閉ざした場所


椿は閉じていた瞼を突如開くと、気配の現れた扉を凝視した。その直後、控えめなノック音が執務室内に響く。視線を下にやれば中也は未だ眠っていた。睡眠薬の効果恐るべし…と考えているうちに、もう一度ノックが響く。入るよう促すと、1人の黒服が紙の束を持って入室した。それを見た椿はピクと片眉を上げる。また書類か、と云うようなそれに、黒服は何処か忙しなく目を彷徨わせながら口を開いた。
曰く、任務だ、と。

「…戦争とは別件?」
「は、はい……」
「ならいい。…今動けないから持ってきて」

そう云って手を伸ばす椿に任務の為の資料が渡される。ペラリペラリと捲る椿の目前、黒服は緊張した面持ちで此方の反応を見ているようだった。見たところ、これは中也宛ではなく、“月の女”宛の任務だ。ふむ、と一通り見終えると資料を畳み、受ける旨を伝えると黒服は直ぐに踵を返し執務室を去ろうとした。
椿の目が、スゥと細められる。

「待って」
「、なんでしょう、」
「……それ、“素敵なネクタイ”ね」

わかり易く肩を震わせた黒服の背中を椿の目が射抜いた。いつの間にか自分の足が床に縫いとめられたように動かなくなっていることに気が付くと、黒服の額を汗が滑り降ちる。ここは、彼女の箱庭の中だ。

「前にもそれを見た覚えがある」

正確には、それだったものだが。注意を向けた時には既に遅く、ネクタイと共に首が吹っ飛んだ。あの白鯨の時、ネクタイに僅かに残っていた配線。それと同じものが、近付いた時この黒服のネクタイにも見えたのだ。

いつの間にか、すぐ背後で彼女の声が響く。細い手が、肩をなぞりあげる。黒服の足は、未だ動かない。

「震えてる。…怖い? 私が」
「……とんでも、ございません」
「ふぅん」

「それは、少し困る」

その言葉と共に、ヒタ、と首の皮の上を鋭い切っ先が滑った。
ポートマフィアの牽制材料である月の女は、何も外へばかりその効果を期待しているのではない。彼女は内部の裏切りへも目を光らせて恐れられている。夜にずっと追い掛けてくる月のように、裏切り者は逃れることはできない。

「何処から紛れた?」

その目は敵を見据える月の女の、氷山のように鋭く冷たい眼差しであった。ゴクリと唾が喉を通過する。未だなぞる切っ先は彼女の気紛れでいつでも自身の命を刈り取ることが出来る。
黒服は、このまま殺されるのは堪らない、と唯一自由である口で精一杯の嘆願をした。

「違うのです、私は、何も!誓って何も知りません。知り得ませんでした。気付いたら、そう、意識が外の内に、私はこの線に繋がれていた!本当です!お願いです、私を、私をお助け下さい。お願い致しますっ!その為なら、何でも致します!馬のように働き!犬のように傅きます!嗚呼、お願いです、お願いです……」

黒服の言葉に、椿は暫く口を閉ざしていた。そうしてやっと開いたかと思うと、微笑み、云った。

「君の話には、幾つか疑問があるけど…」

そうして椿は紙とペンを取り出し、サラサラと何かを書き連ねていった。『内部に何か紛れていると云いたいの?』そう紙の1番上に書かれたそれが黒服の目前に突き出される。男がコクリと頷くと、また彼女のペンが紙の上を滑る。今度は紙と共にペンを差し出され、質問に筆談で答えると察した黒服は紙面に目を通しペンを握った。
『意識が外の内にって何?』
『あまり覚えていないのですが、視界が暗くなって気付いた時には倉庫に。眠っていたようで、ネクタイにこれを取り付けられていました』
『何故私に助けを求めた?』
黒服のペンが止まる。
椿は続けてペンを走らせる。
『“それ”を取り付けた者の望みが、私にこの任務を受けさせることだった?』
「…」
『無言は肯定と受け取る。この任務を私が受けたら、君は助かると云われた。何処の誰かもわからない者の言葉を信じるならだけど。その連絡は、いつ、どのように?』
『非通知で、携帯に』
『この資料は?』
『共にデータが送られて来ました』
『相手の声は』
『男です。若過ぎず、壮年でもない』
「……成程」

キュッとペンを蓋に収める。宣戦布告、というやつか。近頃のマフィアはよく喧嘩を売られるらしいな、と暫く椿の目が伏せられる。

「あの……何故紙を?」
「云ったでしょ。前にもそれを見たって。喋ると首が吹っ飛ぶよ」

黒服の口がキュッと引き結ばれる。恐らくこの配線には通信機も取り付けられている。

「……ねえ、私のいのちと君のいのち。どちらが重いと思う?」

その言葉に、黒服は顔を蒼白とさせ「そんな、」と一瞬で絶望を露わにした。一介の構成員の自身とポートマフィアの牽制材料である月の女とでは、組織にとって重い命など火を見るよりも明らかだ。そう瞬時に悟った男は地に膝を着く。椿はもう箱庭を使っていなかった。
無感情そうに男を見ていた椿であったが、その後「なんてね、冗談。安心して」という言葉を零す。

「……下手にいじれば爆発がオチ」

逆探知に掛けて信号を追うか。その前に配線をなんとか取り外さなくては、と椿はさっそくその足を梶井の研究室へと向けた。手は確りと黒服の袖を掴んでいる。
執務室を出る直前、ソファに横になる中也を一瞥し、静かに静かに扉を閉めたのだった。







「ぐっふっふっふっ! この梶井にかかればこれくらい、朝飯前というものでしょう」
「ん、ありがとう。助かった」
「いえ。この部屋はどうぞご自由に。私は宇宙大元帥へお送りする檸檬制作に戻らせていただきまァす!」
「忙しいのに悪いね」

バタン、と閉じた扉から顔を逸らし目の前の配線を睨み見る。黒服は自由になった首元に、先程よりも幾らか落ち着いているようだった。

「本当に、ありがとうございます…」
「…別に。中也ならこうすると思っただけ」

仲間思いの彼は部下に大変慕われている。一介の構成員、部下一人でも、彼は見捨てないのだ。その信条を守るのは、中也の部下の一人である椿にとって当然のこと。この黒服は敵の騙りに呑まれた、憐れな“仲間”なのだ。
配線に接続した通信探知機へ近付き、カタカタとパソコンを操作する。情報を見逃すまいと、画面をじっと見る椿の背後、黒服がその様子を緊張を孕んだ眼差しで見ていた。

ある一定の場所までスクロールした手元。途端、画面が黒く塗り潰される。

「? …!」

画面に浮かび上がったマーク。一瞬で画面を覆い尽くしたそれはザザッ…と砂嵐の後、パソコンが強制終了された。

「あれは……!」
「…ウイルスが仕込まれてる事は想定内。…あのマーク、龍之介の報告で見たような……」

「梶井〜」と扉の外へ椿が消えた後、残された男は黒い液晶へ近付く。その視界の端、パチと配線が僅かな光を上げたのを、幸にも目にした。男が距離を取ったのと同時にけたたましい音を上げ爆発する配線。繋がれていた通信探知機とパソコンも共に部品を撒き散らした。
音を聞き付けて椿が戻り、目にしたのは、無残な機器類の残骸であった。

「…逆探知はお気に召さなかったみたいだね」
「……申し訳、ありません」
「手掛かりは消えた、か。………まぁでも、何者かはわかったかな」

このネクタイ型爆弾を仕掛けたのは白鯨落としと同一犯だ。組合ではなく、マフィアでも探偵社でもない。
椿はその後暫く沈黙した。何かを考え込んでいるようで、その答えを男は待った。

「……あの任務に行けば、首謀と対面できる。違う?」
「! 危険です!」
「そんなもの、石ころ同然に転がってる。この世界で危険を恐れたら何も出来ない」
「然しッ……!」
「君も着いて来て。首謀の声を聞いているのは君しかいない」
「、っ」
「未だ相手が、大きな何かをポートマフィアに仕掛けて来ないうちに蹴りを付ける」
「………承知、致しました」

「明日の晩、出発する。エントランス前に足を用意しておいて」

その言葉に、黒服は神妙な面持ちで頷いた。椿はその返答に満足すると、亜麻色を揺らして部屋を去る。直前、黒服を見遣る。

「君は悪くない」

そう一言残し、パタンと扉が閉まった。