ミドルゲーム
「困ったひとですね」
その言葉に、いつもなら飛んでくる憎まれ口は閉ざされていた。
ドストエフスキーは目の前で伏す影に一歩、また一歩と近づく。己が贈った純潔なる白は所々土埃に塗れ、四肢は死骸のごとく投げ出されていた。脇腹に腕を差し込み抱き上げると、鬱蒼とした眼がゆっくりと蠢き此方を捉える。瞼の上の眉は心なしか顰められて見えた。
額に張り付いた乱れ髪を避けてやる。顔の色は飽くまで白く、細い首から連なる頭は重力に従い力なく垂れ、薄く開いた色褪せた唇からは息が浅く短い間隔で吐き出されていた。
「…ぁ、う…」
彼女の痺れた舌先からは、意味の無い音が零れた。縋るように伸びてきた手を取ると、それはひやりと冷たかった。
時は数刻前に遡る。
地下の湿った土埃を湛えた風が椿の肌をゆっくりと撫でる。四方を土壁に囲まれたそこは薄暗く、灯りの導きなくしては迷わずに進めないだろう。椿の白かった靴は土埃で汚れ、既に元の面影もなかった。
先程の誘導じみたゴーゴリの話を怪訝に思いながら、椿は外への出口を探していた。然しいくら探しても土壁が続くばかりで、光が見つかる気配は一向にない。
(……おかしい。同じ場所をぐるぐる回っている気がする)
あの部屋から見た時と体感するのとでは違うというのか? そんな筈はない。迷うほどの規模では無かったし、この地下は至って単純な作りだった。
然し、先程から妙な気配は感じていた。チラリと土壁に設置された監視カメラを見る。もう随分歩き回ったのだから気づいていない筈がないのに、誰も何も云わない。ゴーゴリは無視するとして、あのドストエフスキーを崇拝するゴンチャロフが黙っているわけが無いのに。それほど私が出られる筈がないと高を括っているのだろうか。それとも既に手は打たれているというのか。
フイと監視カメラから目を逸らして四角い通路を進む。椿の後を監視カメラのレンズが逸らされることなく追っていた。
暫く通路を進むと、漸く通路の先に扉が現れた。僅かに開いた扉から光が溢れ、薄暗い地下を仄かに照らしている。然しそれは、希望ではなかった。
重い扉に手を掛け中を見る。
そこは、先程椿が飛び出した筈の部屋であった。
部屋の寝台に腰を下ろしていたゴーゴリが此方に気が付くと「やぁ、おかえり」とにまりと笑った。その顔を見て矢張り先に手は打たれていたのだと察した椿は苛立ちを含ませた声で「何がおかえりよ」と口を開いた。
「あるべき場所に帰ってきたのだから、おかえりだろう?」
「自分から帰ったわけじゃない。何なの此処は。私はこの部屋を出て一本道を歩いていたのに」
その間、此処以外に扉は見つからなかった。
つまりぐるりと回って何処かで元の道に戻ってしまったということだ。
「この基地はこんな構造じゃなかった筈」
「おやまぁ! 悪い子だね、そんな事も知っているんだ。ふふ、困っているかい?」
「………」
椿の無言を肯定と受け取ると、ゴーゴリは「それじゃあ助言をしてあげよう」と足を組み直して椿へ視線をやった。
「この地下はね、“生きて”いるんだよ」
「…、……生きてる?ただの土が?」
「ハハハッ!そうだね、土だ! 然しそのただの土が君の自由を制限する檻ということだね。君は自由に歩き回れるのに、実の所は自由ではない。面白いねえ、此処は。まるで人間の縮図だ。そういえば、神は地面の土を使って人間を創ったらしいね。つまり、人間は地面の土から創られ死ぬと地面の土に帰るのではなく、実際はその成分を取り入れているということになる」
「それが助言? 土を人間として見ろってこと?」
「他者を操る方法は幾つかあるさ。例えば情報、例えば洗脳、拷問、思考」
「土に思考は無いわ。私現実主義なの」
「君は知っているし、今までもやってきただろ? 最も、君のそれは反則的なまでの強制力だけれど。ある種拷問に近いよねえ」
ゴーゴリの云うことはあくまで人間に対して、だ。心当たりはある。私の異能の事を言っているのだ。
「君、外に出てから異能を使った?」
「!」
見てみろ、ということか。
云われた通りにするのは癪だがこの状況でそれ以外に方法はない。「…『箱庭』」足元から箱庭の領域が広がる。扉の向こう、通路を辿った先で何かが蠢く。見たものに椿の目はハッと見開かれた。
動いている。鼓動するように、土壁がその凹凸を波打たせ、まるで生きているかのように。
蠢いた土壁は、先程まで通路であったその穴を塞ぎ、四方までピッタリと埋めると動かなくなった。代わりに生まれた穴は新たな通路に姿を変えた。そうして幾つかの土壁が動き、全てが静止すると外は椿が何度も見た元の基地の形へと戻っていた。
椿は全て理解した。
「ゴンチャロフの異能ね」
「ご名答」
生きものではない土の向こうで、生きた者がその土を操っているのなら話は早い。ここから先は慣れた手口だ。土を体の四肢とするなら、それを操る脳を潰せば良い。
ざっと思案して椿は仕切り直すように部屋の一人掛けのソファの一脚に腰を下ろした。
「喉乾いた」
「…では、私が彼に伝えよう」
そう云うとゴーゴリは寝台を立ち、バサりと音を立て忽然と消えた。これがあの男の異能だろう。マントとどこか別の場所を繋げるものだ。椿もあれによってマフィアビルから落ちるところを引っ張り込まれた。人が一人二人居てもあの異能があればビルからビルへ、部屋から部屋への移動は容易い。つまりあの男が、椿が此処に来た時のようにマントで外へ直接脱出の手助けをしないところを見るに─────矢張り、これは、最初から手助けでも親切でもない。
椿はゴーゴリの消えた寝台をキッと睨みつけた。
▽
漸く彼女が金庫へ戻った。
ゴンチャロフはこの基地では所謂厨房と呼べる場所で、食器を片付ける片手間椿の脱走の足止めをしていた。
主であるドストエフスキーの言伝は「外にさえ出なければ、彼女の好きなように」であったが、彼女が金庫の“外”へ、それも彼の同僚であるゴーゴリの手を借りて出た時は流石のゴンチャロフもその眉間に皺を寄せた。土壁に囲まれたこの基地はある程度ゴンチャロフの手中であったが、未だ主に対して態度を改めない彼女が好きに出歩くことをゴンチャロフは良しとしなかったのだ。
磨き終えた食器を順当に並べ、ゴンチャロフは小首を傾げる。そこには、朝と云うには遅い食事の際に使用した食器がある筈であったが、ナイフが1本無くなっていた。
「……………………………」
ゴンチャロフの頭に2人の者の顔が浮かぶ。思考を巡らすゴンチャロフの背後で、バサリとマントが鳴った。其方に視線をやれば、ゴーゴリがいつものようにその目を弓形にして笑っていた。
「彼女がお茶をご所望らしいよ! 歩き回って疲れてしまったんだねえ」
ゴンチャロフが「かしこまりました」と目を細めると、ゴーゴリは「そう怒らないでよ」と肩を竦めてみせた。
「私だってドス君に云われたことをしただけなんだからさ」
主様は一体何をお考えなのだろうか。
一度浮かんだそれに否、と頭を振る。主様のされることに疑問を持つのは幸福に程遠い愚かな者のすることだ。主様の考えを疑う者は皆例外なく思考の穴へと誘われる。
幸福な自分はただ主様にお仕えすれば良いのだ。
茶器を揃えたカートを押し、椿の居る部屋へと向かう。ゴンゴンと重いノックが響くと、程なくして「入っていいわ」と中から彼女の声が聞こえた。
「お身体の具合は如何ですか?」
朱色の揺れるティーカップが彼女の前に置かれる。椿は此方をちらりと見ると足を組みかえ「ご覧の通りくたくた」と答えた。彼女は紅茶を飲む前に「あ」と思い出したように口を開いた。
「そういえばさっき、何かがつま先に当たってベッドの下まで行ってしまったのだけど」
そう云った彼女にゴンチャロフの視線が大きな寝台の下へと注がれる。
探せと。
足りないナイフが頭をよぎる。
ゴンチャロフは無言で寝台に近付いた。たっぷりと見回した後、寝台の下に転がった何かに手を伸ばし、指先に当たったそれを引き寄せる。
拾ったそれは、白のルークだった。
「ああ、そんな所にあったの」
背後から椿の声が聞こえる。つい先程食えない道化師に脅かされてぶちまけたのだと云う。「これでチェスが出来る」と心なしか満足そうな彼女にゴンチャロフはフゥと息を吐いた。悪い予感は気の所為であったらしい。
「貴方はチェスならルークでしょうね」
突然、彼女の声が降り掛かった。
「そしてあの男はキング。私はクイーンに置かれているでしょうね」「クイーンはルークと同じ大駒。どこへだって行ける。どんな駒も取れる。でもそれは動ける場合のみ」
肩に柔いものが触れた。彼女の手だと理解するのに時間はかからなかった。自身の手の中からルークを取り上げる椿の声に耳を傾ける。跪いたままの体制で彼女の体重がより掛けられる。
「私が白のクイーンなら、こんな所に閉じ込めておくのは得策じゃないわ」
彼女の云わんとしていることが分かった。つまりはここから出せという事だろう。然しそれは承諾できない。いくら椿がクイーンであっても、主たるキングがそれを許さない。
「どうせあの男の事だから先手は打っているんでしょう?」
そうだ、主様は既に“計画”を始めている。主様の用意したこの箱の中の彼女は知らない。然し勘づいてはいたようだ。あの男が何もしないわけがない。何らかの形で動き出していることに。
「私は“黒”のクイーン。何処へでも行けるの。敵陣でも、何処へでも」
「今度は私の番」