戻れない場所
「椿ッ!!!」
「…っ、…、ぁ、」
肩を強く揺する感覚に、椿は目覚めた。バクバクと打つ鼓動、ぐっしょりと額を濡らす汗、見開かれた瞳が中也を捉える。
「心配になって来てみれば……魘されてたぞ、手前。本当に大丈夫か」
「…して、」
「あ?」
「はなして…ッ!」
ドンッという衝撃が中也の胸を襲った。怯えたようにベッドから飛び退き部屋の隅へ逃げ込む椿に、どうしちまったんだ、と中也の焦りの滲んだ声が部屋に木霊する。カタカタと震える様は幼い子供のようで、何故かその時、椿の嘗ての少女の姿を幻視した。
中也が近付く度に椿の顔に怯えが浮かぶ。その目は中也を見ている筈であるが、彼女は今、全くの別物を見ている気がしてならなかった。
「いや…いや、いや、来ないで」
身を小さく縮こませる椿の目前にしゃがみ込む。険しい顔で見る中也の手が迫ると、椿は一層泣きだしそうな顔をした。その体をぐっと引き寄せ、暴れないよう固定する。
「俺を見ろ、椿」
涙に塗れた顔を挙げさせる。中也を映す椿の瞳孔は開き切っていた。
「……手前、薬嗅がされたな」
「ぁ…、く、すり……?」
「嗚呼。ちと辛いか…手前、前に首領から貰った睡眠薬何処だ? まだ残ってるだろ」
「………」
よろよろと立ち上がった椿は、ドレッサーへと近付きその引き出しを開けた。ガサゴソと探している間に、中也はふぅと息を吐く。妙だと思ったら、そういうことか。
ガタン、と音を立てた方を見れば、椿は今度はジュエリーボックスを探していた。……何処に仕舞ってんだ。
「……椿?」
中也の声にピクリと椿の肩が反応する。手元を漁るのを止めると、今度はその足をダッと扉の外へ向けた。
「ッおい!!? 椿!!!!」
中也の呼び掛けに応える事なく椿は地下から飛び出す。もう、意識はハッキリしていた。然し駆ける足を止められない。叩くようにエレベーターの釦を押し、滑るように乗り込んだ。
「…ハァ、ハァ、ッう、」
未だ本調子ではない体を無理矢理鞭を打って立たせる。探るように手を這わせ押した釦は、最上階。
椿はズルリと背をエレベーターの壁に預けた。握り込んだ掌の中にある物の感覚を確かめるようにぎゅっと胸に抱く。地下の暗い地中を映していた硝子張りのエレベーターは、いつの間にか地上へ出てヨコハマの街を映し出す。星のように地上を彩る光。その街を見下ろすように、空には月が昇っている。ほぼ無意識に自身の腕を抱いた。
未だ、椿の体にはあの男の感覚が残っていた。
「……夢、幻覚、」
頭を内側からガンガンと打つような痛み、体のだるさは、何となくアタリがついていた。別に、麻薬の類に耐性はある為、放っておいたのだが存外持続するらしい。昨晩の任務、現れたドストエフスキーに背中から口を覆われ、何かを嗅がされた。夢も少なからずそれが影響しているのだろう。はっきり云って最悪な心地だ。
夢の最後に聞いた言葉は、昨晩あの男が云ったものだった。
『ぼくといきましょう』
誰が行くかと振り払い、その場所から逃げた。帰路に邪魔が入るかとも思ったが、不気味なくらい人の気配は無く。侵食する毒のような感覚だけが残っていた。
あの男は、きっと再び来る。
「……ふ、はははははは、あは、は、あっはは!」
乾いた笑いが小さな箱の中で木霊する。思い通りになんてなってやるものか。
エレベーター内にチン、と音が鳴り響く。辿り着いた最上階、脇の階段へ足を引き摺る。壁伝いに上り、扉のノブを捻れば、蝶番が音を立てて開き夜風が頬を撫でた。
コツコツと高い踵の音を鳴らして進む。ヨコハマの一番高い場所に、椿は立っていた。ビル風が体を煽り、髪が視界を遮る。睨むように月を見据えた。
「椿」
「………こんな、所まで来たの?」
矢っ張り救えないね中也は、と軽口を叩きながら椿は背後へ振り返る。目じりを吊り上げた中也の姿がそこにはあった。その顔に、椿は首を傾げる。
「怒ってる…?何で」
「手前な………………っはァ、話は後だ。兎に角、今はそこから離れろ」
間違っても変な気起こすなよ、と念を押すような声色の中也に、椿は笑った。
「真逆。これ以上ないくらい、穏やかなのに」
厭な予感が、中也の脳裏を過ぎる。
待て、と口が開かれる。未だ中也の伸ばす手から椿は遠い。椿が手を伸ばす。握っていたものを見せるように。
彼女の掌には、紅い宝石が輝くチョーカーがあった。中也の目が見開かれる。
椿はそれに接吻を落とし、云った。
「______」
強風が椿の声を攫った。風に煽られ彼女の体が宙に浮く。勿論椿の背後に、地面は無い。
あるのは夜に沈んだヨコハマの街だ。
「椿!」と叫ぶように呼んだ中也は重力操作で自らの体を砂よりも軽くして目にも止まらぬ速さで椿に接近する。
「手を」と、握ったのは空だった。
先程まで椿が立っていた場所に、中也は立っていた。ヨコハマの街を見下ろすそこからは、月がよく見えた。
「…、如何してだ、椿」
虚しさに溢れた声が、夜に溶けていった。