悪魔は機嫌が良いらしい


今日も宝庫の扉はその中の宝の機嫌を表すように、来るものを全て拒むほどぴったりと口を閉じていた。その扉の鍵をひとつひとつ開ける音を聞き、椿は閉じていた瞳をぱちりと開く。肩まで掛けていたシーツを頭の上まで引き上げ所謂狸寝入りの体制に入った。
扉の開く重い音が響く。コツ、コツという足音が寝台に近付いてくる。
居る、そこに。
あの男の気配を感じる。

いつまでも顔を出さない椿に男は微かに笑った。もう目は覚めているだろうに、自分の相手をしたくないらしい。
然しそんな事はお構いなしに、男____ドストエフスキーは、盛り上がるシーツの起伏に手を伸ばした。

シーツを介して男の手が椿に触れる。初めは指の腹で、次は手のひらで包むように。ゾワゾワとした感覚が尾てい骨から登ってくる。肌が粟立つのを感じる。

暫くそうしていると手が叩き落とされた。見るとじとりとした視線と目が合う。

「おはようございます」
「…………」

何がおはようございますだ、とシーツから覗いた目が訴える。それにくつくつ笑うと、不機嫌そうな唸りが聞こえてきた。これでも椿の抵抗はマシになった方である。初めの頃はドストエフスキーが部屋に入った途端にかんしゃく玉の如く逃げ惑っていた。それが今や傍に寄られても狸寝入りを決め込む程には慣れ始めてきている……ドストエフスキーという男に対する諦めとも取れるが。

「食事の用意をしても?」
「………………いい」

それにどれだけ警戒していても腹は空く。
ドストエフスキーが居る方とは反対から寝台を降り、そのままいつもの1人掛けソファに腰を下ろした。
随分と慣れたものだと、椿の様子を見ていたドストエフスキーも対のソファへと進む。その間、じっと凝視する気配を辿ると他でもない彼女の目が此方に向けられていた。観察ほど生易しいものではない。監視のようなそれにドストエフスキーは首を傾げる。

「何でしょう?」
「別に」
「それ程見られては気になります」
「監視してるの。貴方が妙な真似しないか」
「…ふふ。成程。もっと近くで、見ても良いのですよ」
「寄るな」

フシャーッと毛を逆立てた猫のように威嚇する椿。手でも伸ばそうものなら引っ掻かれそうである。
そうしている内に運ばれてきた朝食に、各々手をつけ始める。ドストエフスキーは少食なのか、ある程度済ませると自分の皿のものを椿に差し出していた。椿は受け取るために皿を突き出したがドストエフスキーはフォークに刺したまま椿の目前に運んでくる。暫しの攻防の末、ドストエフスキーの手から運ばれる食事をしぶしぶ椿の口が受け入れた。まるで餌やりだ。これではこの男に飼われているようだと椿は口をもごもごと動かしながら考えていた。その様子をドストエフスキーは目を細め眺めている。

「…愉しそうね」
「そう見えますか」
「とっても」
「野良猫が漸く懐いてきたようで」

懐く?莫迦を云うものではない。そもそも貴方は鼠だろう、と云いたかったが、未だ椿の口はもごもごとせわしなかった。
咀嚼の後にこくりと喉を通過させる。

「油断させて丸呑みする気かもね」
「おや……ふふふ」

怖いですねえ、と頬杖をつきながら、ドストエフスキーは食後の紅茶のティーカップをくるくると回していた。
椿は知っている。監視されているのは自分の方だということを。今だけではない。この男は椿の部屋から離れたモニター室から、この基地にいる間は此方を四六時中監視しているのだ。椿は異能でその事を知った。そして椿も、この場所では眠る時以外は異能で基地を常時監視していた。
互いが互いを監視する奇妙な天秤の上、状況はドストエフスキーに傾いているようであったが、椿にとってはドストエフスキーが自分を監視している間が、ここでは最も安心できる時間でもあった。椿はドストエフスキーの作り上げたに、ただ閉じ込められるだけの生贄として来たつもりではなかった。この男の注意が自分に向いているうちは仲間に手は出せまいと、椿はこの男の興味が自分から逸れないように、異能でタイミングを図ってはドストエフスキーが基地から離れないよう仕向けていた。


「何か欲しいものはありますか?」
「貴方の首」

それはそれは、と椿の血みどろの要求にドストエフスキーの口角が上がる。椿の目はじっと男を注視していた。

「考えておきましょう」

えっと声をあげる前にドストエフスキーが立ち上がる。扉が開き、コツコツとブーツの踵の音が遠ざかっていった。ガコン、という扉の閉まる音の後に、カチャカチャガチャと鍵の閉まる音がする。
……怒った訳では無いだろう。

異能で確認したドストエフスキーの足はモニター室へ向かっている。よし、と椿は寝台に戻り、暇を潰すものを強請った際に与えられたチェスを広げ始めるのであった。







配線が床を埋め尽くす薄暗い部屋には、モニターに向かうドストエフスキーと、もうひとつの置物のような影だけが存在していた。室内を静寂が包む。然しそれを裂くように部屋の扉が勢いよく開かれた。

「ドス君ドス君!!さっき街中で初めてショクシツ?ってものをされちゃったよ!!!日本は不思議な国だねえ!!さてここでクイズ!私は何と答えたでしょう?!?!」

息継ぎの間もなく部屋に響いたのはドストエフスキーの同僚であるゴーゴリの声であった。と云うよりも、此処に訪れるのはゴーゴリ以外に考えられなかった為、予想通りの彼の登場にドストエフスキーはひとつも驚いた様子なく、「何と答えたのですか?」とモニターに視線を向けたまま問いかける。
ゴーゴリはパタパタと外套を翻しながら室内に歩を進めた。

「いやね、ドス君。日本のケイサツってみいんな詰まらなさそうな顔をしているものだからさ。私は道化師らしく笑顔にしてあげようと思ったわけだよ」
「すごいですね」
「照れるね〜〜!!!!いやまだ何も話してないのだけど?!?!!」

ドス君ってば!とゴーゴリがモニターを覗き込むと、そこにはある部屋が映っていた。

「…おや。何処かと思えば。彼女はあれから変わりないのかい?」
「ええ」

モニターを眺めるドストエフスキーをゴーゴリが見る。うっとりという言葉が似合いの横顔に、ゴーゴリはやれやれと肩を竦めた。モニターに映っているのは椿の居る部屋だ。

ゴーゴリは幾度となくドストエフスキーから彼女の話を聞いてきたが、それから類推するに彼は彼女には些か以上に甘く、彼女のどんな我儘も聞いてしまうのではないかという杞憂が、僅かながらゴーゴリの胸中に存在していた。話に聞く限り相当彼女は彼が嫌いらしい。そのうち彼女の口からドストエフスキーの命が要求されても可笑しくはない。その時は喜んで彼女の手に彼手ずから短剣でも握らせそうである。
背後でうんうんと唸るゴーゴリの様子にドストエフスキーはくすくすと小さく笑い、次に「ところで、ゴーゴリさん」と口を開いた。

「彼女の次のお願いはぼくの首だそうで。それ程ぼくと共に居たいと考えてくださっているようです」

もうやっていた。しかも検討中と来た。
恋は盲目、曇り硝子である。先程浮かんだ考えが過ぎりゴーゴリは即刻「絶対だめだからね?!!ドス君?!!!」と詰め寄った。「…? いえ、彼女にはゴンチャロフさん手製の人形を与えてみようかと考えていたところです」…それはそれで呪いの触媒にでもされそうである。
抑えられない呆れを声に滲ませながらゴーゴリはドストエフスキーの座る椅子の背もたれにのしかかった。

「あのねえドス君。彼女もただ大人しく弱いだけの一介の女じゃないんだよ。裏社会、ポートマフィアに名を連ねる月の女なのだから、もう少し厳重に、手足を鎖に繋ぐくらいしても妥当だろう? …いっそ、彼女も“彼”のようにしてしまえばいい」

ゴーゴリは背後に直立する置物のような影の“彼”をチラと見る。聞こえるか聞こえないかほどの声で、彼は譫言のように繰り返し何かを呟いていた。
ドストエフスキーはゴーゴリを一瞥して口を開く。

「約束は約束ですから」
「いざ約束を破られてもドス君は彼女を赦しそうだなぁ」
「いいえ」

「赦しませんよ。その時はぼくも彼女の大切なものを壊します。そういうです」

変わらずモニターを見たままに答えたドストエフスキーの顔はモニターの青白い光が反射し、人には到底見えなかった。目をパチリと瞬かせるゴーゴリの背中をゾクリと何かが走り去る。

「成程。でも事が起こってからじゃ遅いんじゃない? 何だか色々と嗅ぎ回られているみたいだからね」
「彼女を甘く見ているつもりはありませんよ、ゴーゴリさん。心配してくださるのは有難いですが、ぼくには不要です。彼女のことなら、ぼくが一番よく知っている」
「…」

何を云っても返ってくるのはそれ以上の進言を許さない言葉だった。どうやら自分が思っているよりも彼女にご執心らしい、とゴーゴリは押し黙る。するとドストエフスキーはガタリと席を立った。

「少々出ます。折角来て頂きましたが」
「お出掛けかい? それは残念」

スタスタと扉へ向かうドストエフスキーの背を見送る。把手を捻ったところで、ドストエフスキーが振り返った。

「嗚呼、そうだ。ゴーゴリさん。もし彼女が、手を貸して差し上げてください」

そう云い残し、扉が完全に閉まった所で、ゴーゴリはモニターに視線を落とした。