閑話 男はつらいよ
草木も眠る夜。
体を隅々まで洗い、さあ眠ろうとしていた椿の部屋がある地下に、エレベーターから1つの気配が降りてきた。
それは不規則な歩みで廊下を進むと、部屋の扉の前で止まりコンコンとノックが響く。
身に覚えのある気配に椿は迷うこと無く扉を開けた。そこに居たのは黒い帽子。いつもの黒い外套は羽織っておらず、幾らかラフな格好をした中也だった。
「中也…?」
「よォ。入っていいか」
「何?私もう寝るつもりだっ」
「……ちょっと?」
ぽすり、突っ立っていた椿目掛けて中也は抱き着いて来た。否、なだれ込んで来たの方が正しいかもしれない。
しかもだんだん体重を掛けてくる有様だ。中也の腕が背中に回りぎゅうと拘束するため逃れようにも簡単にはできなかった。
「支えらんな、おも、い」と云っても重くしてんだよとでも云うように更に体重を掛けられる。中也と椿はあまり身長は変わらない筈だが、そこは男女の差とでもいうものだろう。
暫く踏ん張っていたものの足が限界を迎え、もう無理だと悟った椿はズルズルと床に座り込んだ。これでも拘束を解かない中也に呆れる。気持ちよさそうな寝息を立てて人を布団にしていた。
ふわりと酒の匂いが漂う。これは結構飲んだな、と椿は推測する。酔っ払った中也を見るのは半年ぶりだ。それもその筈、半年西方に行っていたのだから。大方、久々に広津や梶井と飲んだのだろう。
「起きて、中也」
「ぐぅ……」
「此処で寝ないで。寝るなら仮眠室行って…ベッドは1つしかないよ」
まったく、何故此処に来たのか。硬い床よりも仮眠室の柔らかいベッドの方が寝心地がいいだろう。幹部の部屋であれば尚更だ。
突然中也がバッと体を起こしてこちらを見つめてきた。酒の所為か顔が赤い。グラグラと揺れる瞳と目が合うと、中也はわななく口を開いた。
「俺は別に、一緒で構わねェ」
「…何云ってんの?」
手袋を嵌めていても伝わる中也の熱が椿の首元を撫でた。
「…ンだよ、ちゃんと着けとけって、云っただろォ」
「…チョーカーのこと?だから、私今から寝るつもりだったって」
云ってるでしょ、という言葉はチクリと走った痛みに呑み込まれた。その後リップ音が耳元近くで聞こえ、椿は静かに握り拳を作った。
然しそこで否、待てよ、と思いとどまる。このまま殴ると目の前で吐かれる可能性がある。そんな恐ろしい事あってはいけない。せめて上から退かさなければ、と一先ず中也の肩を押したり揺らしたりしていると、「気持ち悪ィ…」と声がしてすぐさま手を止めた。どうしろというのだ。
暫し考えているといつの間にか胸元がスースーと風通しが良くなっていた。…?
「?! な、なに…」
「何って、一緒に寝るんだろ。脱がなきゃ出来ねェだろが」
「は、」
何を云っているんだ、この酔っ払いは。そして何をしているんだ。
運の悪い事に今日の椿の寝間着はボタンが前に付いていた為、それはいつの間にかへそ上あたりまで開けられてしまっていた。有り得ない、という顔で中也を見るとそれに気付いたのか、空気に晒される胸に寄せていた唇を離して視線を合わせて来た。完全に目が据わっている。
「あ…____」
肌がくり立つ気配を脳で感じながらも、椿の体は石化したように動かない。震える喉が男の名を呼ぶと狙いを定めたかのように目が細められる。
嗚呼、これでは、まるで
「………すーーー」
「………」
胸に顔を埋めたまま、そこから寝息が聞こえた。チラと見れば先程までの瞳は瞼に隠され…………眠っている。
なんて困った酔っ払いだ、と思いつつ肩の力を抜くと、椿は最大の問題に気付いた。先程よりも重い体、がっちりと拘束する腕。椿の胸を枕にして眠る中也。
「………抜け出せない」
▽
「っ寒ィ…」
朝、中也は肌寒さからぼんやりと意識を浮上させた。何となく体の節々も痛いような気がする。然しこの、丁度頬に当たる柔らかな感触は心地が良く、このままもう一眠りしてしまいたい気分だった。それに少し温かい気もする。
擦り寄るようにしていると頭上から聞き慣れた、然しいつもより数段低い声が聞こえてハッと閉じていた瞼を開いた。
「ばっどもーにんぐ」
「…………………………は、え?お前、」
「取り敢えず退けて」
背中が痛いと訴える椿に反射神経を総動員させて退いた。中也が今迄寝ていたのは床、それも椿を下敷きにして。そして頬を擦り寄せていたのは白桃のような椿の……
そこまで考えて中也はサッと顔を青くさせた。そして次に服の乱れを確認した。自分の服装には特に見つからない。椿は呑気にボタンを留め始めていた。その首元の赤が二日酔いの頭痛を増長させる。
「………俺、何かしたか」
「……」
じっと見る椿の口からどんな言葉が飛び出すのか、中也はゴクリと唾を飲み込んで見張った。
「………ひどい。わすれたの?」
「?!?!!!!!」
中也は言語化に難い叫びをあげた。
「って何もしてねェのかよ?!」
「うん」
あっさりネタバレをした椿に中也は深い深い溜息と共に罪悪感を吐き出した。良かった。何もなくて良かった。断じて少し惜しかった等とは考えていない。
そしてネタバレと共に芋づる式に思い出した記憶がそれと合致した為に、恐らく本当だろうという確証もあった。
チラと椿を見れば首元に覗く赤い印も、正真正銘中也が付けたものだ。
一晩床で下敷きにされ、痛む体に寝直そうかと考えていた椿に中也が近付く。不思議そうな顔をしてそれを見る椿に、中也は眉を寄せた。
「…」
前に俺は此奴にキスをした。今回も未遂とはいえ此奴の事を押し倒した。なのに此奴は、抵抗どころか今も俺に近寄られて警戒のけの字もねぇ。男として見られていないとでも云うのか、否、それよりも昨日押し倒した時の此奴の目に浮かんだ諦めと似た物は何だったのか。
ぐるぐると回る思考の渦、その末に中也は口を開いた。
「何で昨日、抵抗しなかった」
「…抵抗……?」
「っ手前なら暴れでも何でも、箱庭でも使えば逃げれただろ」
「嗚呼、そういう…何だろうね。体が動かなくなって…異能を使う事も思い浮かばなかった」
椿は目を見た。中也の目を通して、嘗て色を教えこまれた男の目を。
あの男の前で凡百抵抗は無に等しく、異能を使う事さえ無駄であると学習させられた椿は、あの男の下では只鳴くことのみ許されていた。強力な異能を持ちながらも男の下では支配され蹂躙される女であれ、そして隙を誘い出せと。…あの男に隙何てものは微塵も無かったが。
誰にでもあの男の目を見る訳では無い。然し皮肉にもあの男の目をもう一度見ることになった相手が、元相棒になるとは。
「…ごめんね中也」
「何に対して謝ってンだよ、それ」
「だって眉寄ってる。怒ってる?」
「…昨日の手前は、怯えてた。謝ンのは、俺の方だろ」
「…」
「厭なら、厭って云えば善いンだよ」
「っ…」
「云って善いんだ、椿」
スル、と中也の手が椿の頬を包む。視線は真っ直ぐと合わせられ、そのまま顔が近付いた。
鼻先が触れ合い唇が触れる直前、椿は小さく「いや」と云った。
声は乾き切っていた。
「……それで善い」
俺も厭がる女相手にするのは気分が悪ィからな、と中也は椿を解放した。
此奴の中からあの男、太宰が消える迄待てる。それくらいの甲斐性はあると自負していた。
「昨日のは?」
「抉ってんじゃねェよ」
…矢っ張り少し思い知らせた方がいいだろうか?