閑話 いいこおやすみ
未だ日が傾く前。
椿は執務室の革張りのソファに体を投げ出し、天井のアラベスクを数えていた。
同じ空間では中也がせっせと手際よく書類を捌いている。然し彼の手元にはたった先程書類の束が運ばれたばかりで、それも次から次へ黒服が回収しては新たに運び込んで来ていた。
中々休息が取れずにいる中也を手伝いたいのは山々であったが、残念ながら今しがた捌いている物は凡て幹部親展である。判くらいは押せるだろうが…と考えている椿に、中也の「そうだ」という声が掛かった。
「椿。首領が『暇がある時に来い』ってよ」
「? 何だろう」
「いつもの“メンテナンス”だろ。丁度いいから今行ってこい」
「…ふーん」
一週間程早い気もするが、と椿は執務机に齧り付く中也を一瞥し、鴎外の許へ向かった。
ヨコハマの街を眼下に登っていくエレベーター。もうすっかり元の姿に戻った街に、異能特務課の手腕が伺える。ポートマフィアは戦争での大方の処理を終えたものの、幹部級は最終確認の書類が残っている為今夜が山場だ。中也の隈がこれ以上濃くならなければいいが、と考えている間にチン、と目的の最上階に着いたらしく、エレベーターの扉が開いた。亜麻色の髪を揺らして首領執務室までの一本道を進む。扉の前に立つ黒服は椿の姿を確認すると把手に手を掛け入室を促すように開いた。
「首領、椿です」
声を掛けながら毛脚の長い絨毯に一歩沈める。
首領執務室にはいつもの紅茶の芳しい香りではなく、アルコール特有の、鼻の奥をツンと突く臭いが漂っていた。見れば白衣を着た数人に指示を出す鴎外の姿がある。カチャリカチャリと医療器具を順当に設置する白衣の者達は椿の“メンテナンス”の度に見る顔ぶれであった。
鴎外は振り向くと「おや、早かったね」と目を細めた。
「…早すぎ?」
「否、いいよ。少しそこに座って待っていなさい」
その言葉と共に執務室の全面窓のシャッターが降ろされる。ほの暗くなった室内に、無機質な白い照明が付けられた。
椿は白衣に促され照明の下の椅子に腰を下ろす。暫くすると目の前に鴎外が「却説、お待たせ」と同じく向かい合うように腰掛けた。
診察のようなこれは1ヶ月に1度必ず行う。定期検診のようなものであるが、只健康状態を計るものではなかった。
「腕を」と云われるままに差し出すと消毒液に浸した脱脂綿が押し付けられる。白衣が慣れた手つきで針を刺し、管を通る赤い液体を椿はぼんやり見つめた。
採血が終わると白衣の者達は一度下がった。鴎外が幾つかのホチキス止めされた紙の束を捲り、凡てに目を通し終わると口を開く。
「今月は戦争があったから、君も大変だったねぇ」
“大変だった”とはその紙面を見ての感想だろう。
資料にはある波数が記されていた。一定の間隔で刻まれるそれは椿の心臓、脈の記録。通常値から大きく変動した場合に、それが居場所と時間と共に記録される。
ここ数週間は様々なことが起こった為に先月とは大きく記録がズレ込んでいたが、特に体への異常は無い。血液検査も通った後に鴎外が椿に云い渡したのは「概ね宜しい」という言葉だった。
「ゆっくり、とはいかないけれど、休息は確保するように。君の身に何かあっては大変だからね」
「……別に、大丈夫」
「そうかい? 然し無意識の内に疲労は溜まるものだ。休める時に休みなさい」
「…私よりも中也が、」
そう云いかけた椿はハッと何かを思いついたように鴎外を見た。小首を傾げる鴎外。その目前にずいと椿の手のひらが突き出される。
「睡眠薬。欲しい」
「……眠れないのかい?然しねぇ、椿ちゃんは薬が、」
「私が使うんじゃない」
「? じゃあ、一体何に…」
「盛る」
「え?」
中也に、と続けた椿の言葉に鴎外はひくりとその顔を引き攣らせた。
半年任務の後の度重なる任務。加えて先の戦争とその後処理で中也の元々悪い目付きが睡眠不足で更に悪化している。休息を確保するように、と云うが中也は真面目だ。きっと今日も無理をする。だから強制的にでも休ませるのだ。
ぷりーず、と更に手を出す椿。鴎外は暫しの沈黙の後、小袋を取り出し椿の手のひらに乗せた。
「………使用容量用法は、守るんだよ?」
失礼な、純粋な心配である。
「中原君に叱られない?」と云う鴎外に椿は「擦り付けも証拠隠滅も得意」と返す。そういう所も含めて心配なのだが…という鴎外の心を、椿は知る由もない。
「…まぁ、確かに中原君は自ら進んで休息を取らない節があるね」
少々強引な気もする上不安は残るが、彼女も彼には加減するだろうと最終的に結論付け。
睡眠薬をゲットし、ほくほくと首領執務室を後にする椿を、鴎外はヒラヒラと手を振り見送ったのであった。
▽
椿が中也の許に帰ると、出た時よりも机の上が整頓されていた。きっと休憩無しで捌いていたのだろう。「ただいま」と云えば視線は手元に注いだまま「おう」と返事が返ってくる。眉間の皺が濃い事に気付いているのだろうか、と近寄りぐっと皺を伸ばすように指先を押し付けると、漸く中也の目が此方を見た。
「なんだ。異常なかったろうな」
「ない。健康」
「そうか。…もう少しでキリが良くなる。珈琲入れといてくれ」
「わかった」
パッと手を離し珈琲を入れる為執務室から出る。黒服に用意の旨を伝え、湯気立つそれが運ばれると、懐から先程手に入れた袋を取り出す。説明文と暫し睨めっこした後、黒い液体へ粉末をザパッと投入した。入れ過ぎただろうか。まあ混ぜればいいか、とスプーンを数回ぐるぐると回らせる。そうして何事も無かったかのように執務室に帰ると、珈琲を執務机とは離れたローテーブルへ置き、その傍のソファに腰を下ろした。
それに気が付くと中也は数枚資料を手に近付いて来る。椿の隣に座った後、もう片方の手で珈琲を口に運んだ。
「ん、美味いな」
「それはヨカッタ」
もっと飲め。心の中で云っているとは知らず、中也の手の中の液体はみるみる減っていく。
あとは都合よく寝の体勢に持っていけばイケる。椿は腕を広げ口を開いた。
「フリーハグ」
「は?」
「フリーハグ」
そう迫る椿に中也は怪訝な顔を向けた。その顔はまたテレビで要らぬ知識を付けてきたな、と云いたげである。「幸せホルモンってやつが出るらしい」と未だ腕を広げ待機する椿に、中也はどうしたものか、とズズっと珈琲を啜った。
厭に瞼が重い。若しかしたら案外疲れているのかもしれない、と考えているうちにも異様な眠気が襲ってくる。珈琲カップを置き、眠気を覚ますように目頭をぐっと摘んでいると、資料を持つ方の手に何者かの手が重ねられる。云わずもがな椿だ。手の中から資料が抜き取られローテーブルに置かれる。「眠いでしょ」と確信めいた言葉に、何入れやがった、と問えば「睡眠薬」とぺろっと白状した。
「…荒業すぎんだろ……ッ!クソ、眠ぃ!」
「中也が自分で休憩しないから。隈濃いのわかってる?」
「んなもんいちいち見て確認しねェよ」
くぁ、と我慢できずに欠伸がこぼれる。瞼を開いているのが辛い。本格的に効いて来たようだ。然し中也は意地でも体を倒す気はないらしく、未だ上半身の直立を保っている。
「今なら布団になってあげる」
「……」
「きて」
さぁ、と待機する椿を恨めしそうに一瞥すると、投げやりに椿の腕へ上半身を預けた。ぐるりと細い腕が回る。肩口に頭を落ち着けると、椿の柔らかな髪が頬を擽った。そして、仄かに彼女の匂いが香る。白い項から目を逸らすように、瞼で視界を覆った。
こんなんで寝れるか、という杞憂とは裏腹に、それから中也の瞼は縫い付けられたように閉じたままだった。黒い視界、椿の匂いと感触のみが判別できる。ふわふわと微睡みに居る中、温もりを探して自身も腕を回した。ぎゅうと身を引き寄せ頬を擦り寄せるとゆっくり髪を撫でられる。だんだんと、往復する感触が遠くなっていった。
「おやすみ、中也」
静かに寝息を立てる腕の中へ声を掛ける。薬を入れ過ぎたと思ったが、案外丁度良かったかもしれない。そのまま膝上へ中也の頭を倒し、黒服に持ってこさせた毛布を肩に掛けてやる。深い寝息にやっぱり疲れていたじゃないか、と呆れながらも、緋色の癖毛を撫でる手は一等優しかった。