閑話 落とされた火蓋
ポートマフィアビルの地下。拷問器具が立ち並ぶ牢屋の一室に、その場の雰囲気とは合わない、厭に明るい声が響いた。…その直後、怒りを孕んだ声も追いかけるように響いてくる。
「中也……君は実は良い人だったのかい?」
「早く死ねって意味だよ馬鹿野郎!!」
嘗て双黒と恐れられた2人がその場に居た。とはいえ、方や一触即発、もう片方は瞳をキラキラとさせており穏やかではない。…否、この2人が穏やかな時の方が寧ろ少なかった。
階段に立つ中也と崩れた壁を背後に立つ太宰。離れる2人の距離はその互いに対する心を表しているかのようだった。…実際には数メートル規模ではなくマリアナ海溝並であるが。
「じゃあ、捜しやすいように好みの美人像教えておくね!」
「要らねえ、めちゃくちゃ要らねえ」
「百合の如く清廉な出で立ちで氷の如く冷たい瞳に、亜麻色の髪とスラリと白い手足を持ち、猫のように気まぐれで然し1人では満足に眠れない、月のような美人がいいなあ」
「手前ェ…………………………………」
ピキリと中也の額に青筋が浮かぶ。頭に浮かんだのは1人。そして極めつけに態々“月”と付けて来やがったと口の中で悪態をついた。挙げた要素は思い浮かんだ1人と合致する。その上“月”とは、其奴の裏社会での呼び名『月の女』__すなわち、椿の事だと中也は直ぐに気づいた。
自分から捨てておいて今此処で云うのは十中八九俺の反応で遊ぶ為。これも太宰の嫌がらせの内だろう。
話す心算は無かったが、釘を刺しておくには丁度いい、と中也は口を開いた。
「椿に会ったか」
「? いいや、会ってないけど」
「なら、そのまま会うな。真っ直ぐ保管庫行って情報掴んでさっさと消えろよ」
「へえ?何故中也にそんな事を云われなければならないんだい?何れ会う事にはなるだろうに」
「会うなっつってんだろが…手前なら奴に会おうと思えば幾らでも会える。だがその逆だって朝飯前だろ?実際此処4年…手前の潜伏していた分を引いても2年間、ヨコハマの街を隈無く歩いた椿と1度も出くわさねえのは可笑しい。…彼奴が手前に振り回されンのは、もう御免なんだよ」
「……随分、私の椿と仲良くなったようだねぇ」
よく云う。
「ッ彼奴は手前のモンじゃねぇ!! 手前の人形でも、ましてや兵器でもねぇ。一人の人間で、俺の仲間で、俺の、………俺の女だ」
「ふふ、牽制しているつもりかい」
「ハン。手前も殺気が隠せてねえぞ。…俺は本気だ。そもそも、彼奴を捨てたのは手前だろうが。今更口出しすんのは烏滸がましいぜ」
「捨てた、ねえ……そう思われるのも、仕方ないか」
「あ?手前、何云って……」
何処か含みのある笑みを浮かべ呟いた言葉は、中也の耳にも確りと届いた。
“そう思われるのも仕方ない”その云い方はまるでそれが本意では無かったとでも云いたげだった。太宰は椿に何も云わずに、椿を置いてその身一つでマフィアを去った。結局太宰の逃亡を幇助した者は見つからずに終わっている。以前の太宰の様子なら真っ先に椿にマフィアを抜ける事を云っていただろうに。そうなれば太宰だけでなく椿もマフィアから消えていただろう。然し逃げる頭数が増えればマフィアの網から逃げることは1人よりも難しくなる。その場合の2人の生死は五分五分になっていただろう…、そこまで考えて、中也はハッと太宰を見た。
「真逆、」
太宰は椿を生かす為に、何も云わず置いて行ったのか?
太宰が消えれば真っ先に椿に幇助の疑いを掛けられる事くらい予想できる。幹部の損失は組織としては最悪の痛手だ。下手したら処刑されていたかもしれない。首領の鴎外は幾ら椿を娘のように思っていても、組織の為なら平然とそれを執行する。そういう男だ、あの人は。太宰も鴎外の数式の如く計算し冷徹に切り捨てる面がある事はよく知っている。
否、真逆、そんな筈。然し行き着いた考えが頭から離れない。太宰の笑みがこの考えを肯定しているようにも思えて仕方が無い。
見つめる中也に太宰はひとつ告白をするようにゆっくりと口を開いた。
「中也。私は今も、彼女の事を愛おしいと想っているよ」
それこそ4年前と変わらない…否、それよりももっと深く。
今になれば4年前、無理矢理にでも椿をマフィアから連れ出さなかった判断は間違いでは無かったと胸を張って云える。一時は椿を失うことを恐れたが、あの時鴎外が用意した最悪の選択は、月日が経つにつれて変化し、太宰にとっての最適解となったのだ。
4年という離れた時間は太宰の心を成熟させ、安定させた。これで4年前よりも椿を“正しく”愛し、大切にできる。
そして裏切りによって椿の中での太宰は、世界を統べる神ではなく、只の人間になった。
後者は思わぬ報酬だった。
「それに…ふふ、君の反応から察するにだけれど、彼女の中から私はまだ消えていないようだ。それが分かっただけでも、私個人の中で今回捕まった1番の報酬だねえ」
「…手前、俺が許すと思ってんのか」
「君の許可は必要ないのだよ、中也。選ぶのは椿だ。君じゃあない」
「椿は手前が捨てたと思ってんだぞ」
「うーむそこは最大の問題だよねえ。何とかするよ」
そんな簡単に行くわけが無い。それに太宰が再び椿を傷つけようものなら、中也は黙ってない。そもそもこんな事に気付かなければ、中也は本気で椿の中から太宰を追い出し、自分の女にする心算だった。いつまでも好きな女が自分以外の男を引き摺っているのは穏やかではない。今の椿には太宰の存在自体が地雷だ。それもこの男はわかっている筈、なのに。
「…つくづく勝手な男だ」
「うふふ、それは君が1番よく知っているだろう。…ふむ、然し君のお陰で椿は立ち直したと云っても過言ではない。お礼をしなくちゃねえ」
「…へぇ?なら椿を諦めて大人しくしとけよ。自殺志望の美人なら捜してやるから死ね」
「うふふ」
「それは無理だ」
「ああそうかよ。…これで終わると思うなよ」
「2度目はねえぞ」
「違う違う。何か忘れてない?」
「………………」
地下に再び、厭に明るい笑い声が木霊した。