反転する


情報通り、手勢を集めた密輸組織が侵入し、芥川を連れ去った。そして単身での威力偵察へと向かった樋口と、後を追うように出動した黒蜥蜴の連絡は、凡て首領である鴎外の耳に届いていた。

鴎外は執務机に頬杖を付き、口頭で述べられたそれに相槌を打つと黒服が一礼して下がる。その姿が執務室内から消えると、くるりと首を回してヨコハマの夜景を映す全景窓、その前に誂えているソファへと顔を向けた。

3人が掛けられるその長いソファには、椿が身を沈みこませていた。傍らには既に冷めている紅茶がある。執務室に足を運んだ彼女に淹れたものだが、それはあまり手をつけられずに未だ中身が残っていた。

先程まで椿は体を横たえながら横目にヨコハマの夜景を見て、そして天井を見て、と視線をせわしなく動かし落ち着かない様子だった。
たった今の黒服の報告の後、幾らかそれも落ち着いたようだが。

心配なら行けばよかったのに、と鴎外はその様子を見てやれやれと肩を竦めさせた。後に、今の報告を聞いていただろう、と口を開く。

「行かなくてよかったのかい?」
「…」
「…椿ちゃん?」
「いいの」

一度懐に入れた者は絶対に守り、扶ける彼女が、芥川を態と危険な目に遭わせた。それも本人の成長の為に。
仲間といって只守るだけではない、盲目的に信じすぎるわけでもない。成長したものだなぁ、と鴎外がしみじみとしていると椿は口を開いた。

「龍之介の仕返しも兼ねてるから」
「…」
「懲りればいい」

こちらも私怨だった。

むくりと起き上がると椿はヨコハマの街を見下ろす。宝石箱をひっくり返したような街の明かりをガラス越しに撫で、今頃芥川を救出しているだろう樋口と黒蜥蜴を思った。
樋口は単身で芥川の許へ向かう前に、椿へ連絡をしていた。“先輩は私が必ず扶けます”。芥川の事に関しては椿に扶けを求めることが多かった彼女が、そう云った。椿の手は借りないと。彼女は鴎外と同じく、椿も芥川を切り捨てたと思ったのだろうか。


「…でも、樋口には嫌われたかな」

ボソリと。寂しそうな声で椿が呟いた。鴎外はそれを聞き逃す事なく、その背中に慈しむように目を細め、声を掛ける。

「大丈夫だよ。樋口くんにはきっと伝わっている…勿論、芥川くんにも」
「……」
「おやおや、珍しく沈んでいるねえ」
「思っていることが、必ずしもその通りに相手に伝わるとは限らない」
「…………………うん、そうだね」

何か思うところがあったのか不自然に間が開いた鴎外の返答に、椿は特に突っ込まなかった。人を数式の如く分析し計算する彼にもそのような経験があったのだろうか。

「…」

鴎外は、嘗て自分の元にいた闇を瞳に携える少年を思い浮かべていた。


「…よし」

きっと椿の思惑通り、樋口は芥川を救出し、芥川も樋口や黒蜥蜴に救出される。それに黒蜥蜴が動いたということは、武闘派と樋口との間にも何か生まれたのだろう。一先ず片付いたと思って差し支えない筈だ。
胸を覆い隠していた霧を晴らした椿は、次の行動に移そうと何やら頷いた。

椿は冷めた紅茶をごくごくと一気に飲み干すと、ご馳走様と一言残して執務室の扉へと向かう。目的地の定まっているかのような迷いのない足に、鴎外ははて、と考えた。

彼女の紅茶を冷めさせた杞憂の種である芥川と樋口、黒蜥蜴は恐らく無事だが未だ彼らからの報告は無い。ロビーで迎えでもする心算か、と聞く鴎外に、椿は扉の把手に手を掛けながら振り返った。

「少し、確認しなきゃいけないことがある」

後ろ手で首領執務室の扉を閉める。椿は船の甲板での光景を、険しい気持ちで思い返していた。


芥川と戦っていたあの人虎。動きは疾かったものの、全く姿が見えないわけではない。幾ら疾いと云ってもいつまでも動いているわけでもなかった為に、椿はその姿を捉えていた。

人の形を保ちながらも虎の手足や尻尾を持つ姿は正しく人虎の名の通り。
白く光を反射する動物特有の光沢感のある毛並みの手足、瞳はネコ科の動物を彷彿とさせるような鋭い金。変身の時に破れたのだろう、所々ボロボロな服に、椿は見覚えがあった…それもつい最近。

然し公園で会った彼、____中島敦は探偵社の事務員では無かったのだろうか?と椿は思うも、直ぐに彼の口から一度も事務員だという話は聞いていないことに気付く。
人畜無害そうで虫も殺せなさそうな、小豆の屑を頬にくっつけてクレープを食べるような少年。それが椿の敦に対する印象だった。異能も持っていないと思い込んでいた。

然し甲板の上、芥川と戦闘の末に彼を海に沈めた人虎は…。

「……」

機械音が響くエレベーターは椿を乗せて下へ下へと降りていく。向かう先は、芥川が人虎関連の記録を残している筈の通信保管所だ。



開かれた室内の床には何者かに荒らされたのか、無造作に資料が散乱していた。然しそのどれもが人虎に関連する記録。その他の資料は一切動かされていない。
コツコツと威嚇のように靴を鳴らして室内に入る。勿論箱庭を広げ周囲にそれらしき人物が居ないかの警戒もしたが、特に見つからない。
足元の資料を拾い上げると、ちょうど虎に変身する異能力者の詳細な情報が記された記録だった。

そしてその紙面に、矢張り見覚えのある少年の姿を見つけた。