すり抜けてゆく
「椿!」
ポートマフィアのエントランス。鴎外の許に行こうとした椿の背後から掛けられた声。その後ぽすっと抱きついて来た小さな気配に、椿は目を細めその名を呼んだ。
「久作。…おはよう。外にはもう慣れた?」
「ふふふ、うんっ」
ぐりぐりと頬を擦り付けるQ、もとい久作に応えるようにその頭を撫でる。
彼はこの戦争を征する為に鴎外が座敷牢から解き放った、精神操作の異能力者だ。椿もその異能を一度受けたことがある。あの悪夢は出来ればもう二度と見たくはないが、久作に構う事と話は別である。
それに久作は、あの一度きり椿へ徒に悪夢を見せようとはしていなかった。どちらかと云えば今のようにこうして普通の子どものように甘える事の方が多い。
座敷牢暮らしの退屈を知っている椿は、久作へ頻繁に会いに行っていたものの、決まって二人の間には牢の檻が有り手を伸ばす程度の触れ合いしか出来なかった。だからか、その分今は体いっぱいを使って抱きついて来る。その姿は可愛らしく、椿もつい抱き締め返したり撫でたりしてしまうのだった。
久作が外に出されたのは椿が怪我をしたその日だった。折角外に出たのに、いつまで経っても会いにこない椿に久作は癇癪を起こしていたらしいが、その時椿は医務室に縛り付けられていた為行きたくても行けなかったのだ。椿が医務室に居ると知れば久作は直ぐにその姿を椿の前に現した。その時は流石の椿も驚いた。久作のことは何一つ聞かされていなかったのだから。
椿はあれから傷も治り本来の立ち振る舞いができるようになっていた。病み上がりではあるもののそんなことは云ってられない。中也とは今朝から別行動である為、鴎外に指示を仰ぎに行きたかった。幹部である中也が戦地に赴く事になるということは、組合も探偵社も中々のようだ。ならば少しでもマフィアの役に立ちたい。
久作を撫でながらも意識は他に向いている椿に久作はむっと顔を顰めた。然し直ぐに甘えたような声で話しかける。
「ねぇ、椿。ぼくこれから外に散歩に行くんだぁ!椿も行こ?」
「…今は、無理だよ久作。私これから首領のところに行かないと」
「え〜!やだやだァ!椿も一緒に行くの!行くでしょ?行くよねぇ、椿〜!」
両手足をばたつかせてやだやだと駄々をこねる久作に椿はうーんと思考した。
「指示を受けた後なら行けると思う…それまで、此処で待ってて」
どちらにせよ久作1人で出歩くのは少し危ないだろう。さっさと敵を片付けて、久作と待望の外を楽しむのも良い。
久作は自分が後回しにされるのが不服なのか、頬を風船のように膨らませ不満を顕にしていたものの、最後には「はやくしてね!」とエントランスにあるソファにちょこんと座ったのだった。
エレベーターがチン、と鳴り最上階へ着いたことを知らせる。開いた扉の向こうへ真っ直ぐ向かうと、来ることがわかっていたかのように黒服が扉を開け中へと促した。
首領執務室には鴎外がいた。エリスはその傍で絵を描いている。「やぁ、椿ちゃん。丁度呼ぼうと思っていたところだよ」と鴎外が云うと、エリスは顔を上げ、クレヨンを放り投げて走り寄って来た。
「椿っ! 脚の具合はもういいの?」
「うん。この通り」
そう云ってエリスを抱いたままくるりと回ってみせる。きゃあきゃあと可愛らしく声をあげるエリスの髪が回る度に揺れた。
戯れも程々にエリスを降ろして鴎外に向き直ると、その顔を手で覆っていた。
椿は首を傾げ、エリスは表情を険しくする。
「……首領?」
「リンタロウならいつものことよ椿」
「…」
嗚呼、成程。と相槌を打てばコホンと鴎外は咳払いをした。エリスは詰まらないとでも云うようにクレヨンを持ち直し壁へと手を付け始める。
呼ぼうと思っていたなら、指示があるのだろう。椿は佇まいを正し鴎外の言葉を待った。紅く昏い瞳が此方を見る。
「組合の海上拠点を落としたのは知っているね?」
「…はい。梶井と龍之介によるものと聞いています」
「宜しい。然し組合の進撃は衰えを知らない。恐らく代わりの拠点が有るのだろうが、地上にも海上にもそれらしきものは見当たらなかった」
「組合の拠点を探し出せという命令ですか?」
「…ふふ。いいや、目処はついているのだよ」
そう云うと鴎外は執務机の引き出しから紙の束を取り出し渡した。
「空にも部下を飛ばしてね。レーダーが空中要塞らしき塊の存在を感知したが、そこにはただ深く青い空があるのみだった。恐らくその塊が組合の新拠点だろう」
紙の束にはレーダーが感知した上空のデータが示されていた。大きなそれは鯨のような形をしている。組合の能力者の異能だろうか、と資料を見ている椿だったが、空中にある拠点は箱庭では探し出せない。空に天井は無く、拠点は地に着いていないためホログラムは映さないだろう。椿が空中拠点に居ればそれとこれとは話は別であるが。
そこではた、と鴎外を見る。にっこりと微笑みを携えているが、これは、真逆。
「どうにかして侵入せよ、と?」
「今は何より情報が欲しいからねぇ。戦況を動かすには先ず情報が必要不可欠だ。戦況が動いたのならその都度新たな情報が必要になる」
宜しくねと云う鴎外に、椿は任務を遂行する為、足を出口へ向けた。
「嗚呼、そうそう。……如何しても必要になってしまったら、組合の者に異能を使いなさい。君が月の女だと知られる可能性もあるが、その場を切り抜ける為なら致し方ないだろう。君の安全が何よりも大事だ」
「!」
出口へと向いていた体を止め再度鴎外を見る。太宰の言葉が脳裏に蘇る。
「…首領。何故、組合が月の女を狙うの?」
「ふむ。それを聞いて如何するのかね?」
「………、如何する?」
「……組合が月の女を狙うのは、何もこの戦争が始まった時からではないのだよ。人虎に懸賞金を掛けた組織は一度、闇市に70億の横断幕を掛けると共にマフィアへ交渉を持ち掛けている」
「…その交渉が、私?」
それに組織と云うことは、掛けたのは組合だけではないということなのか。そう問えば鴎外は目を細める。肯定という意味なのだろう。
何故椿が狙われるのか。そう考えて真っ先に出た答えが、椿の異能の利用だ。足を付けずに簡単に人を殺める事が出来る椿の異能を小国のマフィアに置くよりも更に利用したいと考える輩が居るのだろう。然し月の女の、それも正確な異能の情報が何処から漏れたのか。マフィアの情報網にハッキングを仕掛けるにも相当な技量とリスクを伴うというのに。
相手は外つ国の成金ばかりではないと、立ち込める不穏な気配に椿の背中を冷たいものが走った。
ガラス張りのエレベーターはヨコハマの街を映し出していた。椿は降下していく箱の中、案外重い任務が課せられたがどうやって空中拠点に侵入しようか思案する。かさばる為傀儡は使えないだろう。
そうしている間にもエレベーターは地上へと近付いて行った。
「久作……?」
コツりとエレベーターから出てエントランスを見回しても、待たせている筈の久作の姿が見えなかった。あれほどの小さな姿は此処では珍しい。すぐに見つかる筈だった。然し姿がない。真逆、1人で行ってしまったのだろうか?
厭な、予感がした。
それと共に走り出した。こんな事なら黒服を呼んでおかせるのだった。然し後悔しても遅い。
今は只脚を動かすことのみ集中しろと、椿は自分の足に喝を入れた。
▽
久作は1人、ヨコハマの街を歩いていた。
「やっぱり外っていいなあ!みんな楽しそう……ふふ、誰で遊ぼうかな」
3組織による異能力戦争真っ只中であるというのにそんな気配は微塵も感じさせず、街に人は溢れ返っていた。異能力者を管理する異能特務課の後処理という名の揉み消しのおかげか、街ゆく人々は暗部に目を向けることは無い。
久作は「あ」と声を漏らした。予め鴎外に外に出る条件として任務以外で異能の使用は禁じられていたのだ。むぅと顎に手を当てて考える。
人混みは絶えず行き交っていた。
「つまんないなあ……椿はぼくを放っておくし。…ふふ、今頃慌ててぼくのこと探してるだろうなぁ!でも椿が来るまで暇だなあ…」
「ねぇ、だから、おじさん。遊んでよ」
そうして久作は、黒い外套を掴んだ。
椿は久作がまだ遠くへは行っていないだろうと目処をつけ、箱庭で探していた。そして見つけたのは橋の上、倒れた久作の姿。傍には黒い外套を纏った長髪長身の男が立っている。
何やら通信をしているようだった。
「…? 視線……」
ラヴクラフトは一瞬感じた視線に辺りをくるりと見回した。頭一つ分人の波から出た彼は目立つ為、それかと思い今しがた送られてきた通信の内容を反芻し、目の前の地に伏す少年を見る。
____その背後に、黒い影が躍り出た。
ゴッ!!!と襲い来る衝撃。
揺れる視界でラヴクラフトが見たのは、繊細な外見の女が容赦なく自身を蹴り飛ばす姿だった。厭な音が自身の内側から響く。重い足技はラヴクラフトの首を狙い放たれていた。
ゴトリと大きな体が地面に倒れる。
「っ久作!」
椿は一目散に久作へと駆け寄った。
特に外傷は見当たらないところを見ると只気絶させられただけのようだ。ほっと胸を撫で下ろす。よかった、とその小さな体を抱き上げた。その拍子にころりと人形が落ちる。
落ちて転がった人形はコツりとその人物の足先によって止められた。椿はスゥと目を細め、相手を見遣る。
「やぁ、また会ったね」
「…組合の」
「わ、ラヴクラフト大変なことになってる」
軽い声で倒れた男に話しかけたのは以前路地裏で接触したスタインベックだった。馴れ合うつもりは毛頭なかったが、以前の言葉を返すように椿は口を開く。
「…貴方こそ、仲間が死んだのに何とも思わないの?」
「死んだ?……ふぅん、そうか。君がやったんだね、これ」
どういう積りなのか、スタインベックは緩やかな声色で話を続ける。
椿はスタインベックを撒いて箱庭で監視の後、彼が空中拠点へ帰るルートを探り出そうという心算だった。気絶した久作がいることは計算外だが、監視の後マフィアに戻るくらいの時間はある筈。
然し今回は前回と違って傀儡は居ない。それに人も多い。やり合うならそれなりに場所が欲しいものだ。此奴は蔓を使うから出来るだけ振り回しづらい入り組んだ場所がいい。そこで撒ければ万々歳だ。
久作を抱え直す。頭の中で地図を思い浮かべて踏み出そうとした椿に、幾つもの触手が押し寄せた。
「?!」
間一髪でそれを避ける。
真逆、スタインベック以外に組合の者が居たのかと目だけを動かしてみるも、それらしき姿は椿の目の前のスタインベックと、先程地に伏したラヴクラフトだけであった。
「ねぇ、マフィアの月の女神」
「ヘカテ、…それ、私のことを云ってる積り?」
「知らない? 月を司る死の女神の事だよ」
「…少なくとも、それではない」
「そう……なら、名を聞こうか」
「………月の女神」
「はは、そう来たか」
いつの間に只の女から女神に格上げされたのか。大層な呼び名だ。然し態々月を持ち出してくるとは、もう月の女だとはバレていると考えて差し支えはないだろう。
警戒を強める椿にスタインベックは笑みを深める。
「…あの時は騙された。君の異能は傀儡では無く、“ある一定の空間に居る生者を意のままに操る”。そして月の女の異能も、“相手に自殺させる”ことじゃない。操った君が自殺させているだけだ、とね」
「…そう。ならこれも知っている筈よね、“月の女は姿を見た者を凡て殺す”」
「おお、美人の怒った顔は怖いね。でも、こちらもタダでやられるわけにはいかないんだ…給料分は仕事をしなくちゃ。ねぇ、ラヴクラフト?」
「……ッな、」
そこには、ラヴクラフトがのっそりと起き上がっていた。コキとあらぬ方向へ曲がった首を元に戻す。椿の行く手を阻んだ触手は、彼の片腕から伸びていたのだ。蛸のような触手はうねり、元へと戻っていく。
確かに首の骨を折った筈、と椿の顔に焦りが生じた。2対1、それに傀儡は無く、久作が居る。
「先程、うちの団長から指示が降りてね。君が抱えているその子が必要なんだ」
「久作を、如何する心算?」
「…君が大人しくしてくれれば、出来るだけ悪いようにはしないさ」
「嘘ね。敵の云う事なんて信じられない」
「そうか………残念だよ、」
その言葉と共に椿の異能が発動し、スタインベックの蔓とラヴクラフトの触手が椿へ襲いかかった。
椿はラヴクラフトを傀儡にしようと箱庭の支配を伸ばした。
否、伸ばそうとした。ラヴクラフトの脳へ干渉を始めた途端、椿は一瞬、海底に沈んだかのような錯覚を覚えた。
次いで流れ込んで来た情報は留まることを知らない。濁流のようなそれは最早“人間一人分”ではなかった。隙間なく詰め込まれ幾重にも織り込まれたそれらは名付し難いモノ。暑いわけでもないのに椿の米神をだらりと汗が伝う。
認識の許容を超えたそれに椿の動きが完全に止まっている間にもラヴクラフトの触手は迫っていた。
椿が正気を取り戻したのは、ラヴクラフトの触手によって体が固いコンクリートに叩きつけられた後だった。
「ッがは!」
体の中から空気が押し出される。喉に突っかかるそれを吐き出し、腕に久作が居ないことに気がついた。
「しまっ……ッ!」
久作!と悲痛な叫びが響く。久作はスタインベックの蔓に捕えられていた。手を伸ばすも蔓はズルズルと伸びて椿と久作の距離を離す。高く上がった久作の体に蔓が絡みつく。もう届かない、と絶望的な思いが頭にチラつく。
また、失うのか?奪われるのか?否、
「____かえして」
もう失うものか。奪われるものか。
体中痛かった。頭も内側から絶えず痛みを訴えていた。それでも足は走り出していた。
向かってくる蔓をホルスターに納めていたナイフで一気に薙ぎ払うと、久作を掴む1本へ椿は向かっていった。
「返せ…ッ!!!!」
獣のように飛び掛り、うねる蔓を登る。蔓が巻き付き拘束されている久作は未だ気絶していた。ザッと蔓をナイフで斬り、久作を抱えて着地する。体に巻き付く蔓を剥ぎ取り、今度こそ強くその体を抱き締める。
その直後、ゴシャッ!とラヴクラフトの触手が椿を襲った。身を転がして間一髪避けるも直ぐに触手と蔓が轟速で接近してくる。
タラ、と椿の鼻から血が流れた。許容を超えた情報の所為か、足元も覚束無い。視界も霞みがかっている。
然し椿は、目を細め無理やり視界のピントを合わせた。手の甲で鼻血をぐいと拭い、触手と蔓を避ける為に足に力を入れ地を蹴る。
つい1秒前に居た場所が潰れる。追いかけるようにまた向かってきたそれに、椿は「ちっ」と顔を歪めた。
「ッキリが無い」
単身であれば逃げられるが今は気絶した久作がいる。意識があったとしても、異能を持つこと以外はただの子どもだ。然し仲間である彼を置いていくなどという選択肢は、椿の中に存在しなかった。
久作を抱きかかえながら片手にナイフを構える。睨み付けるように四方八方から伸びる蔓を斬り、斬っても効果の無い触手は逃げ避け続けた。思考する間もない攻撃に少しも箱庭を使う余裕がない。追随するように絶え間なく与えられる攻撃は、椿の異能の性質を知っているからなのか。どちらにせよやりづらいことこの上なかった。
それに先程のラヴクラフトの傀儡化失敗のダメージが大きい。残滓のような情報は脳に黒く重い岩を詰めているようだ。ラヴクラフトは何者なのか、一体何なのか。然し今は気にしている余裕はない。
そこへ、耳に装着していた通信機へ僅かにノイズが走る。よく聞きなれた声が鼓膜を揺らした。
『椿ちゃん』
「首領…!くっ」
向かってくる蔓と触手から逃れるように一先ず走る。
『簡潔にだが状況はわかっているよ。組合の能力者と接触しているね?』
「ッはい。応援を」
垣間見えた光に椿は安堵した。
『____…いいや』
『応援は必要ない。Qを置いて君だけ撤退しなさい』
「は…」
一瞬の隙を、スタインベックは見逃さなかった。
いつの間にか並木道へと出ていた椿の足元へ伸びた蔓が引っ掛ける。倒れ込みそうになった椿の体を触手が絡め取った。
態と此処に向かうよう誘導されたのだと、この時悟った。
「ッぐ、あ……はな、せ」
「…余程フラフラだったんだね、君。その精神は尊敬するよ……ラヴクラフト、確り捕まえていてよ?」
暴れられちゃあ堪らない。そう目を細め近付くスタインベックを悔しそうに椿の目が睨み付けた。
スタインベックはおや、とその腕を見た。椿はその腕に未だ久作を抱いていた。まるで母親が、子を守るように。そうなると彼女の瞳は、此方を威嚇する眼差しのようにも思えた。
「……そんなにその子が大事?」
椿は答えなかった。
スタインベックがふぅと息を吐く。ラヴクラフトへ目配せすると、触手が首へと周り、そのままじわじわと締めていった。
「あ…ぅ、ぐ……」
脳への酸素の供給が絶たれてゆく。離すものかと腕に力を込めるが、無情にも視界は段々と黒く塗り潰されてゆく。
「きゅ…さく、」
真っ暗な闇に呑まれた後、だらりと腕が落ちた。