はじき出された欠片
組合拠点・空中要塞“
空飛ぶ鯨の腹の中、ヨコハマの街を見下ろす窓はポートマフィアビルの首領執務室から見るよりも高く、広い地上を映し出していた。
琥珀のようなシャンパンを傾け、組合団長・フィッツジェラルドはそれを一口飲むと目の前の女に視線を向ける。
椿はじっと睨むでも怯えるでもなく、無感情な瞳でフィッツジェラルドと対峙していた。
目が覚めると既に敵の拠点に転がり込んでいた。否、この場合は放り込まれていたの方が正しいか。
兎も角、それほど長く気絶していたわけではないようで外は未だ明るかった。
白鯨の中に久作の姿は、見えなかった。
「…
「……何が云いたいの」
「我が組合に来い。そうすれば、こんな田舎マフィアよりも君をうまく使ってやる。…望むなら、今の倍の報酬も出すが?」
「…」
撲殺決定。
脳内会議で満場一致で決定したそれに、椿は吐き捨てるように「一昨日来やがれ」と親指を勢いよく下にビッと向けた。腕の拘束がその都度チャリと耳障りな音を立てる。頭も痛くて気分は最悪だ。不機嫌を声色と態度で全面に押し出すと、フィッツジェラルドは面白そうに口角を上げる。
「私がマフィアに身を置くのは金の為じゃない。私にはマフィアがただ一つの居場所。大切なもの。だから守る、戦う」
「…そうか………」
ふむ。とフィッツジェラルドは思案するように片手を顎に添えた。
「なら、それが無くなれば君は後腐れなく此方に着くということだな?」
「………は?」
どういう意味だという問いにフィッツジェラルドが答える前に、室内から出るよう促される。
「凡て終われば、気兼ねなく此方に来れるだろう。楽しみにしているといい」
その言葉を最後に扉が閉まった。
▽
本来予定していたルートとは大きく逸れたが椿は敵拠点への侵入に成功した。腕の拘束具を針金で解錠すればガチャンと床に落ちる。その音が狭い牢屋に響いた。通信機は奪われてしまったようで鴎外と連絡を取ることはできない。
頭はまだ若干痛いが…白鯨の内部を把握するくらいなら出来るだろう。椿の足元から箱庭が広がった。脳内に浮かび上がったホログラムに成程と呟くも、椿は直ぐに脱出の行動には移さなかった。移せなかった。
「…」
守ると決めたのに。もう奪われないと、強くなると決めたのに。結局守れないではないか。
誂られていた簡易ベッドに腰を下ろす。何故だか、立っていられないような気がした。
想定外の事があったとはいえ、鴎外の指示も破る結果になってしまった。久作1人、守れないのでは大切なもの凡て守るなど夢のまた夢。
異能がなければ、私は弱いままだ。大切な事に気付かないふりをして夜を駆けていた幼い頃のまま、この手から失う。
矢張り、無理だったのだろうか。この異能が齎す災厄から守ることは出来なかったのだろうか。
外になんて、矢張り出るべきではなかったのではないか。
責任ある者が管理すべきだとフィッツジェラルドは云った。本当は、そうなのかもしれない。それにマフィアが、鴎外が椿に態々交渉の事を隠していたのは自分を守る為だったのではないかと椿はぼんやりと宙を見た。太宰も、守る為だと云っていたのは、組合が狙う自分をマフィアの中に留め置く事で守っていたのではないか。中也が自分を医務室に縛り付けていたのも書類に触らせなかったのも悟らせない為で、全部。
「……云わなきゃ、わからない」
守られてばかり。それに組合がマフィアに喧嘩を吹っかけて来たことの理由に、自分も少なからず含まれていると気付けば尚のこと足が重く感じる。役に立ちたいと思うほど、動くほどマフィアを危険に晒しているのは自分なのではないかという考えが脳を埋めつくした。
椿は1度目を閉じ、深呼吸した。そして次に開いた時、その目は昏い色を宿していた。
そうして椿が立ち上がるのと同時に、外の通路から人が近付いてくるのを箱庭で確認した。
隣の牢屋に入れられたその人影には見覚えがありすぎた。次いでドンドンと力任せに牢屋の扉を叩く音が響く。
「出せ! こんな事許されると思ってるのか! …………………ッ五月蝿い!!!」
聞こえた声は、矢張り敦のものだった。然し何やら荒れている様子。椿は口をいつの間にか開いていた。
「ねぇ、大丈夫?」
「……?! な、椿さん?」
「そ。当たり」と云う椿に、敦がどこにいるのかと問えば隣の牢屋だと答えると、わかり易く戸惑った声が聞こえた。然し直ぐに平静を取り繕い、努めて冷静な声で敦は、ずっと椿と話したかったと云う。今更なにを話すことがあるのかと椿は疑問に思ったが、何となく聞くことにした。
「…太宰さんと、知り合いだったんですね」
「太宰は裏切り者だよ」
「それは、太宰さんがポートマフィアを抜けたから貴女にとってはそうなるんでしょうけど…」
「そう。太宰は探偵社へ行った、……私を捨てて」
「捨てた…?」
「………それって、椿さんと太宰さんは恋人だったんですか?」
「如何してそうなる」
思わず異能で敦に自身の頭を殴らせるなど自傷行為をさせてしまった。否定の意である。
「ァダッ!」と隣の牢屋から聞こえると同時に椿の頭も痛みを訴え2人して頭を抱える奇妙な空間が出来上がった。未だ万全な状態ではなかったのを忘れていた。
然し今のは敦が悪い。真逆、路地で抱擁の挙句キスされている所を見たのか。覗きとはいい趣味をしている…と思っていると、また近付いてくる人影。敦は気付いていないようだ。気味の悪い人形を持ったそれは敦の牢屋の前で止まった。
「いい気味ね」
椿は目を見開いた。あれは久作の詛いを発動させる人形、その頭部が裂かれているということは。
バッと小窓に近付き眼下を見た。ヨコハマの街から黒煙が上がっている。奴等もう攻撃を始めたのか、と早くなる鼓動の音に気付くと椿は苦笑を漏らした。
今更戻ったって、
「凡ては想像力の問題なんだ」
「下の街で今死のうとしてる人達の中にも僕達と同じ人達が居る。彼等を見捨てれば君は過去の自分を見捨てることになる……それでも、善いのかい?」
視界が、塗り替えられた。
「…あら、貴女もいらしたの?」
「…私が隣の牢屋に入れられてること、知ってたんじゃないの?」
「さあ、どうかしらね」
「此処は……」
塗り替えられたそこは、以前も1度見た、ルーシーの異能空間であるアンの部屋だった。敦の声にルーシーは向き直る。そして放たれた「手遅れ」という言葉に、椿は嗚呼、矢張りと思った。この空から脱出する方法も、久作の詛いを解く方法も絶望的。唯一異能無効化の太宰に辿り着ければ何とかなるかもしれないが、地上のどこに居るかも知れない彼をどうやって探すのか。
然し敦の目から強い光は消えない。
如何して君は諦めないのか。何がそれほど君を奮い立たせるのか。私には、さっぱりわからなかった。
「昔読んだ古い書巻にあったよ。“昔、私は、自分のした事に就いて後悔したことはなかった。しなかった事に就いてのみ、何時も後悔を感じていた。”」
「僕は後悔したくない」
「…………後悔、」
染み入るように、それは椿の心に溶けていった。
ルーシーの異能、アンが敦に向かって手を振りあげる。思わず敦の襟首を後ろから掴み勢いのまま引けば蛙の潰れたような声が聞こえた。然し許せ、と手を緩めずにいてもアンは近付いてくる。伸びる手が敦の手を引きその上に何かが落とされた。
ポカン、と見る椿と敦にルーシーは「早とちりしたわね」と溜息を吐いて、渡したそれはパラシュートだった。
「あのドアを『白鯨』の外壁につなげたわ。後は落ちるだけよ」
「……、いいのかい? 僕を逃がしたら君は組合から……」
「独りぼっちは最初からですもの。それにアンに勝てる人なんて居ないわ。この部屋に居る限り安全よ」
パラシュートを背負い、アンの部屋の扉へ向かう敦にルーシーが久作の人形を差し出しながら口を開く。
自分達は最初に逢った時、敵同士だったということ。そしてルーシーが負けたのは敦が同僚である谷崎と一緒にいた町医者__鴎外が協力した所為である、と。ルーシーは横目でチラと椿も見る。
「……少し思うの。あんな風に最初から探偵社とマフィアに同時に反撃されていたら、いくら組合でもひとたまりもなかったんじゃないかって」
敦の頭に、ある考えが湧き上がった。彼女の意図を理解して出た考えだ。突拍子もなく、有り得ないことだ。然し引っかかって離れなかった。
ゆっくりと椿へ顔を向ける。視線を寄越された椿は首を傾げ敦を見つめ返した。
「ッそうだ。椿さんも捕まっているなら、一緒に脱出しましょう!」
「…どうやって? パラシュートは1つしかないのに」
「うぐっ そ、それは」
「考え無しか……」
「ハァ、殿方って本当……」
「ぐぅ…!」
「紐なしバンジーよりも過酷…楽に死ねそう」とあっけらかんと云う椿を引いた目で見るルーシーの隣で、敦は一転してその顔に気迫を増し叫ぶように云った。
「ッ死なせません!椿さんは絶対、今度は僕が守ります!!!!」
「な、何よトラ猫ちゃん。ムキになって…自暴自棄?」
「……」
「絶対、落ちる間は椿さんを離しませんから!!絶対に…そうだ、きっと出来る筈、虎の力なら…!尻尾を命綱にして」
「何で?」
「、…え?」
「何で敵なのに守るとか、死なせない、とか」
「敵、」
「そう。君と私は敵。何で敵なのに守ろうとするの?……君は、太宰に聞いた筈。私が、月の女だということも。君の守るべき範疇には到底当てはまらない人間だということも」
「っそれは…」と言葉を詰まらせる敦に、月の女だと知った時の彼は怯えていた事を思い出す。敦は何か云おうと言葉を探しているようだった。然し中々出てこないのか、意味の無い音ばかりが口から溢れる。
守ってもらわなくていい。
諦めない君の荷物になるだけだ。
「…私の事は、捨てていいよ?」
「駄目です!!」
「だから何で」
「それはっ、…それは………あの時、助けてくれたのが椿さんだったから、です」
「…?」
助けてくれた、とは何だろうか。真逆まだ初対面での事を云っているのかと椿は直ぐに「あれはもうお礼をもらったから無しでしょ」と否定した。敦は「そんなことありません!」と否定に否定を重ねる。
…矢張り思っていたのだが彼は中々頑固だ。控えめで臆病で大人しいと思っていただけに、いざ押されると戸惑った。
椿の手を敦がそっと取る。
先程の言葉を皮切りに、敦の口からは淀みない言葉の数々が放たれていった。
「あの日、あの時。どこにも行けず、死にそうだった僕に手を差し伸べて、救ってくれたのは椿さんです。…椿さんにとっては何でもない事、だったのかも知れません。でも、確かに貴女は助けてくれた。僕が椿さんを守る理由は、それだけで十分なんです。椿さんが敵でも、味方でも同じです。僕は僕を助けてくれた椿さんを信じます」
「……信じる?」
「こればかりは譲れません」
「…譲れないの」
「はい」
「……」
絞り出したそれは、敦の心の底からの思い、決意だった。
椿は長い沈黙の末、深く溜息を吐いた。諦めの溜息だ。いっそ、嘘吐きだと詰ってくれれば良かったのに。
緊張を孕んだ敦の真っ直ぐな瞳が絶えず椿に向けられていた。手も強く握られ、その上大きすぎる信頼まで寄せられている。
こんなの、逃げられるわけがないじゃないか。
それに敦の云う事にも、椿にはある覚えがあった。嘘を吐かれても、…仮令それが裏切りであっても、消えないものがあるのだと。
「わかった」
「!」
「でも、ひとつだけ教えてほしい」
「何ですか?」
「如何して君は、諦めない?」
「…さっきも云った通りです。それに探偵社が、僕を見捨てないでいてくれる。必要としてくれているからです」
「……!」
ルーシーは2人のやり取りを黙って見詰めていた。そして椿の昏い瞳が見開かれるのも見た。繋がれたままの手からそっと視線を逸らす。
異能空間の外、通路の向こうから人が来る気配にルーシーは急かすようにアンの部屋の扉の把手に手を掛ける。開け放たれた扉から、外の風が勢いよく入り込んだ。
外に目を向ける敦の隣で椿はルーシーを見る。
「…ねぇ、貴女は如何するの?」
「! そうだよ、本当に大丈夫?確かにこの部屋の中なら君は無敵だ。でも、それってつまり…君はこの部屋から永遠に出られないって事じゃ」
そう云った敦の言葉に同じく椿もルーシーを見詰める。敦よりも近くにいた椿の耳に、「察しの悪い人ね。ちょっとした口実よ」ボソリとルーシーの呟く声が聞こえた。
「生きて__いつか、ここから救い出して。待ってるから」
「判った」
「…」
「矢っ張りお1人でドーゾ」
「えぇっ?あっ、ちょ、椿さん?!!」
握っていた手を解いて、背中をトンと押せば敦の体は白鯨から離れた。敦は手を伸ばすが届かず、見開いた目が此方に向けられる。
スローモーションのような光景、椿の口が動いたのを、敦は確かに見た。
「頑張れ、____敦」
敦が白鯨から落ちた後、椿とルーシーのみが取り残されたアンの部屋に声が響く。
「ッちょっと!!!貴女何やっているの?!」
「…好き?」
「は?!!」
突拍子もないその言葉に、ルーシーは狼狽えた。思わず若干熱を持った頬を押さえる彼女に椿は向き合う。その目は先程までの昏さは取り払われたが、何か深く考え込んでいるようであった。
「貴女と敦は敵なのに、如何して敦を信じられるの?」
「な、な、な!!何よ!」
「何で?」
「いちいち云う必要ないでしょ?!野暮なこと云わせないでちょうだい!」
「でも、云わないとわからない」
迫る椿にルーシーは気圧されたように後ずさる。
「仲間の好意と敵への好意は、きっと違う…難しい。敵を信じる事も、普通なら有り得ない。優先すべきは味方なのに…敵でも扶けたいと思う。どうしてそう思うの、何がそう思わせるの。 ……貴女は敦に、どんな思いを、感情を抱いてる?」
「〜〜ッ五月蝿いわね!」
無遠慮で無粋な質問に耐えきれなくなったルーシーは癇癪を起こしたように声を上げた。もう勘弁して、そう云いたげだった。咳払いをして向き直ると、腕を組みフンと鼻を鳴らす。
大人の姿で何も知らない子どものような椿にルーシーは呆れ返った。
「さっきから貴女、敵だとか、味方だとか、詰まらないことばっかり!信じたければ信じればいいのよ。それを決めるのは味方でも敵でもない自分自身よ。後悔しないようにそうするってだけでしょう?」
「……でも、もし、裏切られたら如何するの」
「?」
「世界を失ったことはあるの?」
「…その世界、って、貴女の居場所?」
「大切なものだった。…信じていたのに裏切られて、私は一度奈落に落ちた。生きながら、死んでいるようなものだった」
あれは、絶望だったか。今ではよくわからなくなってしまった。
怒りが湧いた。
憎い、とも思った。
最後には悲しみが津波のように凡てを攫って行ってしまった。
今尚残っているのは執着と熱を持った痛みだ。
「……それで、貴女は信じて後悔しているの?」
「…よく考えたら、わからない。確かに怒りは湧いたけど、追いかけられなかった自分にも、あの時は腹が立ってた気もする」
してない、のかな。
そう云った椿にルーシーは目を見開いた。
目の前の彼女は、笑っていたのだ。自嘲とも取れるが、その瞳に映るのは確かに熱であった。
「なら、それで善いじゃない。それに、……」
「?」
「____…恋に、信じるとか裏切られたとか、敵とか味方とか、関係ないのではなくて?」
「……恋?」
「そうよ。そんなもので止められないものなの、おわかり?」
「? 貴女は敦が好きなの?」
「〜〜〜っちがうわよ!わかってないわね!」
「……私、今はとてもじゃないけど自分のことがわからない」
「!」
ルーシーはハッとして「真逆、貴女」と椿を見た。あんな告白紛いなことをされて心が動かされないわけがない。寧ろそれで過去のその人と踏ん切りがついたのでは。
有り得る、とルーシーが思っていると椿はルーシーの手を掴んだ。
「わからないから、いいや。今一番したいことを優先させる。貴女、私と逃げる?」
「は?」
またもや放り込まれた爆弾にルーシーは堪らず掴まれた手を振り払って「何考えてるのよ!」と叫んだ。
考えるよりも行動。感情よりも本能。椿はどちらかと云えば勘が向くままに従った方が後々合っている事の方が多かった。今回も何となく敦は1人で行かせた方がいいと背を押したのだ。
然し先程掴んだ彼女の手は勘とは真逆だった。彼女はきっと此処に残る事を選ぶ。それでも何となく、彼女にはこのまま此処に居て欲しくないと思った。
椿の異能への対策を踏んでいた組合が、彼女の異能にも何の対策をしていない筈がないと踏んだのだ。
「私の異能で人通りを避けて補給用ジェットが停めてある場所まで行く。それに乗り込む」
「貴女操縦できるの?!」
「やったこと無い」
「…はぁ……?」
「でも知識としては知ってるから大丈夫…多分? それに乗組員が居れば問題ない」
「何よそれ……とにかく、初めに逢った時に云ったでしょ。あたしは貴女が嫌いなの。貴女の手を借りるなんて御免だわ」
「……私、貴女のことは嫌いじゃない」
「だから扶けるって云うの? 単純ね」
「……関係ないって云ったのは貴女」
「それとこれとは別ではなくて?!」
というかさっさと行きなさいよ!と押し込められた扉の向こうは、白鯨の機関部であった。外壁ではなく、今度は此方に扉をつなげたらしい。
「えっ」と声を上げた時には既に扉はバタンと閉まり、そこには元々あった空間があるのみでアンの部屋に戻ることは出来なくなっていた。
「…矢っ張り、嫌いよ」
あたしよりもずっと素直で真っ直ぐじゃない。
ひとり、アンの部屋に取り残されたルーシーがぽつりと呟く声を、アンだけが聞いていた。
白鯨内はバタバタと騒がしかった。直ぐに空対空カノンを用意するよう指示が放たれる。
ある男は、同僚達と補給用ジェットの操縦席に座り、先程出た指示によって機のエンジンを掛けていた。「人虎が逃げた。カノンでの狙撃後、回収の為に向かうよう指示された。この機体を出して」端的に伝えられたそれに、意気揚々と白鯨から機体が離れる。
通信から鋭い声が機内に響いた。
『おい何やってる! お前達への出動指示は出ていないぞ!』
「な、何…?!」
『人虎と月の女が逃げた! その機体に乗ってないだろうな?!』
振り向き見た男の喉元に、ナイフが宛てがわれた。
聞かされていた月の女の特徴をなぞるように頭の先からつま先まで視線をやる。黒衣を纏う、色素の薄い長い髪。蠱惑的に瞳が細められ、男は通信の向こうに応えず、暫く金縛りにあったかのように目を奪われていた。実際、椿の箱庭が男を縛っていた。
しぃ、とナイフを握っていない方の手の人差し指を立てる。意図を察したのか男は通信の声量を下げた。
「お前の命は今、あるバランスに寄って成り立っている。繊細な硝子細工を想像してみて?間違った方に傾けばすぐに粉々になる…どうすればいいか、わかるよね」
ゴクリと上下する男の喉。最早拒否権は無かった。男も命が惜しかったのだ。
「『このヘリに月の女は乗っていなかった』」