閑話 世界だった人


敦と別れ、何をするでもなく椿は街をブラブラと歩いていた。
今日は珍しく何もすることがない。
どうせ此処辺りの地図は頭に入っているのだ。偶には目的なく歩いてみよう、と感覚で足を進めた。

塀の上を歩く野良猫に挨拶ついでに喉を撫で、餌場でよく見かける奴等は自分から足元に転がって来るため目いっぱい撫でくりまわしてやる。
そうして行くうちに椿の後ろにはにゃあにゃあと、野良猫達の大名行列ができあがっていた。
すれ違う人々は一度目を逸らした後、再び椿と猫を凝視する。

角を曲がると、また一匹の猫が前方からやって来た。
三毛模様を見て椿は「あっ」と声を洩らす。

「……オダサク」

勿論渾名だ。
椿は野良猫達に身近な人の名を付けては呼んでいた。因みに今居るのはキョウカ、アツシ、チュウヤ、リュウ、ヒグチ、アネサン、ダザイ。オダサクで8匹目の大名行列だ。

然しこの名を呼ぶのは、もう随分と久しかった。4年前、ミミックの件で彼が死んでしまった後、この三毛猫は何処の餌場からも姿を消してしまったからだ。
手を伸ばそうとすると、オダサクに届く前に黒い八割れが割り込んでくる。

「、ダザイ」

此方も渾名だ。
グイグイと押し付けてくる頭をぽんと撫でてやると不満そうに「にゃあ」と見上げてくる。
「私はオダサクを撫でようとしたの」と八割れ頭を通り過ぎて三毛模様に触れる。相変わらず善い毛並みだ。

「ナァ」と一声鳴くとオダサクは踵を返してそのままいってしまった。然し暫くすると振り返り、縦の瞳孔が此方をジッと見つめる。

「……ついてこいってこと?」

しゃがんでいた体を立ち直し、椿は三毛模様を追った。



オダサクが導いた先は、川だった。
猫は元来水が苦手な動物である。オダサク以外の猫達は途中まで後をついて来ていたものの、川が見え始めると皆蜘蛛の子を散らすようにピューッと逃げてしまった。

然しオダサクは川辺りまで行くどころかどんどん川に近付いていく。
不思議に思いながらついて行くと、ストンとオダサクが座り、ジッと上流の方へ鼻の先を向けた。
その隣にしゃがみ、椿も見る。魚でもいるのだろうか、と暫く見ていると、川上からだんだんと何かが流れて来た。
目を見張る。
真逆、と思った時には椿の体は水の中へ飛び込んでいた。

ポツ、とオダサクの鼻先に滴が飛ぶ。
プルルと顔を振るった後、オダサクは「ナァン」と一声鳴いて、何食わぬ顔で川辺りを後にした。







ザパァと音を立てて重い体を川から引き擦り上げる。衣服が水を吸って尚のこと重い。
矢張り川をどんぶらこと流れてきたのは太宰だった。
然しどれほど流されていたのか、体は氷のように冷たく死体のように血色も悪い。
仰向けにした体に恐る恐る近付き、胸に耳を当てる。

トク、トクと僅かだが確かに聞こえる心音。

「よかった、生きてる」

椿はホッと胸を撫で下ろした。
太宰の自殺癖もしぶとさもよく知っていたが、いざその状況を目の当たりにすると酷く心が掻き乱される。

「…もうどうでもいい筈なのに」

太宰がまだマフィアに居た頃は、太宰の生死に自分の方が必死だった。
ミミックの時、敵の銃口を額に自ら宛てがい撃てと挑発する太宰に怒り……嗚呼、そうだ。

死ぬ時は自分も連れて行くと、約束させた。

「…ねぇ。あの約束も、最初から守る気はなかったんでしょ」

たった今も一人で入水していたのだから尚のことだ。
それでも、置いていかれるまで私は、莫迦正直に。
太宰を、信じていたのだ。
川に飛び込み、引き摺り上げた。冷たい体に狼狽した。死んでしまったのではないかと、感じたそれは確かに恐怖だった。

まだ、私は太宰を失うことが怖い。

太宰に付き纏う、椿の未練と云う名の執着は、四年前からひとつも変わっていなかった。

「いつまで私の中に居座るの」

置いて行ったなら、姿を見せないで欲しかった。他の女達のように、一方的に別れを切り出して二度と会えないように。
そうすればいつか、自分の中の太宰は消えてくれた筈だ。
人間は、忘れる生き物だ。だからどんなに辛く苦しいことがあっても、生きていける。
置いていかれる者の気持ちが分かるとも云ったのなら、私の気持ちも分かっている筈なのに。
態々四年行方を眩ませた後、また姿を現して私を引っ掻き回す。

「はやく、忘れさせて。二度と目の前に現れないでよ」

そう呟くも、濡れた体が冷えていくのも構わずに太宰の頬に触れた。張り付いた髪を避け、手のひらを頬に滑らせる。
こうして触れるのも、今は彼が目覚めていないからできる。冷たい体は死人のようで、本当に死んでいるようだ。然し近付けば呼吸をしているのがわかる。
もう顔に巻かれていない包帯。
その顔を見ていると、水の中でもないのに胸の奥が苦しかった。

椿の髪から落ちた滴が、太宰の頬を滑っていく。



いつまでも此処に居る訳にもいかない。いつ起きるかもわからない。さっさと退散しよう。
太宰は探偵社として顔が広いのだから、そのうち通報されて戻るだろう。あの黄昏を見守る建築物に。
椿は最後にじっ…と太宰の閉じた瞼を見詰めた後、川辺りから足早に去って行った。


日は既に傾きかけている。赤く染まり出す水面の横で、ピクリと男の手が動いた。
先程触れた熱を確かめるように、自身の頬に触れる。
柄にもなく激しく打つ鼓動がうるさくて笑えてくる。男の喉の奥から出た笑いが、川辺りにぽつりと響いた。