燃え尽きたアンドロメダ


「ドストエフスキーは如何して私に固執するの」

ゴンチャロフが飴色の紅茶を注ぐのを眺めながら椿が問う。ソファに投げ出された体に沿ってドレスの裾も広がった。コツリとテーブルに置かれたティーカップからは湯気が見え、芳しい香りが一帯を包む。

「それは、主様に直接お聞きしては?」
「誰から聞いても同じでしょ。それとも何か変わる?」
「ええ、きっと。言葉とは呪いです」
「…」
「それに主様は、貴女様の質問には嘘偽りなく答える条件を受け入れたのですから」
「……それもそうか」

カップに口を付けると紅茶の味と共にジャムの風味が口の中に広がった。貴方は座らないの、と自分が座るソファの対のソファを指せばゴンチャロフは「其方は主様の席ですから」と云い腰を下ろす気配は微塵もない。椿は直ぐに興味が失せ、手の中のカップの液体を減らすことに集中した。
すっかり飲み干すと、ゴンチャロフは茶器を片付け始める。その最中、椿にとってはある種の爆弾を落とした。
「主様は食事の際此方に伺うと」
「え、」
「それでは」
「待って待て待て待て」
ぐぎぎ、と閉じかけた扉に飛びつきこじ開ける。何でしょう、ときょとりとして上から見下ろすゴンチャロフに椿は「貴方は勿論その間居る?の?ねぇ?」と必死に詰め寄るが、「真逆。主様のお時間の邪魔は致しません」とぶった斬られ、ついでに扉も重い音を立てて閉められた。

そしてゴンチャロフの云った通り、ドストエフスキーは来た。部屋の隅に逃走する椿を土人形が捕まえソファに降ろし、対面にドストエフスキーが腰を下ろす。その間にテーブルに食事の用意が整えられると、ゴンチャロフと土人形は後ろ髪引く間もなく退室した。
くすくすと目前で笑い声が聞こえ椿はドストエフスキーを一瞥する。彼は幾らか軽装のようで、帽子も外套も羽織っていない。その上椿は明るい場所でこの男を目にしたのは初めてのような気がして、別人のような気さえした。

「ぼくよりも彼の方がお好きなようですね」
「……貴方に比べれば」
「ふふふ」

そう云って料理に手を付け始めるドストエフスキーをじっと見る椿に、男は「毒なんて入っていませんよ」と食事を勧めてきた。その言葉に漸くフォークに手を伸ばした椿は料理をつつき始める。
「よく似合っていますよ」
「…あれだけ寄越されたら選ぶのも大変。あと全部丈が長すぎる」
「では次の時は心得て置きましょう」
「私は貴方の着せ替え人形じゃない」
「愛でることは持ち主の特権です」
ポイと口に放った最後の一欠片を咀嚼する。互いに手を休めたタイミングで鉄の扉が鳴ったかと思うと、土人形が食器を片付け始め、代わりに茶器が整えられる。再び閉まった扉を凝視する椿に、ドストエフスキーは何でもない顔でカップに口をつけた。暫く沈黙がその場を埋めつくしていたが、一息つくとドストエフスキーが口を開いた。

「ゴンチャロフさんに、何故ぼくが貴女に固執するのか、と聞いたそうで」
「…ずっと分からなかった。貴方が如何して私を追うのか。私の周りを壊すのか。たかが一度会っただけ。私は貴方の恨むような事をした?」
「恨む? 何故そうなるのですか」

本当にわからない、という顔をするドストエフスキーに椿の思考は暫しの間停止した。何故、と云いたいのは此方の方だ。では恨みもなくこの男は私の周りを壊し、恐怖を植え付けてきたというのか。

「固執する理由、を聞きたいのでしたね」
「……そう」
「約束、ですからね。良いでしょう」

カチャリとカップを置くとドストエフスキーは立ち上がった。それにビクリと肩を跳ねさせると監視するようにドストエフスキーを見上げ、男が動く度その先へ視線を追わせる。コツ、コツという靴の音と共にドストエフスキーはゆっくりと積み上げるように話し始めた。

「貴女に逢ったのは、たかが一度、あの夜だけではありません。貴女が父親のマフィアを壊滅させた夜よりも前に、ぼくは貴女を見つけていました」
「! そんなの、知らない」
「ええ。貴女の視界にぼくは映りえなかったのですから、知る筈がありません…兎に角、貴女と逢ったのは一度ではないという所は、訂正しておきましょう」

椿が座るソファの背もたれのおうとつを指でなぞるように手を這わせ、ドストエフスキーは続けた。

「その日も、月が出ていました」
完璧な作戦の通りに進む退屈な夜。其所に全く予想もしない因子として貴女は現れた。標的の首を掻き切る、細い腕、乗り上げる小さな体。無辜の瞳とは裏腹に、貴女の周りを彩るその光景。力の限り突き刺し標的が息絶えたのを確認すると貴女は暫し空虚を眺めそしてまた次の標的を殺める。まるでその殺しに貴女の意思は無く貴女は透明なまま。最後の首を狩り獲って直ぐに夜闇に貴女が消えた後も言葉にし難い高揚がぼくの中にあった。

次第に酔いしれる様に加速していく言葉は恐怖すら感じさせた。矢っ張りこの男は可笑しい、と目を逸らした椿の腕を細い手が掴む。いつの間にか、自分の座るソファにドストエフスキーがその体を乗り上げていた。

「逸らさないでください」

無意識に息を呑む。

「ぼくは、貴女の瞳が好きです。射抜くような眼差しが向けられる度、息を忘れてしまいそうになるくらい。この手も、今迄どれほどの命を吸い尽くしてきたかも知れない罪に塗れたおぞましい手すら、ぼくは赦して差し上げます。ぼくには、貴女だけが可愛いのです。貴女なら目に入れても痛くありません。いいえ寧ろ、貴女の凡てを飲み下しぼくの中に隠してしまいたい。貴女をこの掌と目と舌で確かめたい」

明らか異常であった。並べられる言葉の数々は、まるで恨みとは程遠い色を孕んで椿に掛けられた。無機質に思えた紫の目の奥に、焦がれるような熱を見る。ハッと思考が弾ける。

「な、に…それ、貴方、」

私のことが好きなの、と云う椿にドストエフスキーの目が肯定するように細められる。震える唇が「そんなの、おかしい」と零した。

「私の周りを壊しておいて、“私が好き”? 有り得ない!」

そうだ、有り得ない。少なくとも自分の知る限り、こんな形の好意は認められない。許せない。

「揶揄うのもいい加減にしてッ!!!」

振り切って立ち上がった椿はドストエフスキーを睨みながら距離をとる。ドストエフスキーは微笑みを携え立ち上がると、椿へ近付いた。
来ないで、と牽制のように声を荒らげるとドストエフスキーが近付く度に自分も足を後退させる。
「矢っ張り貴方、嘘吐きよ」
「…嘘ではないと、ためしてみますか?」
大きく踏み出した足に椿も大きく後ろに後ずさった。
然しその拍子にツンとドレスの裾を踏み椿の体がぐらりと傾く。チラリと落下地点を確認した先は床ではなく、そのまま倒れ込んだ体を受け止めたのは柔らかな寝台であった。「だから丈が長いと……」と不貞腐りながら上体を起こす椿に影が掛かる。夜色の蚊帳が視界に落とされたかと思うと、直ぐそこに紫が見えた。
ぼやけるほど近い距離、呼吸のしずらさに漸く唇の感触に気付く。それが口付けであると分かれば、椿は直ぐに腕を振り上げようとした。然しそれを予期していたかのように腕を絡め取られ抱き込まれる。胸元を叩く程の抵抗しか椿には残されていなかった。
ぬるりと湿り気を帯びた感覚が唇を割って入ってくる。引いた後頭部を添えられた掌が押し付けるように引き戻し、舌が椿の口腔を侵した。

「、…っんぅ、う、」

出したくもないのに鼻に掛かったような女の声が口の間から洩れる。隙間なく密着した体は離れる気配が無く、寧ろ男は体重を掛け椿を寝台の上に押し倒した。

「ッ…ぁ、厭!」
「……疑っていたのは、貴女でしょう。それとも理解していただけましたか?」
「、も、わかった。わかったから」

泣き言のようにやめて、とドレスを引き摺り男の下から逃れる背中をドストエフスキーはうっそりと見詰めた。枕に顔を埋める椿は縋るようにそれを抱き締め震える体を誤魔化した。

「ぼくが貴女に向けるこれは、世間一般的な好意からは逸脱しています。然し敢えて言葉にするなら、これは呪いに程近い、好意でしょう」

ギシリ、と再び近付いた気配に身を固くする。肩をなぞる感覚に背中を冷たいものが駆け抜けていった。男の手はそのまま椿の項に掛かる髪を避け、包帯を避け、押し付けられた唇に椿の体がビクリと揺れる。次いでチクリとした痛みを首筋に感じ、頭がスウと冷えていく。

「また次に」

そう云い残してドストエフスキーが去った後、一人となった部屋で椿は「冗談じゃない」とシーツに身をくるませた。