閑話 裸の付き合い
「やだ」
「な、中原幹部呼びますよ!」
「…」
それもそれで厭である、と渋る椿に念を押す様に樋口は珍しく強い口調で云った。
「駄目です。キチンと清潔にしなくちゃ化膿しますし痕が残ります!」
樋口は芥川を医務室に引っ張るようになった為か其方の方面にも詳しくなったようだ。然しこんな所で使われることになるとは…と椿が唸っていると、あれよあれよという間に広めの風呂場へ連行される。
いつの間に居たのか銀が背後に立っていた時は「これが黒蜥蜴…」と椿はゴクリと唾を飲んだ。
医務室に颯爽と現れた樋口の目は何か重大任務でも与えられたのかと思うほどキッと険しく椿を捉えた。「大人しくしてください」と突き付けたのは黒光りする拳銃…ではなく、高級お風呂セット。
傷に染みるという理由で風呂を渋り、暫く体を拭くだけに留めていた椿だったのだがとうとう首領命令が下されたらしい。
風呂場を見ると広い浴槽に花弁が浮いていた。椿は半目でそっと扉を閉める。
その背後でさぁ脱いでください!と任務に燃えた瞳で鬼気迫る樋口に、流石に服は自分で脱ぐ、とここまで来れば観念したのか椿はぱさりとショールを落とした。
女3人、ぺたぺたと浴室に足を進める。矢張り普通の風呂ではない。
白いバスタブに同じく白いタイルの壁と天井、床は何やらモザイク画のようになっている。柔らかな間接照明の光が浴室全体を包み、加えて香るフローラルがリラックス空間を生み出していた。
樋口はこの乙女空間に乙女らしくはしゃいだような声で「凄いですね!」と云う。銀も落ち着かないのかキョロキョロとしていたが、暫くして2人は任務を思い出しそれぞれシャワーノズルとスポンジを取り出した。
「さ、椿さん。腕を出してください」
「……」
任務開始である。
銀は兄が風呂嫌いだから慣れているのか、動きの年季が違う。どのタイミングでも湯から逃げようとすれば素早く退路が塞がれた。手強い。背中に目でもついているのだろうか。矢張り染みた傷に顔を顰めるも、口はキュッと結んだまま大人しくしていた。
首領命令の言葉が効いているのか、と樋口は内心猫の風呂のように暴れる椿を想像していた為、大人しく洗われている椿にホッとした。
首領に寄越された高級お風呂セットで磨かれた椿の肌が、これまでのぞんざいな椿のケアから蘇っていく。
そうして全身くまなく洗われた椿は、ちょんと湯船に足をつけた。
両側を樋口と銀に固められ「キチンと浸かってください」と釘を刺される。渋々湯船に体を沈めていった。湯船に浸かって暫くした後、樋口が口を開いた。
「聞いた時は驚きました。真逆、先輩と同じく椿さんまで風呂嫌いだったとは…」
「…龍之介のアレと私のコレはまた違うと思うけど」
椿の言葉に隣の銀が静かに頷いた。妹は兄の風呂嫌いの理由を知っているらしい。樋口は頭上に「?」を浮かべている。
芥川の風呂嫌いは身に纏う布が無ければ無防備になるからという理由だ。椿の今回の風呂嫌いは傷口に染みるから渋っていたのだ。碌でもない理由である。
ジャグジーによって揺れる水面、太腿の影にポツリとある傷を見遣る。その周辺は特に念入りに、慎重に洗われた。そっと手を這わそうとしたところで、その腕を樋口が掴み制止する。
「…椿さん…………」
「何もしようとしてない」
そう云ってふるふると首を横に振るも樋口は「駄 目 で す」と口調を強くした。別に自分の傷だし自分がどうしようと勝手だろうに。
然しふと、掴む樋口の肩を見れば椿の太腿と同じような傷痕が目に付いた。そのままじろじろと見ていると樋口は怪訝な顔をして「な、何ですか」と云う。そして彼女の太腿にも同じく銃弾の痕を見つけると、椿は「それ」と掴まれていない方の手で指差した。
差されたそれを見ると樋口は「これですか」と声を漏らした。
「この仕事に就いてから覚悟していましたから気にしないでください。それにこれは…芥川先輩を扶けて出来た、傷ですから。誉傷ですよ」
「…カルマ・トランジットの残党の時?」
「はい」
「……樋口、あれは」
「あれで少しは、芥川先輩の背中に近付けたような気がするんです」
「!」
「まぁ、その後矢張り叱られてしまったのですけど」
「……そう、か」
芥川は芥川なりに彼女を、部下を守っていたのだ。叱責も、彼なりに思った結果だろう。あれがする事が回りくどいのはいつもの事なのに、気付かずに心無い言葉を云ってしまったとチクリと胸を痛みが刺す。
近頃は頻繁に感じるその痛みは罪悪感だった。体も何となく熱い気がする。
「……先輩から、聞きました。椿さんがあの船の時に止めたのも、私や先輩を思ってのことだったと。首領は、わかりませんが…貴女は先輩を切り捨てたわけじゃ、なかったのですね。もう、わかりませんよ、私……私は、椿さんや先輩のようにはいかないんです。…だから次はちゃんと、言葉にして、云ってくださいね。……いえ。私もこれからは椿さんをキチンとわかれるようにします!そうすれば少しは芥川先輩も認めてくれると思うんです!だから、覚悟しててください、ね」
樋口の微笑むような気配と声が何処か遠くで聞こえるように感じる。頭がぼうっとしてクラクラする。
「あの、椿さん?…椿さん?!!」
慌てたような樋口の声と銀の腕が体を支える感覚を最後に、視界はブラックアウトした。
▽
湯船に浸かって逆上せた椿は一先ず報告を受けた中也の指示で中也の幹部執務室の隣の仮眠室に運ばれた。
何故地下の椿の自室じゃないのか、と疑問に思いながら怠さの残る体をベッドに転がしていると、執務室に繋がる扉から中也が姿を現した。その顔には組合と探偵社とマフィアの三社鼎立の異能力戦争によってか若干の疲れが見える。きっと先程まで書類の処理をしていたに違いない。椿は医務室で暇をしているだけなのだから書類を寄越せと云っても、頑なに「病人は寝てろ」と何もさせてもらえなかった為、それ見たことかとじとりと中也へ視線を送った。
その視線に気付いたのか中也はくいと片眉を上げベッドへ近付いてくる。「何だよ、一人で寂しかったか?」「ちがう」と軽口を叩きながら、寝転がる椿の周りに散った髪に手を伸ばし、未だ湿ったそれに僅かに顔を顰めた。そして足早に何処かへ消えると、暫くして帰ったその手には椿の自室から持ってきた入浴後のヘアケアセットがあった。
これは紅葉が椿のぞんざいな髪のケアに頭を抱えて寄越したものである。「髪は女の命じゃ。生乾きで寝るなど以ての外だぞ、わかっておるな?」と懇切丁寧にケア方法を教えられたが椿自身がそれを1から10まで省かずやった事は殆ど無い。3から8あたりはすっ飛ばしている事が多かった。見兼ねた中也が椿の髪にケアを施すようになるのは時間の問題だった。
「オラ、しんどくなかったら体起こせ」と声を掛けられのそりと体を起こす。座る中也の前に移動して背中を向ければ、丁度手袋を外しトリートメントを馴染ませた中也の手が椿の髪に取り掛かった。
「手前そのまま寝る積りだったろ」
「だってダルい…髪乾かすのも億劫。切ろうかな」
「折角綺麗なんだ、やめとけ。姐さんや首領が絶叫すんぞ。あと手間暇かけてる俺の前で云うな」
「中也は面倒じゃないの?それも他人の髪なのに」
「あ? あー、面倒か。思った事ねえな」
一瞬中也の声が止まるも、直ぐに次の言葉が背後から聞こえた。
「後ろめたくない理由で惚れた女に触れられるんだ。寧ろ得だろ?」
「惚れ…」
あ、これは。と椿は医務室で暇潰しに見た人間模様を描いたテレビ番組を思い出した。こう何でもして相手に尽くす人間がいて、尽くされ過ぎた相手がそいつに向かって云った言葉があった筈だ。確か、
「駄目人間製造機」
「はァ?ンだよそれ。…でもまぁ、いいぜ。手前が俺の所為で駄目になるなら幾らでも世話してやる」
「中也、私を駄目人間にしたいの?」
「……嗚呼。世話してる分、俺が居なきゃ駄目になっちまえば善い」
そう云って目を細める中也の表情は、椿からは見えなかった。然し相変わらず柔らかく優しい手付きに、これは根深い駄目人間製造機だ、と独り言ちる。「………救えない…」ハーヤレヤレ、と云う椿に中也は何となく無言でドライヤーのスイッチを入れた。「うっ」髪が一気に視界を覆い尽くし若干の呻き声が聞こえたが、中也は髪を乾かすことに努めた。何となく、こちらの気も知らない彼女にイラついたのだ。
髪のケアが終わると椿はまたごろりと転がる。天蓋を見ているが焦点は定まっておらず、考え事をしているようだった。
あのドラマ、再放送であったらしく内容は割と大人向けであった。結局は好き合う同士ベッドに縺れ合うように倒れるシーンもあった。その時は医務室を出ようとした芥川を何となく引き止めるなど嫌がらせをした。
愛する者同士は体を重ねるらしいと、自分が今までしてきたことは愛を確かめる行為だと、知らなかったわけではないがその時椿は初めてその目で見た。然し腑には落ちなかった。椿自身、母親が父親の愛人であったこともある。椿の知るそれは歪んでいた。そして液晶の向こう、幸せそうに微笑み合う人々とも掛け離れていた。愛は、温かいという。然し感情に近い概念的なそれに温度があるとは、到底思えなかった。
形のない愛の存在を、確かめたいのかもしれない。
「ね、中也は私を愛してる?」
ピクと中也の肩が反応する。「嗚呼」と淡白に返事をする中也に、起き上がった椿は目を細め「じゃあ」と口を開いた。
「抱かないの?」
「は?」
ポカンと口を開け見る中也に、椿が「面白い顔」と笑う声が部屋に木霊した。そして正気に戻った中也は椿の頬を掴み、伸ばした。大変よく伸びた。
「いひゃい」
「抱くとか抱かねぇとか軽率に口に出すんじゃねえ」
「れも、」
「でもも何もねぇよ。今はまだ、いい」
「む…」
「俺の隣に居ればそれでいい」
ぱっと離された頬の伸びを戻すように擦る。
「変なの。……真逆、」
「云っとくが不能じゃねえぞ」
「じゃあ欲情するほど魅力がない?」
「はァ???」
それはちょっと傷付く、と椿は自分の胸元をぺたぺたと触ってみる。平均よりは大きい筈だが、と思っていると「ちっげぇよ!」とガシリと肩を掴まれた。
「手前な」
「何?」
キョトリと中也を見るとわなわなと目線があっちこっちに行っていた。せめぎ合う何かと戦っていたのだ。椿には知る由もないが。
終いに中也はギッと一層強く椿の肩を掴むと、ボスリ、その背を柔らかなベッドの上に倒した。乾かしたばかりの椿の髪から舞う香りが鼻腔を擽る。ぐっと顔を近付けばそれに混じって椿の香りが濃くなった。ゴクと中也の喉が鳴る。丸く開かれた瞳はジッと中也を見て、目が合うと、ゆっくりと瞼が閉じられた。
中也はギッと奥歯を噛み締める。この状況、抱いてしまうのはあまりにも簡単だった。「莫迦が、」と呟いて、鼻先が触れそうなほど近付く。中也の髪が椿の首元を滑った。椿は未だ目を開けない。
「………」
近付いた中也の唇は、その額で小さくリップ音を鳴らした。
パチリと椿の目が瞬く。
「…ふーん」
「不満か?」
「ちょっと。でも、中也がいいなら、いい…」
「……ハァ」
いいと云いつつ不満そうな雰囲気を隠しきれてない椿に、一つ溜息を吐くと中也はガシガシと頭を掻いた。前は押し倒したら怯えたくせに真逆誘ってくるとは思わなかった。これも太宰に会った所為か? と未だ押し倒したままの椿を見ると、呑気に船を漕いでいた。誘ったくせに直ぐこれだと、どちらにせよお預けだった可能性が高い。しょうがねぇ奴だ、と呆れるもその頬は緩んでいた。
「寝るか?」
「……ん、おやす、み…」
横になった中也のシャツをきゅうと握りながらうとうととしている椿を見れば、仕事の疲れなど飛んでしまった。
完全に瞼が閉じるとスゥスゥ寝息までたてはじめる。頬に掛かった髪を避ければ見える安心しきった寝顔に、中也はまた溜息をついた。
「抱けって云った男の隣で寝るかよ、普通」
「ちゃんとわかってんのか?」と云うも返事は寝息ばかりで返ってこなかった。信頼されているのだろうが、これは男に対する危機感諸々が凡て蹴散らされている気がする。
駄目人間製造機という言葉には拍子抜けしたが、また適当に見たテレビの影響だろう。まったく何を見ているのか。
然しあの言葉は、中也の奥底の本心にほど近いものだった。
「本当に、俺が居なきゃ生きれなくなっちまえばいいのに」
彼女はそんなことは望んでいないだろう。だからしない。ましてや怪物にもさせはしない。此奴は一人の人間に、此奴が望んだようにする為の手伝いをしてやるのだ。
だから今だけは、吐いた少しの嘘を赦して欲しいと、薄く開いた唇へ祈るようにそっと接吻を落とした。
「おやすみ、椿」