閑話 さらばうつしよ


最後まで伸ばされていた手を取らずに体が宙に浮く。内臓がせり上がる感覚の後、胸を風が通り抜けたようにスッとした。
死は、こんなにも穏やかなのかと。

(…嗚呼、)

中也の悲痛そうな顔が、焼き付いて離れない。心配させてばかりだというのに何故だか笑みが零れた。



「ハハハーハハッ!!! 君、鳥に夢でもあったのかい? ハッハ! 嗚呼、こんなに愉快なショウは! 私も見習わなくちゃ!」



「…」

ガクンと落ちる感覚が止まる。耳を撫ぜていた風は、男の声に変わった。バサリとマントを翻す音、高らかな笑い声。
仮面に顔の片方を隠した男が、目の前にいた。くっと上がった口角の、その風貌は普通に見れば好意的に受け取るだろう。然し椿にとっては、真逆であった。
人形のように力の抜けた椿の体を支える男の腕。先程まで宙に浮いていた足は、いつの間にか何処かのビルの上らしい地面に着いていた。

「……人の自殺を邪魔しないで」
「云っただろう? 私は迎えに来たのさ。それにドス君は君にそれを許していないよ。あれだけの舞台を設置したのに、君ったら分からなかったのかい?」
「…わかったわよ、厭でも。だから此方を選んだの。……そっちに行くことは、私にとって死ぬ事と同じ」


「…………成程ね。然し此方の可能性は、ドス君曰く低かったのだけれど」
「……“可能性”?」
「気になるかい? では此処でクイズ!」

「何処までがドス君の計画でしょう!」

「何処まで、って。私のこれも予想の範囲内? …巫山戯ないで。人の思考が簡単に読めるわけ無い」
「ふふふ! 読むんじゃあない。操るのさ」
「!」

満足気にくるくると回る男。その腕に抱かれている椿の視界もくるくると回る。やめろと漸く腕から抜け出ると、未だ体が重い上にふらつき、結局抱きとめられた。丁度良く腰掛ける場所に下ろされると、初めのように芝居かかった動作で手を持ち上げられる。

「ようこそ、天使界へ。自由を求める者同士、宜しく頼むよ」
「厭」
ペチンと掌を子気味好い音が払う。

「おや強情!ドス君は君を救済できる唯一なのに」
「巫山戯たこと云わないで」
「真逆。大真面目さ! 彼の存在こそ、君を人たらしめる恐怖そのものだろう?」

その言葉に、椿は愈々黙り込んだ。

「宜しくついでだ。君の名は?」
「……貴方が教えたら教えてあげる」
「成程、クイズだね!?」
「違う」

此奴、疲れる。そうげっそりしていると、それほど高くもないビルに降り立ったのか、下の喧騒が聞こえてきた。チラと見ればぞろぞろと黒い衣服の者達が彼方此方へ動いている。見上げれば、其処はマフィアビルの、丁度椿が飛んだその下であった。ではあの黒服の指揮を取っているのは、中也だろう。当然、今椿は生きている為に、地面に人が叩き付けられたような跡は無かった。男もそれを一瞥すると、くるりと椿に向き直り口を開く。

「さ、そろそろ行こうか」
「…何処に?」
「そりゃあ勿論、私達の救済に一番近い所さ」

誰にも認識されず、誰にも知られず、2人の人間がそのビルの上から姿を消した。