まぼろしの亡骸
探偵社の入った建築物の前に黒塗りの高級車が止まる。車から出た男は階層を睨み上げると足早に中へと消えた。
“武装探偵社”の文字が連なる扉に向かってコツコツと革靴の踵を鳴らし迷いなく進む。ガチャと開かれた音に顔を上げた探偵社の面々の目が見開かれた。男はぐるりと社内を見回す。別に喧嘩売りに来たんじゃねえ、と云い、目当ての顔を見つけると苦々しげに舌打ちをして口を開いた。
「よォ青鯖野郎。一寸ツラ貸せや」
「あ〜〜〜〜〜何だか幻聴が聞こえるなァ〜私疲れてるのかもぉ〜〜〜〜」
「手前ェぶん殴るぞ!!!」
「ヒィッだっ太宰さんん…!!」
凶悪な人相を更に歪める中也に敦はビビり散らしている。のらりくらりと席を立ち、出入口を塞ぐように立っていた中也を躱して外へ出ようとする太宰に、中也は静かに言葉を落とした。
「椿が消えた」
「………は? 何。如何いう事? とうとう君愛想尽かされたの??」
「違ぇぶっ殺すぞ手前!!!!」
「…………通信は」
「あったらとっくに連れ戻してる!…然し手前の所にも来てねえか」
「…詳しく聞かせて呉れる?」
やっと聞く気になったかよ、と云うと中也は腕を組み直し、太宰は中也と向き直った。
未だ日の高い、昼のことである。
▽
「嗚呼、待っていましたよ」
薄暗い地下、パソコンの液晶から発する光だけがその部屋の明かりとなっていた。此方に背を向けたまま、先程声を発した男はカタカタとキーボードを鳴らす。タン、と男の指がキーボードを叩いた後その部屋から音が消えた。
「云ったでしょう。貴女は必ず、ぼくの許に来ると」
「───…ドストエフスキー」
椿がその名を発するとドストエフスキーは顔のみ振り向き、薄く笑みを浮かべた。対して椿は険しい顔の眉間を更に深く刻み、ドストエフスキーを睨み付ける。くるりと椅子を回し体を向けたドストエフスキーは、椿の後ろの男に向けて口を開いた。
「ゴーゴリさん。よく彼女を説得しましたね」
「同僚の頼みだからね! これで割に合うかい?
「ええ、勿論です」
「…勘違いしないで。私は貴方のものになったつもりも、仲間になるつもりも無い」
「えっ!」
「ほう」
そうなの!?と背後から覗くゴーゴリと呼ばれた男の言葉は無視して椿はドストエフスキーを見据える。男は変わらず薄笑みを浮かべていた。
「ならば、貴女は何の為に此処へ? 内部に潜入し、ぼくたちを一人残らず始末する為、ですか? …違うでしょう。それならゴーゴリさんが貴女を此処に通した時点で貴女は異能を使い、ぼくたちを殺している筈ですから」
椿は口を閉ざす。その様子にドストエフスキーは続けた。
「ぼくに、何か望みがあるのでしょう?」
「それは貴方の方じゃないの」
「…成程。交換条件という訳ですね」
椿が凡てを話す前にドストエフスキーの頭脳は察した。彼女は自身が人質の積りで来たのだと。人質と云うよりは生贄のようなものであった。然し彼女はそれを選んだ。ふ、と息と共に笑みが溢れる。
珍しく自分の身に湧き出た高揚をドストエフスキーは感じていた。
「ぼくは、貴女に此処に居て欲しい。簡単でしょう?」
「マフィアに…私の大切なものに手を出さないで。私に、隠し事も、嘘も吐かないで。私の質問には凡て答えて。それなら此処に…貴方の傍に居てあげる」
「いいでしょう」
ゴンチャロフさん、とドストエフスキーが云うと彼の傍らに控えていた長髪の男がうっとりとした眼差しでドストエフスキーを一瞥した。その後無言のやりとりの後、「かしこまりました」とその男が近付いてくる。
「貴女様の世話役を務めさせて頂きます。イワン・ゴンチャロフと申します」
「…」
無言のまま椿の目がドストエフスキーに向けられる。視線が合うとドストエフスキーは瞳を細め、ゴンチャロフと呼んだ男に「彼女を部屋へ」と下した。スッとゴンチャロフがドストエフスキーに一礼すると、椿の背へ触れない程度に手を回し“部屋”へ促す。触れようものなら折ってやったのに、ここの人間は椿の敵への凶暴性を理解しているらしい。
椿は足を進め、扉の前を通り過ぎようとした。そこに立っていた片仮面の男の見張るような視線には一切目を向けることなく、ゴンチャロフと共に部屋を去った。
椿の去った扉を見詰めるドストエフスキーに、ゴーゴリの呆れを感じさせる声が掛かる。
「…割に合わないんじゃない? ドス君」
「これで善いのですよ。彼女を手許に置くことがぼくにとって最大の質量です。それを彼女自身が保証するのなら充分…いいえ、充分過ぎる程でしょう」
「お熱いねぇ」
「…ええ。勿論」
そう答えたドストエフスキーの眼は、目の前のモニターへ注がれていた。
▽
前を歩くゴンチャロフの背に続いて足を進める。陽の光を遮断した地下拠点はまさしく鼠の住処だ。見回せど頼りない照明が視界の端を揺れるばかりで簡素な通路が続いていた。
そうしている内にピタリとゴンチャロフが止まったのは、重量感のある鉄製の扉の前であった。扉に掛かっていた鍵を一つずつ丁寧に外す手元を見る。「…金庫みたいね」と独り言ちた椿の声に、ゴンチャロフが口を開いた。
「此方には長くの間、納めるべき一つが足りませんでした」
「…?」
ガチャンと一層重い音を立てて錠が解かれる。
「主様の手に入れた凡ての宝石、凡ての金品……どれも、主様にとって本当に価値あるものでは御座いません」
「……この部屋は、何の為の」
「主様の、何よりも価値ある宝の為の、部屋でごさいます」
扉が開かれる。
何でもない、只の部屋だ。先程までの薄暗さとは一変して白を基調に構成されたインテリアと明るい室内。一つのテーブルを囲むように置かれた対のようなデザインのソファが二席。奥には天蓋の垂れるベッド、大きな鏡のついたドレッサー。天井は高く、上に一つだけポツリとはめ殺しの窓が空を映していた。
「貴女様という、ただ一つを納める為の部屋です」
「……大掛かりな」
「さ。それではお着替え致しましょう」
「…着替えの必要なんて、」
「主様がお望みならば、管理される貴女様は従うべきです。その首の物も、外した方が宜しいかと」
「…」
体を拭くものをお持ち致します、と椿を置いてゴンチャロフが去る。背後で重い扉の音が鳴ると、椿は漸く張り詰めていた息を吐いた。なんだあのゴンチャロフとかいう男のドストエフスキーへの盲信ぶりは、と無駄に疲れた身体を一度ソファへ投げ出す。柔らかく受け止めたクッションの肌触りは申し分ない。暫しの間身を沈めていたが、ハッと上半身を起こした。その直後、ノックが響く。
扉を開いて出てきたのは矢張りゴンチャロフであった。水瓶とタオルを乗せた小ぶりのカートを押して入って来る。此方をお使いくださいと云うと、再びゴンチャロフは部屋から退出した。
「…何なの……」
ぎゅ、と首に着けたチョーカーを握る。ビルから飛び降りてゴーゴリに不本意にも助けられた後、包帯の上に着けたチョーカーの紅い宝石は椿の首で変わらず輝いていた。
一先ず体を拭き、悪夢で流した汗もサッパリ拭い終わる。ドレッサーに向かい、大きな鏡の中の自身と向き合いその首を見る。包帯を外すと未だ薄らと手指の痕が残っていた。
「…ごめん、中也」
ドレッサーの引き出しに手を掛ける。チョーカーがすっかり仕舞い込まれたタイミングで、丁度よく再び扉のノックが響いた。そして雪崩込むように運ばれてきたのは服、服、服。ポカンと見る椿にこれでもかと洋服を並べているのは土の塊のような何かである。土人形の最後尾にゴンチャロフが部屋に入ってくる頃には、部屋の床という床、物という物の上に雪のような服が重ねられていた。この中から選べと、と無言でゴンチャロフを見るとにっこりと微笑まれ頷かれる。
あれこれ忙しなく目前に土人形が洋服を持ってくるのを「厭」と切り捨て続ける椿。断った直後土人形が人間のように肩を落とし去っていくのを幾度も見ていると、敵にはない筈の心が若干痛んだ。
どの服も裾が引き摺る様に長く、歩く事を殆ど想定していないようなデザインであった。あの男は本当に自分をこの部屋から出すつもりが無いらしいと見ていくうちに思い知る。
結局椿が選んだのは、絞り込んだ物の中でも裾の丈が短いイブニングドレスであった。短いと云っても選んだ物以外が長過ぎるだけで、此方も充分丈は長い。椿の長い脚をすっぽりと隠すチュールの重なる裾は、少し屈めば床に広がり座れば周りに円を描く。何故かドレスは、椿の体にぴったりと合った。続いてヒールも装飾も取り出され、凡てが整えられる頃には椿の心に飽きが滲んでいた。別に洋服ぐらいどうでもいい、と鏡越しにゴンチャロフを見ると「とんでも御座いません」と返される。人の世話が好きなのか、ゴンチャロフの顔に疲れは全く見えなかった。
「あんな量の服、私を着せ替え人形か何かだと思っているの、ドストエフスキーは」
「贈る物とは想いの数でしょう。嗚呼、本当に幸福な御方です」
「重い」
白いヒールを足で遊びながら見る。これもきっと、土を踏まずに白を保ったまま履き潰されることなく取り替えられるだろう。
椿の首の包帯にゴンチャロフの手が掛かる。咄嗟に首を覆った椿に、ゴンチャロフは手を引っ込めると「失礼致しました」と悪びれもなく云った。
「包帯もお似合いですが…此方に致しませんか?」
「……それ褒めてる積り?」
「はい。勿論です」
このままで善い、と云うと暫し沈黙が降りたが、その後「かしこまりました」と続き包帯はそのまま椿の首を締め続けた。