開戦前


「紅葉姐が、鏡花を?」

組合、探偵社との戦争準備に追われるポートマフィアビルを上から下へ伝達係の黒服が走る中、椿は幹部執務室の中也が座る執務机隣に設置された自身の執務机で書類と睨めっこしていた。上司の口から放たれた言葉に、齧り付いていた書類から一旦視線を上げる。
戦争を始めるにあたり、鴎外はポートマフィア全幹部に探偵社員の鏖殺を命令した。勿論中也の直麾である椿にもそれは伝わっている。
そして幹部の中でも早くして行動を開始したのが紅葉であった。然し彼女は溺愛する鏡花の助命を具申した。結果それは赦され、紅葉は鏡花を迎えに行く為部下を連れて出向いたという。それを聞いて椿は、仲間の鏡花が帰ってくる、と胸を撫で下ろした。紅葉が迎えに行ったのならば確実だろう。嗚呼、やっと彼女と行けなかったヨコハマ散策へ行ける。この戦争が終わったらの話ではあるが。
椿のその様子に中也も目を細め口の端を上げた。

「善かったな」
「…うん」

組合の海老釣りの時も鏡花には会ったが、あの場で彼女を連れ帰ることは難しかった。鏡花は鴎外の姿に声も無く怯え、その上隣に控える椿にも怯えの目を向けたのだ。
少々の寂しさを覚えたが、「ポートマフィアは裏切りを赦さない」という事を骨の髄まで刻み付けている為にその反応は妥当であろう。その時の目的が組合の海老でなければ、下手をすればあの場で彼女を排除をしなければならなかったかもしれない。その場合、首領である鴎外直々に手を下すとは思えない為、椿の手で、仲間であった鏡花を処刑する事になっていた筈だ。想像して椿は無意識に眉間を寄せ「本当に善かった」と零した。

「手前はいいのか」
「? 何が?」
「首領の命令は絶対だ。探偵社員は凡て排除する。…だが泉のように願い出れば」
「……中也は、私が誰の助命を嘆願すると?」

ある種の緊張を孕む視線が交わった。椿は中也の口が次に云う言葉を、研ぎ澄まされた刃のような瞳でじっと待つ。
暫しの間執務室内を静寂が支配した。椿を見詰める中也の目は、どこか彼女の心を見透かそうとでもしているようであった。そしてその口が、“あ”の形を作る。
椿は目を細め、それが音となる前に否定した。

「それは有り得ない」
「…どうだかな」
「有り得ないよ。マフィアの掟は絶対。その上、元部下の私が太宰の助命を嘆願したら、漸く落ち着いた逃亡幇助の疑いがぶり返して中也に迷惑がかかる。…それに幹部の紅葉姐の具申が通っても、幹部直麾の私のそれが通るとは思わない」

否、鴎外なら通しかねないが、という言葉を中也は飲み込んだ。太宰がマフィアを抜けてから奴が鎮座していた幹部の一席は、未だ空いたままだったのだから。

「ねぇ、中也。私は中也の部下。なら、私が守るべきは中也で、仲間だよ。…そうでしょ?」

仲間を守れと云ったのは中也だ。椿は中也の言葉を信じ、今まで純粋に、ひたむきに仲間を守り、味方を守り、敵の尽くを排除してきた。
鏡花は一度探偵社に身を寄せたが、戻ってくるならばまた仲間として守ることが出来る。然し、彼は。

「裏切り者を、元上司であっても守る義理はない」

「太宰諸共探偵社は排除する」無感情な声で云う椿を中也は黙って見た。そして徐に席を立つとツカツカと彼女の許まで歩き、その手を引き上げ抱き込む。
椿はぱちりと瞬きをひとつして、中也の回された腕に倣って自身もその背中に手を添えた。耳元近くで中也の声が椿の鼓膜を揺らす。
それはまるで云い聞かせるような、子守唄のようでもあった。

「ああ、そうだ。手前の守るべきモンは仲間だ。手前の居場所は此処だ、椿」

返事の代わりに椿は、回した腕に力を入れぎゅうとその身を寄せた。トク、トクと中也の鼓動の音を間近に聞き目を閉じる。体を包み込む中也の温度は椿を安心させた。
何故中也が突然こんなことを云い出したのかは解らないが、案外すんなりと自身の口から否定の言葉が出たことに椿は安堵した。正直太宰の名が出たことに胸がざわついたが、それも今は落ち着いている。

太宰が探偵社に身を置いているというのを偶々知ったのはいつの事か。異能を使わずとも、彼の居場所は判っていた。それでも自分から太宰を追いかける事はしなかった。何故か。
…中也が居たから。
あの日、あの時、あの場で。太宰に捨てられた椿を再び掬いあげたのは中也だ。
マフィアの為に、中也の為に、自身の異能も自分自身も使ってみせる。嘗て太宰を上司に持ち、太宰に凡てを捧げていた時のように。
中也の腕の中で椿は目を開いた。そして離さぬように、離れぬようにぐりぐりと頭をその肩に押し付けた。
まるで猫のような仕草に中也は短く笑いを零し椿の頭をうりうりと撫でる。そして再び固く腕に閉じ込めて、髪の一束に口付けを落とした。ピクリと椿が反応する。

「…何かした」
「何もしてねェよ」

ふぅん、と未だ中也の肩に擦り寄りながら中也を疑わしそうにじっと見る椿に、中也は疑ってんのかオラと今度は乱雑にぐしゃりと髪を撫でた。然し指通りの良い髪はすぐに指の間からすり抜ける。今度はそれを数度繰り返し、生糸のようなそれが滑る様子を満足そうに見た。

(そう簡単に抜けきらねェな…此奴の悪癖は)

中也は未だ太宰の存在を拭い切れていない椿を懸念していた。その為先程かまをかける心算で切り出したのだが、以前地下室に太宰を捕縛した時の様子とはまた違っていた椿に少なからず驚いた。そしてそれと同時に、椿の変化に喜んでいる自分もいた。悪癖も、憎き太宰に傾倒するよりはこちらに傾いている方がまだいい。

あとの懸念は、未だ椿を諦めていない太宰がどう動くかだ。そして今回の戦争で組合だけでなく探偵社とも衝突する為に、遅かれ早かれ椿は太宰と接触する事になるだろう。できれば彼女をずっと閉じ込めていたかった。然し強力な異能者でマフィアの戦力である椿が今回の戦争に駆り出されない訳がない。外つ国の異能集団である組合は手強く、太宰の居る探偵社も、資金・武器・人員は3組織の中で最も下であるが能力者は少数精鋭。太宰の悪知恵も合わさって変わり種で粘るに違いない。
マフィアは使えるものは凡て使う。鴎外は目的の為ならば、彼女を躊躇なく外へ放り込むだろう。

中也には予感があった。椿が太宰と会えば、必ず彼女の中の何かが変わる。それこそ4年前、置き去りにしてきた時間が動き出すだろう。
腕の中の小さな背中が血濡れていたあの時を思い出す。

(俺が守ってやる)

椿の云う仲間としても、中也にとっての特別としても。
彼女を二度と壊させはしない。何も知らない此奴は今が幸せだ。外のことなど知らなくて善い。此方が与えない限り椿が知ることはないし自分から知ろうともしない。そうやって彼女はこの箱の中で必要なものだけを与えられて生きてきた。
そしてそれは、これからもだ。

カチリと椿の首元のチョーカーの宝石が光る。中也の手がそれを撫で、そのまま上へと行き着き椿の顎をとらえた。そのままくいと視線を合わせるように上げると、かち合った椿の目が猫のように細められる。
背中に回していた腕をより密着させるように腰へと滑らせた。擽るように頬を撫ぜながら反対側の頬に唇で触れる。椿は拒否をしなかった。然しどうしたのかと不思議そうな顔をする。

「中也…?」
「…」

だんだんと近付きぼやけてくる中也の顔が、椿の顔に影を作った。互いの鼻先が触れ合いそうな距離、彼女の瞳がゆっくりと長い睫毛に隠される。薄く開かれた唇に、自分のそれを重ねた。

否、重ねようとした。それは重なる前に執務室内に響いたノックに阻まれた。中也はハァ、と溜息をつき音の原因である扉を見ると再度ノックが響く。…どうやら急ぎらしい。
椿はいつの間にか中也の腕からすり抜け、扉を開ける。そこには伝達係の黒服が蒼白とした顔で立っていた。何事かと問えば、引き結んでいた口を解放し黒服は報告した。

「紅葉様含め部隊との連絡が途絶えました。恐らく、襲撃を受けたものと…」
「!」

椿がバッと中也に振り返る。中也は極めて冷静を保った声色で口を開いた。

「…部隊を集めろ。情報を解析し姐さんの場所を割り出せ。直ぐに向かう」