ユダの教示
食事をドストエフスキーの手から摂るという悪夢のような朝食の後、椿の許には着替えの為にゴンチャロフが訪れていた。気配もなく扉の前に現れた為にチェス盤をひっくり返し、そのまま床にはチェス駒が転がっている。ドレッサーに向かう椿の足元では小さな土人形がそれらを拾い集めていた。
初日は引き摺るほど丈が長いドレスを寄越されたが、今椿が身に付けているのは膝下丈程のワンピースだ。丈が長すぎる、とドストエフスキーへ愚痴を垂れたその次の日から、ゴンチャロフが着替えの為に持ってきたドレスは、椿の杞憂の種であった丈がさっぱりと解消されていたのである。
(…相変わらず色は白のままだけど)
初めは、立場としては虜囚である椿の我儘を聞いて、願いを叶えるなんて物好きだと思った。あの男の言動には理解できないことなど多々あるが、その中でも上位にくい込む。然し紐解けば簡単なことだった。
あの男は____ドストエフスキーは、私の事を好いているという。
肉親を殺し、仲間を奪い、一体何の恨みがあるのかと箱をひっくり返せば単純で複雑な感情に行き着いた。ケロリと突きつけられたそれに狼狽したが、結局は私があの男を憎いと思っていることは変わらない。「精々尽くして貰おうじゃないか。受け取りはしないけど」のスタンスで椿のドストエフスキーへの地味な抵抗は今日まで続いていた。我儘もその一つである。
然し現在、ドストエフスキーは椿の殆どの我儘を遂行し、最後には厭な笑みで「これで満足ですか?」と聞いてくるのである。満足なわけがない、と次に出す我儘もあの男は受け入れ、我儘を云う度に薄らと目を細めて嬉しそうに笑うのだ。喜ばせるために我儘を云っている訳では無い。
椿は早くもドストエフスキーへの我儘という名の抵抗の失敗を悟り始めている。今朝は勢い余って「首」と云ってしまったが、一体どんな形で実現されるのか。それこそ、あの男が短剣片手に部屋に来ないことを祈るばかりである。
椿の視界の端で白と黒が交差する。土人形が駒を集め終わったらしい。椿の白い指先がチェス盤へと伸びた。
まずは、白の先手。
チェスはゲームであると同時に「スポーツ」でも「芸術」でも「科学」でもある。ゲームに勝つためにはこれらのセンスを総合する能力が必要だと、いつか誰かが云っていた。そんな事を椿に教える人間は限られている。鴎外か、或いは。
鏡に映った自身の首元を見た。新しく替えたものの、包帯は未だ椿の首に巻かれている。ちらりと浮かんだ人影を掻き消すように頭を振った。
「其方は外さないのですか?」
「いい。このまま」
「かしこまりました。では、」
「失礼します」と云って土人形たちと共に部屋を出ていくゴンチャロフ。本当に気配のない男だ。
異能を見ると既に扉の外にゴンチャロフの姿はない。扉の向こうに広がる箱庭の領域で陣地を索敵する。何度も行った索敵で基地の大体の動きは掴めていた。この基地は土壁に覆われた、規則的な形の地下。直線的な通路には特に目立った仕掛け等はなく、監視カメラと呼応するセンサーのみの、基地としては丸裸同然。椿の居る部屋とドストエフスキーの普段過ごしているモニター室以外はお粗末な作りだ。
一体何処に、と探すと、ゴンチャロフはもう自室で手製のドストエフスキー人形に恍惚としていた。いつも通り見なかったことにして、ドストエフスキーの居るモニター室を覗こうとする。
然し丁度、モニター室へ目を向けようとしたその時だった。
「ハーハハハ!!!ご機嫌いかが?!私が来たよ!ゴーーーーゴリだ!ハハハハ ぶっ!」
「失せろ地の果てまで」
ボスッ。音を立ててゴーゴリの顔に枕が着地する。
虚空から突然出てきた道化師にほぼ反射で手近にあった枕を投げつけた。柔らかい為痛くはないだろう。
ころりと転がった枕を見て暫し2人の間に沈黙が降りる。
「…成程。これが日本のマクラナゲだねッ?!」
よォし!私も!と、ゴーゴリが外套に手を突っ込む。バッと開いた次の瞬間、椿の頭上にボトボトトッと幾つかの枕が落ちてきた。途端枕に埋もれた椿は言葉もなくゴーゴリを凝視する。
そして一言「これじゃ“投げ”てない」と云い、落ちてきたひとつを掴み、大きく振りかぶった。
死の家 夏の陣。
激闘の末、異能によって集めた枕を繰り返し降らせ続けたゴーゴリの勝利となった。
項垂れるような体制の椿にゴーゴリは「そんなに悔しかった?」と近付く。椿は体を持ち上げず、顔だけ向いてキッと睨むと口を開いた。
「別に悔しいんじゃない。体がだるいの」
おそらくは運動不足だ、と続ける椿にゴーゴリは「運動できてよかったね!」と云う。全く良くない。
「まぁこんな所に閉じ込められてるんじゃ運動不足にもなるよねえ」
「気安い。私貴方のこと嫌いなの。話しかけないで」
「熱く枕を投げ合った仲じゃない」
「貴方のは投げてないでしょ」
あれを“投げる”にはカウントしない、と椿は断固とした態度である。
「厳しいなぁ。折角暇を持て余す君の話し相手になろうと来たのに」
「頼んでない」
「さて何の話からしようか〜!」
聞け。そして出てけ、と悪態を付くがゴーゴリに去る気配はない。ならば、と負けじと無視を決め込み視線を男から外す。先程の枕投げで再びバラバラになった哀れなチェス駒達が床で白も黒も関係なく踊っていた。
ゴーゴリはひょいひょいとそれらを躱して椿の居る寝台の天蓋の下へ滑り込む。然し椿が無視していることに気付くと、ゴーゴリはふむ、と暫し思案して、バサリと外套を仰々しく翻した。まるでこれからショウの始まりでも告げるかのように。
「ここから出してあげよう!」
「…態と逃がすフリで痛めつける気」
「ハハ! 真逆! 素直な親切心さ。君が自由を求めるなら、私は少なからず共感するし同情するもの」
「同情されるほど落ちぶれてないし貴方の助けは必要ない」
「ふうん」
「私はまだ諦めてない」
「君が諦めようとなかろうと今この状況は1ミリも変わらないよ。私に応じなければね」
そう話すゴーゴリに椿はピクリと片眉を上げる。「それで?」と挑発的に口を開くとゴーゴリはにこりと口に笑みを作り「だから君を自由にしてあげよう」と続け、ひらりと寝台から降りると背後の鉄の扉を手品師のようにするりと撫でる。すると扉はいとも簡単に、然し重い音をたてて開いた。
ゴーゴリの目が促すように椿を捉える。
君はドス君が居なくちゃ生きていけない。この部屋で管理されている君はドス君に飼われているも同然だ。ドス君が君に生活の要素全てを与えているということは、逆に云えば君は生活の要素全てを奪われているということだ。
君は鳥籠の中の鳥だということを自覚していない。自分の不自由を自覚していない。然ししないまま、自由に向かって行こうとする。自分を愛す人を置いて、尽くした者を裏切って。なんて強情で傲慢だ。
私は君が羨ましい。せめて憎き敵に逃がされて、それが君のみの力で得た自由ではなくなってしまえばいい。
「何か企んでる」
「何も! ほらこんなチャンス滅多にないよ? ドス君も居ないし?」
「!! 居ない?」
じとりと視線を寄越していた椿だったが、ゴーゴリのその一言でハッと目を見開いた。直ぐに箱庭をモニター室へと伸ばす。そこを見ると既にもぬけの殻だった。グラグラと頭が揺れるような感覚がする。
此奴に気を取られている間にあの男が基地を出た。何をしに行ったかは分からないが万が一がある。はやく連れ戻さなければ。
然しドストエフスキーは既に基地の外へ出ている。箱庭の範囲外に出てしまっては操作もできない。どうやって、仲間を守る。どうすれば。
ふと顔を上げるとゴーゴリのにまりと吊り上がった三日月と、その奥で口を開けた扉が目に入る。
ぐっと奥歯を噛むと、一目散に椿はゴーゴリの脇を抜けて部屋から駆け出した。薄暗い地下の闇の中へ白が呑まれていく。
「それすらも思惑の内だと知らない君が羨ましいよ」
そうほくそ笑むゴーゴリの言葉は、ついぞ届かないまま。椿は手招く闇の中へと完全に姿を消した。