忘れえぬ夜
項を滑る男の手は、冷たかった。
「どうした?」
その声に、ハッと思考が現実に引き戻された。
椿が顔を上げると中也が覗き込んでいたようで、鼻先が触れそうになる。「調子悪ぃなら無理すんなよ」と目の下をなぞられた。昨晩は眠れなかった。きっと隈が出来ているのだろう。
椿の手に握られた万年筆は、いつもより書類を捌くスピードが遅い。それに気付いた中也は椿に休息を云い渡した。珍しいことに大人しくペンを置いた椿に、本格的な調子の悪さを感じ取る。
椿の首には、いつものチョーカーの代わりに白い包帯が巻かれていた。昨晩、任務から憔悴しきって帰った彼女の首に、絞められたような痕を見た時には、血相を変えて詰め寄った。何があった、と。椿が向かったあの場所には道化のような男と、マフィアが捕らえていた筈のドストエフスキーが居た。そして椿はこうも云った。「仲間を、殺した」と。助けるどころか、自分の手で殺してしまったと、椿は瞳を揺らしていた。
然し聞けば、椿のそれは正当防衛に近く、致し方のない事だったのではないか、と中也は考えていた。自分や広津、椿のように、マフィアへ身も心も、生も死も捧げる心持ちの奴は、きっと組織の中で数える程度しか居ないだろう。誰だって自分に死が迫れば恐れ戦き、目の前の死の因子を滅する為に普段では考えも及ばないようなことをする。今回の黒服の行動は、恐怖に呑まれた末のものだ。今際の際に放った言葉も、そう深く考えたものでは無い。生き長らえたいと考えることは生き物の本能だ。
確かに敵の誘いに乗るには些か尚早ではあった。然し凡てが凡て手前が悪い訳じゃない、と言葉を掛けるも、椿は終始腑に落ちていない様子であった。そのことが、中也は気掛かりだった。
「また夢見が悪ぃのか」
「………眠れなかっただけ」
「だけって…手前なァ」
引き寄せる為に伸ばした手。然しそれは椿に触れる前に避けられ空を切る。
「…?」
僅かに違和感が掠めた。「休む」と執務室を後にする背中を呼び止める間もなく扉が閉まった。
地下に降りる箱の中。絶えず訴える頭痛と歪む視界に愈々拙いな、と椿は壁に手を着く。胸を覆い尽くす昏い何かが自分を蝕んでいるように感じた。いつもより長く感じる自室までの道のりを進み、天蓋の垂れるベッドへ体を投げ出す。柔らかな枕を腕に抱えて顔を埋めるも、眠いはずなのに一向に眠れる気配がない。寧ろ目を閉じれば、黒服の最期とあの夜が思い出されて体に鉛のような重さが蓄積されていく。
『それが君の本質だ』
「違う、」
あれは防衛本能だ、と何度も自分に云い聞かせた。ならば自己の保存のためなら、自分は仲間ですら殺せてしまうのかと、思考がぐるぐると戸愚呂を巻いて絡まる。
あの男の言葉を肯定するのなら、自分は身内の血を啜って理性を保つ化け物だ。異能を持つ限り、その業を背負い続ける。
生きている限り。
「……嗚呼、そう」
その時、唐突に理解した。これがあの男の、本当の目的だったのだと。態々回りくどく舞台を設置した上、トラウマを抉り返す。私に理解させる為に。
理解なんてしたくもなかった。然しここまで露骨に叩き付けられては理解しない方が難しい。意地でも目を向けさせる気なのだ。
「本当に、厭な男」
▽
甘美な風味が口の中に広がった。いつの間にか夢中で口に詰めていたそれに、ハッとして手を止める。目の前にあったのは、果実でも菓子でもない。開かれた人間の腹。赤い血が、手を汚していた。
何が起こっている。何が起こっている?
「…………何なの、」
「椿」
名を呼ばれた。その声は上から、開かれた腹の、丁度頭があるだろう所から、椿の鼓膜に届いた。血の気が引いていく。吸い寄せられるように顔を上げ、食い荒らされた腹の持ち主を見る。鮮やかな赤の中にある、唯一の青。
咆哮が喉を震わせた。思わず後退したその手に、ぬるりと冷たい何かが付着する。恐る恐る後ろを見たそこにも、赤。
「森さん、紅葉姐…………」
開かれた喉、赤い染みが鮮やかな着物を汚す。動かない2つの体。その奥に、黒い外套がモゾりと動いた。
「龍之介ッ…!」
地に伏せるそれへ一目散に駆け寄った。仰向けに抱き起こすと、ぽっかりと脇腹が口を開いていた。口の端から溢れる血に、喉まで血が上ってきているのだと、口を開かせ溜まったそれを吐かせる。
「誰が、誰がこんな…」
「…………………………“誰が”、だ、と……とぼけるな」
その口の赤が、何よりも証拠だと貴様はわからぬのか。
甘さが醜悪な臭いに変わる。思わず椿が吐き出したそれも、赤だった。
呆然と遠くを見る視界に入ったのは、いくつも連なる、見覚えのある死体の数々。喰い散らかされた体が無造作に転がっていた。遠くにぽつぽつと見えた赤を引き摺る黒は、今目の前にあるこの惨劇と同じ。
口元を拭った腕に付着した血糊。私が口にしていたものは、何だ?
「全員、貴様に、…………貴様が、殺した」
「椿、」
離れた中也の声を、椿の鼓膜は確と拾い上げた。そうだ、彼と龍之介は未だ息がある。探偵社の女医を尋ねれば、未だ助かるかもしれない。そう、龍之介の体を抱えて立ち上がろうにも何故か体に力が入らない。覚束無い足に苛立ちが募る。早く、早くしなければ今ある命が無くなる。早く、早く。
如何してだ、と遠くの口が形作る。青が霞んでいく。腕の中でズルリと落ちた掌は、ピクリとも動かなくなった。
「…………厭、如何して」
目を開けて。
閉じた瞼に呼び掛ける。子どものように泣きじゃくる椿の背中で、コツ、と足音が響いた。それはゆったりと近付くと、死体を抱きしめる椿ごと、その腕に閉じ込める。椿の喉がヒュッと鳴る。
固く、死体を抱きしめていた椿の腕を背後から伸びた手が解いて行った。椿の体は、金縛りにあったかのように指先ひとつ動かせない。その筈なのに、小刻みに震える自分の体が、理解できなかった。
垂れかかるような腕が、椿の体を絡めとる。
「さぁ、ぼくといきましょう」
また、あの夜が来る。