封邑
椿の首にはくっきりと、赤く手指の痕が浮き上がっていた。
ダラりと床に着いた手を呆然と見る。自分のものでは無い血が、床を、手を、彼女の顔を汚していた。
自分は今、何をした?
「……私に、殺させるのが狙いだったのね」
道化師のような男は逆さの三日月を浮かべるばかりであった。
椿は箱庭で、黒服を縊り殺した挙句、虫の息の男の体を窓へ走らせ、窓ガラスを突き破り。箱庭の範囲外へ踊るように出た体はそのまま重力に逆らうことなく落ちた。
砕け散った窓から入る風が虚しく頬を撫でる。
「一度でも人を殺したことのある人間は、人を殺す前には戻れない…とは、よく云ったものだね」
人を殺した人間が、人を殺す前に戻れないのは、それまでに人を殺すことを押し留めていた理性が崩壊するからだ。一度でも人を殺した者は、対人物の解決の選択肢に、易々と“殺人”の二文字が顔を並べる。壊れた箍はもう戻らない。
椿の箍は、もうずっと前に壊されているも同然だった。それこそ、先程絶命した黒服が云ったように、強過ぎる異能を持ち、異能と共に生き、その為に生まれたようなものだった。仲間の存在が新たに椿に箍を掛けていた。
「なら、一度でも仲間を殺した君は、どうなるだろう」
今しがた起こったのは、その箍の崩壊だ。
「嗚呼、然し君は、これが初めてじゃあなかったね」
カラン、と放られたそれを見て、椿は目を剥いた。
「ど、して…何処でそれを」
放られたのは、短剣だ。 厭に見覚えがあった。体が震えて仕方がないのに、目はその短剣に釘付けられたまま動こうとしない。あれは、あの夜から手放して無くした筈。
全ての音が遠くなる。赤黒く汚れた短剣が反射する、鈍い光がよく見える。
光。
バッと窓の向こうを見た。雲間から覗く青白い月と目が合った。喉の奥から、悲痛な呻きが溢れ落ちる。
「……ぁあ、」
これでは、まるで。
凡てがフラッシュバックする。灰色の記憶がその色と臭いと温度と共に蘇る。
血に濡れた床。
噎せ返る臭い。
広がる血の池。
月の青白い光。
底冷えの四肢。
私の中に居た、母を、あの日殺された。紫の目の魔物に。
…否、母も、祖母も、私が殺したようなもの。
私が居たから。異能を持ちながら守れなかった。本当に守りたかったものを失う後悔は、ずっと付き纏っていた。
「厭、」
どんなに逃げても迫ってくる。受け入れ難く、避けようとして後ずさりする歪んだ顔に、それでも照りつける光。
これこそが、“正しさ”だ。紛れもなく。月はずっと見ていたのだ、私を。正しさから目を背ける私を嘲笑うように。
だから、月の無い夜に、女は出たのだ。月に見つからないためには、月と一体になるしかなかった。
じっとりと湿った空気が背中から這い上がる。焦点が合わない視界、吹き出る汗が額を伝う。もう何も見たくない。見たくないのに、光が瞼をこじ開ける。
雲が、開ける。
「貴女の本当の箍は、恐怖そのものです」
青白い光が影を一層濃く、長く伸ばした。響いた声は、目の前の道化師のものではなかった。朦朧としていた意識が引き戻される。
もう恐ろしくはないと思っていた。もう守れると思っていた。
然しこの魔物は、私の予想していた恐怖を凌駕し、新たに、また植え付ける。
引き摺り出さないで、暴かないで、私の中の狂気を。見ないで、見ないで、見ないで。折角逸らし続けてきたのに。
「貴女の理性は恐怖によって作用する。貴女の手から離れたものへの悔恨によって、本当の意味で貴女は異能を操ることが出来るのです」
人間は、忘れる生き物だ。どんなに辛くとも、いずれその記憶は色褪せ、消える。然し刻みつけられた古傷が、上書きされ新たな傷を生むなら。
「貴女は失う運命の許にある」
追い詰めるような足音が近付いた。
「これで、わかったでしょう?」
この男はいつも、私が逸らす目を無理矢理向けさせる。
耳元で、あの悪夢の声がする。
垂れかかるように回された腕、ゆるく伸ばされた掌が、私の呼吸を奪った。