、守ったな」
「うん。誰よりも先に出迎えた……」
椿は抱き着いたまま、手近にある中也の耳を引っ張った。
「ッだだっ!!手前ッ何やってンだ!!!」
「何で、返信しなかった…」
恨めしそうに云う椿の指先から自身の耳を救出すると中也は何だそんな事かよ、と少し嬉しそうな顔をする。
何を喜んでいやがるんだ、ともう一度耳に手を掛けようとすればその前に腕を掴まれて阻止された。
「ちっ…言い訳くらい聞いてあげる」
「何だその上から目線」
答えようによっては中也の耳が悲惨なことになる、と脅しを付けると暫く黙った後に中也は口を開いた。
「俺の事、一日中考えてて欲しかったんだよ」
「いっっっっつも連絡寄越したら芥川がどうとか姐さんがこうとか俺が居なくても案外平気そうにしやがって…俺は手前だけ想って連絡してんのに手前は…」
「………だってみんな面白い」
「俺は手前の事が聞きたいとは云ったが手前の話に毎回手前は出てきてなかったぞ」
「……ごめん?」
「…ハァ」
何故か椿の方が謝る事になっていた。
中也はもういいとでも云うように溜息を吐くと、会話を切り上げ椿の存在を確認するかのようにぎゅうと抱き締める。
椿もやっと帰って来た仲間の存在に、心を落ち着けるのだった。