落ちる影


ポートマフィアビル、とある一室。
夜景煌めく横浜の街を映す全面窓の傍らに誂られているソファには、ポートマフィア首領・鴎外と五大幹部の紅葉、中也が腰掛けて異能力戦争の終結と勝利の祝杯を交わしていた。

「芥川の処罰は如何します? 聞くところによれば椿も、奴の独走を見逃すばかりか手助けしたようですが」
「処罰? 彼らは今回の功労者だ。それに芥川君は昔からそうだよ。独走し破壊し結果的に最大の貢献をする。彼なりの嗅覚だろうね…成功している限り処罰は無い…」

「…椿ちゃんの事だが。このまま繋ぎ留めるのは難しいかもしれないね」

ある種の予感を鴎外は喉の奥に、ワインの赤い液体と共に飲み込んだ。中也も同じく無言でグラスに口を付ける。
沈黙する2人に紅葉は「難儀なものじゃのう」と息を吐いた。

「処で、紅葉君。探偵社に囚われた時……何故逃げなかったのかね? 君の異能なら脱出は容易だったろう?」
「…却説、何故じゃったか」

茶が旨かったからかのう、と云いながら遠く思いを馳せる紅葉の横顔を、鴎外の目が捉える。探偵社に囚われていた時の太宰との取引を紅葉は思い出していた。

「太宰は今回の結末まで凡て見えておった。恐ろしい男じゃ」
「…紅葉君」

コホン、と咳払いをして鴎外は「君は強い……君が此処から去る気なら、追うのは今や不可能だよ?」と零す。その言葉に紅葉は笑みを携え、柔らかな声で否定した。

「無論じゃ。じゃが生憎と、頼りない首領が組織を立て直す手伝いがあるでのう……彼の人の仇は先代じゃ。今は此処が気に入っておる」

「…嬉しいけど、私の守備範囲は12歳以下だよ?」
「黙れ。口を縫い合わすぞ」
暫く談笑が満ちる室内に、コンコンコンというノック音が響く。入室を促すと扉から現れたのは椿だった。

「椿かや。如何したのじゃ?」

紅葉の問いにチラ、と横目で中也を見れば既に出来上がっている姿があった。その視線に気付いた紅葉はふわりと微笑み「そろそろお開きにする積もりじゃった。連れて行くが良い」と云う。その言葉に椿は頷くと足早に中也に近付き、その手にあるグラスを取り上げ、残りのワインをぐいと呑んだ。
中也の体を支え引き摺りつつ一礼し部屋を出ていった後ろ姿を見送り、残された鴎外と紅葉。紅葉はくるりと鴎外へ視線を移し呆れた。

「お主ほど不器用な男はそうおるまい」
「…おや、何のことだか」
「安心せい。あの子は……椿は鴎外殿が思っておる以上に情が深い子じゃ」
「何故、わかるのかね?」


「女の勘じゃ」










椿は中也の執務室、その奥の仮眠室に着くと一旦中也をベッドに座らせ、酔い覚ましに冷たい水を1杯飲ませた。
赤く火照った顔の中也を見て椿は先程飲んだワインの味を思い出し僅かに眉を寄せる。

「何しかめっ面してんだ」

ぐいと腰を抱く腕はいつもより強引だ。然し頬を撫でる手は優しく繊細であった。中也のいつもより赤い頬に手の甲で触れれば熱く、椿の冷たい手が気持ち良いのか猫のように頬をすり付ける。

「お前、何処も彼処も気持ちいいな。ずっと触れていたくなる」
「…セクハラ」
「そういう意味で云ってんじゃねえよ」

ぎゅっと鼻を摘まれふるふると首を振り逃れる。それすら中也は可笑しいのか笑うと、椿はへそを曲げてふいとそっぽを向いた。とは云え、ぴったりと抱きしめられている為に無駄な抵抗のようにも思える。

「ご機嫌ななめか?」
「椿は現在取り込み中です。発信音の後にメッセージをどうぞ」
「留守か。しょうがねえな」

そう云って椿の耳元へ唇を寄せると、数回接吻を落とした。擽ったい、と身を捩り腕から抜け出ようとする椿であったが、動く度中也の強い腕が椿の体を絡めとる。接吻も耳から首へと降りてゆき、頬に触れる手を取ればその甲にも口付けられた。
そのまま射抜くような視線を寄越す中也に、椿の背をゾクリと冷たいものが駆けてゆく。囚われた手を抜き取る前に、椿の体を柔らかなベッドが受け止めた。

「中也、んっ……」

重ねた唇は熱く、未だ口腔に残るワインのアルコールの味は思考を奪う。酩酊感を与える口付けに、椿はぼんやりと目を細めていた。
口付けが終われば、どちらも息を吐き出した。中也は顔の両脇に付けた手の片方を、未だ短く呼吸を繰り返す椿の頬に滑らせる。

「行くな」
「…何処に?」
「わかってンだろ」
「わからない」
「わからねぇ振りをしてるだけだ」

何処か云い当てられたような心地がして、椿はギクリと肩を揺らした。
「椿」と名を呼び、その肩へ額を寄せた中也はくぐもった声で「愛してる」と吐露した。それは泣いているようにも聞こえた。


「中也……中也、私。愛って矢っ張りよくわからない」

自分は思ったよりもリアリストであったらしいと、椿はポツリと零した。
見えない愛の存在を、一度は受け入れたものの、確かめる方法が何ひとつとしてなく、あるのか否かわからない。嬉しくとも悲しくとも胸は熱くなる。全身の血が沸騰したように巡る感覚もわかる。
然し、椿は自分の中に愛という存在を見つけられずにいた。
額を椿に擦り付けたまま、中也は口を開いた。

「俺は、手前の俺に向けるそれが愛だと云ったな」
「…うん」
「あれは、嘘だ」
「……うん」

何度も人間の司る感情を紙面で追った。そこにはもちろん愛も示されていたけれど、愛は他の感情と何が異なるのか。結局明確な何かを椿は得ることが出来ず、受け入れたはずの欠片はだんだんと合わなくなって、落ちて空白に戻っていた。その欠片は未だ握ってはいたものの、それも“中也が云った”という特別な意味があるからで、然し今しがた中也の口によって否定された為にあっさりと、椿は欠片を放った。

「軽蔑したか?」

「それとも、信じられなくなったか? …当然だな。俺は俺を信じる手前を利用して、嘘を吐いて、すり替えたんだ。手前を裏切った。恨んで憎まれても仕方ねぇ」
「しない。信じてる…ずっと」
「……如何してだ、俺は手前に信じてもらう資格なんざねぇだろ」

そう弱々しく零すとぐいと顔を向かせられる。瞼に柔らかな温度を感じた。うっそりと瞼を開くと椿の瞳に映る自身と目が合った。
「太宰を見ない振りをして、逃げてきたのは私。中也は私の目を塞いで、守ってくれたんでしょう?」

「あの日、私に手を差し伸べてくれたのは中也。私を救ってくれたのは、中也だった」

「中也にとってはあんなの、仲間を助ける当たり前の行動だったかもしれない。でも、あの日、あの時、手を差し伸べてくれたのは中也だった。私が中也を信じる理由は、それだけで十分」

外が教えてくれた。捨てたくないものは捨てなくて良いってこと。それによってどんなに身が焼かれようと、自分が選んだのなら後悔は無い。いっそ死んでしまったっていい。

「…ふは。手前も十分、救えねぇじゃねえか」
泣き笑いのような表情を浮かべて、中也は笑った。
救えない、と。決して交わることが無いことを悟った。2人は互いに互いを愛していた。それは、異なる意味の愛だった。
然し2つは交わる事はなくとも、決して揺らがぬことには変わりなかった。

「……そうかよ。わかった。手前が俺を信じるなら、俺もいつまでも手前を守る」
「…偶にでいい」
「阿呆。手前は1人の手には余んだよ」
「女は中々捕まえられない方が魅力的って云うでしょ?」
「……」

中也はガシガシと頭を掻き、「手前、暫く昼ドラ見んな」と呟いたのであった。








酔っ払いは寝るのが早い。
すうすうと寝息をたてて、椿の隣で中也は気持ち良さそうに眠っていた。

温かい、と椿は感じた。この温かさを知っていると思った。
分け与えられる熱を、熱を分け与えることを厭わない行為を若しも愛と呼ぶのなら、存外腑に落ちるところがある。

「ねえ、中也。愛してる」

「マフィアの…みんなの為なら、命は惜しくない」

でもこの命をほんの少し、あの背に追いつく為に使うことを許してほしい、と。抱きしめられながら繋がれた手を握って祈るように瞼を閉じた。

月がぽっかりと暗闇に浮かんでいた。









「嗚呼___」

輪郭をなぞるように男は窓から月を見ていた。
薄暗い室内、青白い月光が男の貌を浮かび上がらせる。

「貴女にまみえる時が、待ち遠しい」

紫の目の魔物は、笑っていた。