月の裏側


「ッ龍之介!!!!」

ポートマフィア内。とある通路を歩く芥川の背中に、怒りを孕んだ声が投げかけられた。騒々しい、と眉間に皺を寄せて振り返れば、声で判別していた通りの人物が走り乍らキッと芥川を見る。

「矢張り貴様か、椿」

椿は走っていた歩調を芥川に近づくにつれ緩め、然し通常よりかは速い歩みのままに芥川の襟元へと掴みかかった。
氷のような眼差しを向けてくる椿に、芥川は嘗ての師の面影を感じ乍も「何の真似だ」と口を開く。

「解除不能爆弾鏡花に付けて人虎を捕らえに行かせたね」
「それが何だ」
「“何”?それはこっちのセリフ」

「仲間を何だと思っているの」

椿の表情は変わらず、口調も淡々としたままだった。然しその目は射抜かんばかりに芥川を見ていた。研ぎ澄まされた切っ先が喉元に当てられている錯覚さえ覚える。
然し芥川は少しも怯まずに言葉を返した。

「…フン。アレが仲間?自分の意思で異能を扱えないのでは只の子供と同意。アレは駒だ。そしてマフィアは、“使えるものは凡て使う”。貴様も理解している筈」
「そんな事分かってる。でも使い方というものがあるでしょ?作戦が成功して人虎が捕らえられれば爆弾は解除すればいい。なのに如何して態々解除不能の物を」
「アレは殺してこそ生きることが許される。それ以外では許されぬ。其れに、これは奴が望んだ事」
「ッそんな筈無い…!」

芥川の目は凪いだ湖の様に静かだ。まるで凡て事実だと訴えるかのように、その黒い目は椿と視線を絡める。

「彼奴は自分の意思で異能を操ることができぬ。それを僕が駒として使ってやることで彼奴に生きる意味を与えてやっている…然し貴様は、それを取り上げると?其れこそ非道。その行動は只の貴様のエゴに過ぎぬ」
「………私は自分の異能を、最初は自分の意思で操ることは出来なかった。でも、今は違う」

「龍之介、お前も最初から出来た訳では無いでしょう。鏡花も、きっと出来るようになる。あの子は自分の意思を持った人間、駒じゃない。龍之介、お前が与えなくても、鏡花は自分で意味を、居場所を見つけられる。…それに、」

「私はこんなことをさせるために、お前を助けていたわけじゃない」
「ッ途中放棄してよくも抜け抜けと! 助けた? 貴様が僕を治療していたのは、ただ道ズレが欲しかっただけだろう…!

__太宰さんの!!」

声を荒らげ、そう続けた芥川に椿は苦虫を噛み潰したように、その美しい顔を歪めた。それを見て芥川は幾らか気分を高揚させる。
今やこの女の顔が歪むところなど、ほんのひと握りの者しか目にしたことなどないだろう。そしてこの女が、見た目に寄らず存外子どものような面を持っているのだということも、突かれれば途端に崩れる所があるのだということも、芥川は知っている。
月の表は美しい。然しその裏には醜い傷を隠しているのだ。

「ッ違う!!!私が龍之介を助けたのは…龍之介が、仲間、だから」
「………」

道ズレでも、弟弟子ですらも無くなったと云うのか。
己と椿を繋ぐものは、椿にとって仲間という一括りで片付くものにまでなったのか、と芥川は言葉も無く目を伏せた。

芥川は少なくとも、未だ椿を同胞だと認識していた。太宰を求め、太宰を
信仰し、太宰の背中を追う者。椿は太宰の消えた4年で太宰への思いを断ち切ったと思われているが、それは断ち切られてなどいなかった。寧ろ心の深い底に根差し、表に出ない分膨らませ燻らせている。それに当の本人は気付いていない。気付いているのは芥川、それに上司である中也といった、彼女と太宰をよく知る者だけだ。

確りと引き摺っている癖に、表面上ではのうのうと平気に振る舞う椿。まるで取り残されているのはお前だけだとでも云われているかのようだ。不快、不愉快とも似て非なる黒い感情が芥川の中に湧き、胸の内を掻き乱す。無性に腹が立つ。
ならば気付かせてやる。この苛立ちのお返しだとでも云うように、芥川は口を開いた。

「仲間、か。ならば貴様に、朗報をくれてやる」
「?」
「太宰さんは現在、地下牢に捕縛されている」

「………は?」

またも変わった椿の表情に、矢張りあの人の事になるとわかりやすい、と芥川はひとりごちる。椿は目を剥いて芥川を見つめ、じわじわとその顔に感情を滲ませていった。燻りは呆気なく顔を出し、容赦なく本能のまま体を突き動かす。
隣を椿が走り抜け、芥川の外套が揺れた。
そうだ、それでいい。

「恐らく太宰さんの事だ、既に脱出しているだろうがな」

そう声を投げ掛けても、椿の足が止まることは無かった。
精々、掻き乱されてしまえ。そして自覚しろ、己が此方側に居る事を。
そう思いながら芥川は踵を返し、椿とは反対方向へと足を進めた。



(太宰が、居る。近くに)

椿は地下牢への道を転がるように駆けた。途中誰かとぶつかった気がしたが、顔を見ないまま地下へ急ぐ。何処に捕えられているかは、芥川が使用する地下牢に覚えがあった。その場所を目指して、息が切れることも忘れて走る。
何がこんなにも胸を突き動かすのか分からなかった。それは本能的なものに近い感情だった。太宰の許へ向かう足を止める方法も、溢れる感情を止める方法も、椿には分からない。
降る階段の先、漸く着いた地下牢は湖の底のように静かで、人の姿は影すらも見えなかった。

太宰は、居なかった。

現実は、彼の背中さえも見ることは許されないのだと云っているようだった。その場にぺたりと座り込む。石畳が厭に冷たく感じ、胸を埋め尽くす虚しさを余計に増長させた。

僅かに、期待があった。若しかしたら、自分を連れ出しに来てくれたのではないかと。太宰は芥川に捕まるようなヘマはしない。屹度態と捕まった。本来の目的があった筈だと。
然し僅かな期待は所詮期待でしかなく、石畳の上に転がる手錠と、抉れた壁、影もない彼に、あえなく打ち砕かれた。
否、最初からわかっていたことじゃないか。
太宰は捨てたのだ、今迄の女達と同様、椿の事を。捨てた女とは二度と会わない彼が会いに来るはずが無い。
厭というほど、わかっていた。勝手に期待して、勝手に裏切られた気になっているだけだ。そんなことわかっているのに、何故こんなにも苦しい。

苦しさは、あの日、太宰が消えたと共に殺した筈の想いだった。
あの日、殺し損ねていたのだ。吊り下げられた僅かな希望にまんまと顔を出したそれはずるりと目前まで引き摺り出され、酷く椿の胸を締め付ける。
叩きつけられ自覚したのは、太宰への未練、執着だった。

(…………龍之介め、この為に態と焚き付けたな)

黒獣の彼の思惑を察した。突き放したことに芥川が苛立ったことに椿は気付いていたのだ。それにしたって、態々未練を自覚させるなど…この仕返しは性格が悪い。一体誰に似たのか…否、己と共通する師か、と椿は再認する。芥川は矢張り同胞なのだと。
然し芥川は同胞ではあるが、椿にとっては仲間でもあった。芥川はそれが不満らしいが、椿にとってはそうだった。
守るべきもの、大切なものの1つ。
中也が半年の任務に向かっている間、椿はただ1人への依存をやめた。諦めではない。寧ろ諦めない為にだ。大切なものを1つも失わない為に、椿は強くなることを決めた。

然し其れには、どうしても太宰への想いが邪魔だった。
今の椿にとって大切なものはポートマフィアの仲間達だ。太宰治という個人ではない。寧ろ太宰はポートマフィアを裏切ったのだから、今の椿にとっては敵だった。仲間を守る為には敵を排除しなければならない。そうしなければ失う事になる、奪われる。
それでも時折、未練が後ろ髪をツンと引いては消える。その度に胸が締め付けられた。

無理やり踏ん切りを付けるために椿は見えないように蓋をした。彼の気配を色濃く残す場所には近付かず、夢の中に現れる彼の背中に手を伸ばすこともやめた。そうしていくうちに、太宰への想いは段々薄れていったかのように思えたのだ。
…そう思っていたのに、真逆、こんな形で思い知らされる事になるとは思わなかった。芥川の鮮やかな仕返しにいっそ笑いが込み上げてくる。

「ふ…ふふ、」

自嘲のような笑いが冷たい地下に響いた。
それと共に、地下へ続く階段を降りる足音が聞こえる。ハッと振り返れば、黒い人影が見えた。

「! だ」

「此処で何してやがる、椿」
「……中也」

そこに居たのは、先日帰ってきた中也だった。

「ったく、通路爆走して来たと思ったらぶつかって来やがって…しかも何も云わずにまた走り出すしよぉ、手前」

来る途中にぶつかったのは中也だったらしい。その場で椿が謝ると、はーぁと長い溜息を吐きながらゆっくりゆっくりと階段を降りて、振り向いた椿に近付いた。その顔は椿に、何処か責めるような眼差しを向けていた。

「で?如何して手前が此処に居る」
「…裏切り者を、始末するため」
「………………誰に聞いた?」

「会ったのか」
「ッあ、」

答えろ。と中也の目が鋭く椿を射抜く。腕を引き上げられ無理矢理立たされ、逸らせまいと顎を捕まれ顔を見合わせた。
何しに此処に来た、誰に聞いて来た、太宰と会ったのか。

太宰に会うために、此処に来たのか。

息を呑んで何も云うことが出来ない椿に図星と捉えた中也は一層顔を歪める。

「何故だ、彼奴は手前を捨てたのに、如何して手前は…!」

苦しそうに絞り出した言葉。
中也は掴んだ顔をぐいと引き寄せ、唖然とする椿の唇に自身のそれを押し付けた。

驚愕して咄嗟に離れようとする椿の体を、寧ろ片手で引き寄せて密着させる。顎を掴んでいた手は後頭部へと回り、離れることを許さなかった。
椿は混乱した。唇に触れる熱を、目の前にいるのは本当に中也なのか、と。唇を割って入る舌に思考は絡め取られ、辛うじて酸素を取り込む事は出来たが正しい思考などは出来なかった。

漸く離された唇に、椿は瞳に困惑と驚愕の色を浮かべた。そんな椿を中也は黙って見つめる。中也も瞳に困惑の色を浮かべていた。

「な、んで…、」
何故、如何して、という事ばかりが頭に浮かんでは消えた。
中也は戯れや親愛の意味でよく額や頬にキスしてくる事はあったが、今迄椿はそれらのキスに対して特に触れはしなかった。それに中也は、口へのキスは断固としてしなかった。額や頬とは異なる意味となるそれに、何か彼の中での信条があったのだろうと察していた。それに、椿にとっての中也が仲間だという事実は揺らがなかった。仲間以外の何者でもなかったから、中也の隣は安心できた。
然し、
「なんで…っ」

「仲間、なのに」

「…嗚呼、手前に取っちゃそうだろうな」
「?! っふ…ん、待っ」

中也は再度、ゆっくりと、然し逃がさないように唇を合わせた。太宰とのそれしか知らなかった椿にとって、それは今迄とは全く別物のように思えた。そして先程のそれとも違った。
キスは呼吸を奪うものばかりだと思っていた。然し中也は唇を短く合わせては離し、酸素を椿に送り、唇で愛でるように椿のそれに触れた。
息は苦しくない。けれど何処か何かが「違う」と訴える。

「待って…中也、やめて」
「…手前はもう、太宰のモンじゃねえだろ」
「ちが、太宰は……ッ」

バチン!と椿の両手のひらが中也の頬を勢いよく挟む。
キスは止み、中也はきょとんと何が起こったか分かっていない様子だった。

「会ってない!!!!」


「………は?」
「だからっ…太宰となんて会ってない」

中也の誤解、と続けた椿に中也の目は暫く白黒したまま、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。そのまま力いっぱい頬を摘んでやると、「っ痛てぇッッ?!!」と声を上げた。
はーやれやれ、と手を離せば若干涙目になって摘んだ所を擦りながら中也がジロと睨んでくる。

「ぶっ叩いた上…本気で抓りやがったな?」
「離さないし話を聞かない中也が悪い」
「手前が何も云わねえからだろッ!!俺は、てっきり…」

二人の間に微妙な沈黙が流れる。

「…本当に、太宰の野郎に会ってねえんだな?」
「………ごめんなさい。心配かけた」

中也は太宰に置いていかれた直後の椿を知っている。その姿の悲痛さも、再びそれが襲えば椿が2度と戻ってこれなくなることも。だから余計に太宰と椿の事には敏感になるし心配もしていた。
それに椿が未だ太宰を引き摺って居ることも分かっていた中也は、椿が太宰と会ってしまえば、椿は自分の前から消えてしまうのではないかとも思っていたのだ。実際椿は、この地下牢で捕縛されていた太宰の事を何者か──恐らく芥川だろう──に教えられて、此処に来た。裏切り者を始末するためとは云ったものの、恐らくそれは本当の目的ではなかっただろう。
じっと見る中也に、椿は安心してほしいと、その顔に笑みを貼り付けた。

「もう、大丈夫」

中也の色々なパンチが強かったという事もあるが、いつの間にか太宰への未練で占めていた思考は消え去っていた。中也がいれば、大丈夫。無条件にそう思った。
軽い足取りで横を通り抜けて行く椿に、中也は待ったの声を掛ける。
「何処行く。………一応云っておくが、彼奴はもう居ねえぞ」
「違うよ」

「龍之介に一寸、仕返し」
「……………………………………おう」

目が据わっていた。
手始めに外套ひん剥いて、今日隠していた傷口にはたっぷり消毒液を含ませた脱脂綿を押し付けて、ギッチギチに包帯も巻いてやる。
姉弟子の恐ろしさを思い知らせてやる…と息巻く椿に、哀れ芥川。悪い事は云わねえから謝った方が手前の為だ…と中也は思いつつも椿の背中を止めはしなかった。

1人残された地下牢で、中也は垂れた髪ごとくしゃりと顔を覆い、長い溜息の後に「格好悪ィ」と小さく言ちた。
椿よりも先に太宰と再会し、太宰の想いに気付いてしまった為に、太宰に会おうとしていた椿に爆発的な焦りが中也の頭を占めたのだ。
その結果、あんな余裕のない有様になった。
これでは4年前、自分が何のために椿を手に入れたのか丸裸にされたようなものだ。

「キスする心算なんざ、無かったのに」

結局綺麗事は綺麗事でしかなく、中也も1人の男だった。