心無くして人と呼ぶか
椿が空中要塞『白鯨』から帰還した後、地上は大混乱に陥っていた。
目から赤い涙を流し彷徨う人々、崩壊する街。悪夢のようなその光景は、久作の異能によって齎されたものであった。
然し狂気に喘ぐ人々は、突如としてピタリとその動きを止めた。
道中それを目撃した椿は、白鯨から脱出した敦が太宰に人形を届けられたのだと胸を撫でおろした。諦めなかった彼は、本当にやってのけたのだと。
然しいつまでも安心してはいられない。久作が組合の手にある内は幾らでもこの狂乱を引き起こすことができてしまう。
椿は任務の成果を伝えるべく、ポートマフィアアジトへ急いだ。
そしてエントランスで椿が見たのは、沢山の死体袋だった。
久作の異能『ドグラ・マグラ』と組合の手によって発生した街の狂乱、その犠牲者。その中には中也の部下として仲間だった者も居た。抗争によって人が死ぬことも、仲間を失うことも幾度となく経験してきたことであったが、じくと疼く胸の痛みには未だ慣れないな、と椿は目を伏せた。
▽
「ご苦労だったね、椿ちゃん」
先日まとめた報告書と組合拠点である空中要塞『白鯨』の情報を事細かに書き出した資料に隅から隅まで目を通し、鴎外は労りの言葉を掛けた。
『白鯨』は異能と現代技術が融合されたものだった。あれほどの改造を異能に施すことを可能にするとは、欧州は矢張り此方よりも異能技術が進んでいるらしい。
鴎外が紙面に目を通している間、椿の視線は壁へと注がれ忙しなくキョロキョロとしていた。
「どうかしたかい?」
「…今回も大作だと思って」
「嗚呼、あれねぇ」
首領執務室の壁には、クレヨンでいっぱいに落書きがされていた。云うまでもなくエリスの仕業であるが、そんな事を咎める者はポートマフィア内には居ない。彼女の奔放さは誰もが知っていて、首領である鴎外も咎めることをしなければ、寧ろ咎められる人間などいないのだ。
当の本人はお絵かきに飽きたのか革張りの高級ソファで足を揺らして児童書を読んでいる。暫くすれば黒服達が壁の掃除を始めるだろう。
「あの頃は、エリスちゃんと一緒に君も絵を描いていたね」
可愛かったなぁ…嗚呼否、今が可愛くないと云っているんじゃあないよ?と弁解する鴎外。
別に椿は弁解が欲しかったわけではなかった。然しあの頃という言葉にどうも引っ掛かりを覚え椿はほんの僅かに片眉を上げる。
鴎外は目を細め、懐かしい話でもするように口を開いた。
「太宰君に、“マフィアに戻る気はないか”と尋ねたよ」
「…太宰を、マフィアに連れ戻す気?」
椿は冷静に言葉を吐き出した。それに鴎外がニコリと笑う。真意の読めない顔に暫しの間沈黙した。
首領執務室を静寂が満たす。
視線を下に彷徨わせながら、様々な思いを孕んだ細い声が、椿の口からこぼれ落ちた。
「……太宰は、戻って来ない。マフィアに帰ることは有り得ない」
「ほう」
椿が太宰を失ったあの日。太宰も彼を失った。
間接的に、決定的に、太宰をマフィアから追い出したのは鴎外の方だ。そう云うと鴎外は「そんな器用なことはできないよ」と眉尻を下げて困ったように笑った。
そんな顔をして、あの時この男はそれをやり遂げた。最後の最後まであの太宰に悟られる事なく、恐ろしく冷徹な手で。
椿は知っていた。あの時から。鴎外はすべてを取る男だと。
鴎外はマフィアという組織の為ならば、あらゆる心を切り捨て論理的最適解を選ぶ。
仲間でさえ切り捨てるその冷たさは未だ椿には持てそうにないが、それが首領という上に立つ者のさだめであると理解はしていた。そう、理解していた積りでも、先日久作を置いていけと云われた時は敵の目前だと云うのにそちらへ気を取られ隙ができるほど動揺してしまった。
椿は、それが良くとも悪くとも、情というものには敏感であった。あれは椿が大切だから久作を置いていけと云ったのではない。椿の方が僅かに戦術的価値として上であったからだ。可愛がられている自覚はあるがそれとこれとは別なのである。
鴎外もその身の内に、怪物を飼い慣らしていた。
(……久作は私の非力さ故に敵に捕えられた)
攫われた久作。仲間たちの眠る死体袋が脳裏にチラつく。
こんな事になるのなら、久作を外に出さず地下牢に戻しておけば善かった。仮令彼が出たがっても、嫌われるとしても、外よりは少なくとも彼処の方が安全な筈だから。若しくはずっと目を離さずにいれば善かった。そうすれば守れたかもしれない…後になって云っても遅いが。
然し必ず取り戻す、と椿は白鯨から帰ってからもずっと考えていた。
どんなに彼の異能によって仲間が殺されようと、久作は椿にとって大切な仲間だった。そして彼も、椿を必要とする仲間であった。
仮令このまま久作が切り捨てられることになろうとも、鴎外の命令であっても救出してみせる。
鴎外が切り捨てたものを、自分が代わりに拾ってしまえ、と。
先程とは裏腹にキッと強い意志を宿した瞳を向ける椿に、鴎外はほぅ、と感心したように声を零した。
「…太宰君が組織を抜ける前も、後も…君はずっと、自分から何かを知ろうとすることは無かった。然し近頃は、そうでもないようだね。人虎の時も、組合が君を狙った理由も、君は君の意思で知ろうと行動した。そして君は、Qを捨て退く私の命令をも無視した。…嗚呼否、怒っているのではないよ。寧ろ私は、感動さえ覚えているんだ。きっと、外で書物では知り得ないことを君は沢山知って学んだのだろう。…喜ばしいことだ」
鴎外は執務机に両肘をつき顔の前で手を組むと、スッと瞳を真っ直ぐ椿へ向けた。
「椿ちゃん。若しも太宰君が戻ったら、君は再び太宰君の部下になるかい?」
「な、」
「…太宰君が君をマフィアに留保したことも、何か彼なりの訳があると考えたことはないかね?」
「…」
捨てるでもなく、置いていく、でもなく。留保と云うのか。
椿の頭に中也の存在がちらついた。
「それは、まだ考え中」
「考え中?」
「私がどんなに想像したって、本当のことはよくわからない。あれは森さんが画策したこと。でもその何処までが策に含まれているかなんて、森さん自身にしかわからないでしょ。私が考えたとして客観性を欠く想像にしかならない」
そんなもの、一時の虚しさを埋める気休めに過ぎない。
聞いたとしても森さんは答えてくれないだろう。
「それに今の私には中也が居る。中也を置いていくなんて、私には出来ない」
置いていかれる者の気持ちを知る椿だからこそ、彼女は置いていく事も嫌っていた。
「…ふむ。太宰君の事は放っておく、ということかな」
然し太宰は椿のことを放っておくことはしないだろう。先日の再会といい、太宰が動き出したということはどのみち彼女と彼の融解は避けられないことだ。太宰の存在によって彼女がどう転ぶかを、鴎外は案じていた。
「…置いていったことは、本人に聞く。丁度気になってたところだから」
「太宰君と会うことになるよ?」
「わかってる」
「…先程の今で私が云うのもなんだが、それは、掘り返して意味のあるものかい?」
「意味があるかはわからない。正直放っておきたい。知らない方が幸せなこともある…でも、」
「____…でも、放っておきたくない」
きっと、このままでは後悔すると私は知っている。
椿は一度中也の執務室へ向かい事務処理をする、と首領執務室を後にした。
エリスのペラリペラリと児童書を捲る音ばかりが室内に響く。
鴎外は執務椅子の背もたれに体を預け深く息を吐いた。
「嘗て、君の世界はシンプルだったね…椿ちゃん。白と黒。味方か、それ以外か」
然しそのあわいに、灰色が現れ始めている。
彼女の成長を、見守ってやりたいと思う反面。それでは立ち行かないことも多くあるのが現実であった。特に今回の組合と探偵社との異能力戦争は、マフィアの全戦力を持って戦う必要があった。そうしなければ、組織も、この街も守ることは出来ない。
彼女の異能力は非道になればなるほどその力を増してゆく。心を殺し、その手に掛ける。全体の利となるならば、致し方のない事。仮令彼女が人の道から逸脱しようとも、組織の為ならばそれは必要な事だ。
それに彼女からは既に一度、間接的に、決定的に、この手でもう戻らないものを取り上げたのだから、一度目と二度目、それ以上は変わらないだろう。
危険な無垢さを持ちながら、此方に全幅の信頼と忠誠心を寄せていた椿。これを組織の奴隷たる鴎外が利用しない手はなかったのだ。寧ろそうしなければ、彼女1人の心と引き換えにマフィアは多くを損失することになる。それを無視した解は、論理的最適解とは云い難い。
然し、いつの日だったか。この手で彼女を奈落に落とした後、すくい上げた彼が神妙そうな顔で訪ねて来た事があった。
『彼奴を怪物にはさせません。…絶対に』
自分が鎖になると、そう云った。
そして彼女は変わり始めている。
「……君は素晴らしい人間だよ」
人よりも人らしい彼も、自身の下に付いているという現状、今は苦しんでいるだろう。
鴎外の胸を締め付けるそれと同じように。
「嗚呼、」
空いていると思っていたものの、存外、未だ自分は人であったらしい。
くしゃりと手元の手紙が音を立てる。
そして通信機で首領直轄遊撃部隊へ護衛任務を云い渡した。
「これが、最適解だろうね」
そうして鴎外は、秘密の茶会へ出掛けるべく執務机から腰を上げた。
彼女の灰色が、守るべき黒へと変わった時。自身は未だ彼女の黒であれるだろうか。