鮮やかな夜
約束の晩、椿が任務支度をする姿を中也は「いつの間にそんな任務来たんだ」との言葉を交えながら見る。中也が眠っている間だ、と答えるとわかり易く顔を顰めた。その表情からはすっかり隈も疲れも消え失せていた。
「珍しいじゃねぇか。手前が他と任務なんてな」
「…偶にはいいかと思って」
「俺が何も聞いてないと思ってんのか」
いつの間にか近付いていた距離。背を向けていた体を反転され中也の瞳と目が合う。強引に向けられたそれとは裏腹に、青の中には心配の色が伺えた。
「梶井から聞いてる。内部に紛れた奴は探し出す」
「…だから私は行く必要ないって云いたいの?」
「ッわかってるなら!」
「違う、中也。…これは私が行かなきゃいけない」
過保護が過ぎるよ、と自身の腕を掴む手を解いていく。ポートマフィアの五大幹部の一人であるAとの連絡がつい先刻途絶えたばかりであった為に、中也の心配に拍車がかかるのもわかる。Aは、白鯨落としの主犯であるドストエフスキーにマフィアの報復を下す筈であったが…恐らく、Aはドストエフスキーの騙りに呑まれた。無事である可能性は限りなく低い。
「……椿、」と引き留める声に、流されそうになってしまう。本当は自分が一番、其処へ行きたくないと思っている。然し、そうも云ってられないのも、現実なのだ。
「…一度目に、目の前で仲間が死んだ。二度目は防げた。でもそれは、相手が取引を私に仕掛けたから防げたようなもの」
あの男が、二度も同じ手を使ってマフィアに爆弾を仕掛ける筈がない。
一度目はこの為のいわば脅しだ。椿がこれに応じなければ、また誰かが、仲間が死ぬ。
『ドストエフスキーは…凄惨とも云える執着で、彼女の肉親を殺している』
あの男を捕らえた時、中也は鴎外からあの男と椿の因縁とも呼べる間柄を知った。中也はそれを聞く前迄は知らなかった。そして知った。椿の悪癖とも云える身内への執着は、突如奪われた過去があったからだと。
「ッなら俺が」
「中也は此処で待っていて」
私の帰る場所は此処なのだ、と手を握る。中也の居る場所が、私の帰る場所。
揺るぎない、覚悟を決めた瞳が握られた手の向こうから中也を見た。
「行ってきます」
彼女はこれから、過去の清算に行く。
▽
「誰かと任務なんていつぶりだろう」
「……」
隣の黒服は緊張で吐きそうな顔をしていた。今からそんな様子で大丈夫だろうか?と考えながら目的の建造物の見える場所に立つ。任務の内容は、いつも通りだ。月の女が行うのは、ポートマフィアに楯突いた者共への報復。一人残らず、始末する。
コツ、と地面に付けた足先から箱庭が広がった。
「先ずはあの男の目的を聞き出す。…と、云いたい所だけど」
「はい」
「…中の様子が可笑しい」
箱庭で映し出した其処に、人間は一人しか存在しなかった。見覚えのない男だ。それ以外に人の気配はどの部屋にも、隠し通路にさえ感じられない。一先ず殆ど人の気配がない中に足を踏み入れた。
その建物の1番隠れた場所にある、1番豪華な部屋。嘗てこの組織の長が使用していたであろうその部屋に、男は居た。
部屋に足を踏み入れた椿達を出迎えたのは、分厚い雲が覆い尽くした空を映す窓を背に嗤う、男の明るい声。
「やあ。首を長ァくして待っていたよ」
男は片方しか見えない目を細め、恭しくマントを翻し芝居がかったお辞儀をした。
「…ハズレ?」
「いえ、私が聞いたのはこの男の声です」
「ハーハハハッ!ハズレだなんて酷いな!嗚呼、君!案内ご苦労様!
──……そして、左様なら」
「!!」
虚空から現れた銃に椿は黒服の腕を引く。発砲音の後、視界を赤が彩った。頭部を掠ったらしく男の額を血が滴る。椿の手が患部を抑えるも留めるものがない血はとめどなく流れ続けた。黒服は死を目前にした恐怖でヒュウヒュウと息を漏らす。
椿は噛み付くように声を上げ、恐らく黒服を撃った男を睨んだ。
「ッ取引は!!」
「取引? 真逆。私は迎えに来ただけさ、馬のようにね。其処の彼はもう用済みさ」
「…最初から、」
「そう。彼の役目は君を此処に導くことだ。ハハッ!爆弾を解除してこのまま来なかったらどうしよう!と思ったけれど…来てくれて善かったよ」
コツコツと靴の踵を鳴らして、男が近付く。
「ほら、また君の存在で人が死ぬ」
腕の中の指先が、ピクと動いた。
「しにたくない」
「死にたくない、死にたくない…シニタクナイ……!!!」
ぼやくような声は、回を増すごとに叫びとなって男の喉を震わせた。叫びは椿の腕の中から聞こえた。血塗れの手が迫る。男の血に汚れた床の上に亜麻色が散らばった。男の手は、女の細い首を握り締める。恐怖で気が狂ったか、と見遣る椿の顔が息苦しさで歪んだ。
「私は、俺はッ!何故俺が死ななければならない!俺は!云う通りにこの女を、此処に連れてきたッ!何故俺が死ななければならない!!」
「ッ待、て、落ち、」
一言発するごとに男の指先が締める力が強くなる。椿は藻掻くように男の腕に爪を立てるが、男と女の体格と力の差は歴然であった。ぐらぐらと視界が黒に染まっていく。鼓膜を劈く男の叫びと荒い息ばかりが明瞭に聞こえた。
「死ぬか、死ぬものかッ!!俺は死にたくない!死にたくない!!いのちの重さ?知るか!俺は俺の命が唯一だッ!!お前のような、殺すために生まれたような化け物がいるから!俺のような命が安くなるんだ!!」
「お前を連れてきたばかりに、俺は!お前が、死ね、死ね、死ね!俺の代わりに死んで仕舞え!!俺は!生きる!俺は死にたくない!死ね!死ね!死ね!死ね!」
「ッ……!、!、」
黒服の体が、窓を突き破り宙に放られる。
グチャりと地面に衝突した男の顔は潰れ、体は捻じ曲がり、絶命したことは一目瞭然であった。
「……そう。それが、君の本質だ」
ゲホゲホと咳き込む椿の背に、男の声が静かに落とされた。