ミドルゲーム


ズク、という鈍い音が、体内から響いた気がした。

ゴンチャロフは一瞬にして重みを増した体の違和感と、背後に立つ気配に体を向けようとした。然し向こうとした体は、地に這いつくばることしかできなかった。

「まだ動くの?」

見上げた精神だ。否、忠誠心? 信仰心の方が此奴にはしっくりくる。
などと考えている間にも、下からゴンチャロフの呻きが聞こえる。その曲がった背には、深々とナイフが刺さっていた。
肝臓が損傷した場合、死亡にかかる時間は約5分。凡そ1分で意識不明になる筈だが驚異の精神力でゴンチャロフは未だ意識を保っていた。即死を狙えるのは心臓だが、食器では刃渡りに心配が残る。肝臓は角度さえ掴めば良い。さあ刺してくれ、と云わんばかりの低い体制とがら空きの背中に、椿は隠し持っていた凶器を突き立てたのだ。

「死ぬにはまだかかりそう? 気絶でもいいんだけど」
「…っふ、私を、始末して……主様から逃げる心算ですか」

然し、主様の漸く手に入れた宝をみすみす逃がすわけには行きません、と見上げたゴンチャロフの目が椿と合う。体は苦痛に歪んでいる筈であったが、不気味にもその顔には未だ貼り付けられた笑みがあった。歪に吊り上げられたその口角にゾ、と背中に悪寒が走る。

異能を発動しようとしたゴンチャロフとほぼ同時に、その目前に椿の長い脚がすらりと晒された。勢いよく凪ぎ払われた脚に次の瞬間、ゴキッ!と音を立てゴンチャロフの体は宙で回転する。スタリと着地し彼を見れば、今度こそ地に転がることになったゴンチャロフに最早生死の確認など不要であった。

「……逃げる? 真逆。貴方の鬱陶しい話に飽きただけよ」

危なかった。此奴の意識があるうちは外の土壁が操られるのだから長話なんてしている暇はなかった。ひと仕事終えたように手を叩き、ふいと足先を外への扉へ向け、異能で基地を確認する。変わったところは見られない為ほっと息を吐き出す。どうやら異能発動に間に合ったようだ。

残っていた紅茶はちょうど温くなっていた。渇いた舌先を潤すためにカップを傾ける。それでも渇きは癒されない。どころか、椿の視界は先程からぐるぐると渦巻いていた。
そろそろだ、と体が告げる。
椿は自由な足取りで扉の外へ出た。


途端、ずぐりとぬかるんだ地面が足を取る。

「ッな、彼奴…!!」

まだ生きてるのかと、先程ゴンチャロフが横たわっていた場所へ驚嘆の視線を向ける。
呑み込まれる前に目にしたのは、服を着た土塊だった。

嗚呼、そういえば。鉄の臭いがしなかったのは








「困った人ですね」

痺れた舌先ではどんな罵詈雑言も譫言に消える。代わりに睨み上げると、ドストエフスキーはにこりと微笑んだ。もう椿にはこの男をはっ倒す力も腕を振り払う気力も残されていない。

「部屋で過ごす分には、貴女の体に回りきらない程度の毒でした。それは貴女も分かっていたでしょう? 体を動かせばその分巡りは早まります。ゴンチャロフさんも壊してしまって、ぼくが来なかったら、どうする積りだったのですか?」

嗚呼、喋れないのでしたね。そう云って、ドストエフスキーは椿を抱え地下を歩き出す。今日だけで何度繰り返すのか、椿は元の部屋に戻された。歩みをそのままにドストエフスキーはソファへと椿を下ろす。母の腕に抱かれた赤子のように大人しい椿の顔は、日の下で見るとより一層その血色の悪さが浮き上がるようであった。ソファに凭れる姿は非力な少女と大差なく、氷のような瞳さえ今は光が朧気となっている。然し目に見えて限界が近い彼女だったが、決して『助けて』とは口にしなかった。最初に此方に手を伸ばしたのは彼女であったが、最後の強情が椿の口を閉ざしていた。
仕方ない、とでも云うように目を伏せた後、ドストエフスキーは外套の内ポケットを探った。出てきたのは小瓶だった。これは元々だ。然し今この状態の彼女をそのままにしておく訳にもいかないだろうと、瓶の口を自身に傾け、分け与えるように椿へとそれを移した。

こくりと喉が動くのを確認して口を離す。少しすれば乱れていた呼吸がましになった。残りはまた後で飲ませれば良いだろう。
ふと、ドストエフスキーは部屋を見回し、目にとまった塊へ足を向けた。その床に伏していたのは、先程までゴンチャロフだった土塊。シワひとつないシャツの袖口からはさらさらと砂が流れ出ている。背中に刺さっていた食事用ナイフを抜く。途端、歪に人の形を保っていた土塊は、決壊したかのように砂化し床へ広がった。その砂の中から、彼の喉の役割を担っていた拡声器を拾い上げる。内部に砂が入ってしまったのか、それは既にうんともすんとも云わなくなっていた。
崩れた砂の傍らから、横たわる椿へと視線を移す。

「……何故、マフィアの為にそこまでするのでしょうか?」

ドストエフスキーが投げかけたのは対話を目的としない問いだった。
椿の異能は便利だが、無尽蔵にいつまでも使える訳では無い。此方に連れてきてから彼女は敵陣でもあるため十分な休息もとっていない。恐らく彼女は異能をいつもの調子で使うことは出来なかっただろう。加えて毒を仕込まれていることは知っていただろうに、それでも。

彼女はドストエフスキーの考えうる可能性の中の、低い方を選んでは進んでいた。それ程までに現在、彼女が巣としているポートマフィアが大切なのだろう。
絡め取られると知っていて、それでも足掻く。歪に踊るワルツは彼女の身を削り、追い詰めていた。

「貴女はずっと、ぼくの手の中で踊り続けていればよかったのに」

跪くように、彼女の居るソファへ近付く。
唇を椿の額に寄せる。薄い皮膚の上を滑るように触れ合わせ、小さな啄みが下へと繰り返された。ドストエフスキーの髪が頬にかかり、鼻先が触れ合う。濃い紫の瞳が見詰める先の瞼は死んだように閉ざされたまま、然し確りと息はしているようで形の良い唇からは小さな呼吸が零れていた。
ひたりとした視線を向けながら「ああ、そうでした」とドストエフスキーが口を開く。

「貴女は、その生き方しか知らないのでしたね」

「矢張り貴女を救って差し上げられるのは、ぼくしか居ない」先程とは違う意味の触れ合いを交わそうとした。然しその矢先、ドストエフスキーの口は何かによって塞がれた。

「どういうこと」

塞いでいたのはいつの間にか滑り込んだ椿の手のひらであった。閉じていた筈の瞳が此方に向けられる。
押し退ける手に一旦顔を離すと、椿はのろのろとドストエフスキーと距離を置こうとした。然し直ぐに背もたれに阻まれ椿はきゅっと渋い顔をした。

「……どういうこと、とは?」

誤魔化すな、と椿の眼光が鋭くドストエフスキーを捉える。お前に私の何がわかる。そう云いたげな椿に応えるように、ドストエフスキーはふっと口元を緩めた。まるで全てを見透かし、知っているかのように。

「誰かを守るために生きてきた貴女は、誰かを守るためにしか生きることができない。生まれた時からそういう性質なのです。それをマフィア…あの男に、利用されているのですよ」

下から伸びる手がさら、と髪を掬う。此処に来てから着実に重ねられているストレスと、いつもの中也のケアもないため、椿の色素の薄い髪はいつもの輝きがなかった。それでもドストエフスキーは、まるで宝物にでも触れるかのように扱った。

「その呪縛はいずれ貴女の身を滅ぼします」

祈りを捧げるかのように髪へ接吻を落とす目の前の男に、椿は不快の感情を隠しもせず見下ろす。

「…呪縛? 縛っているのは貴方の方でしょ」
「ふふ。いいえ? ぼくはできうる限り貴女の自由に協力していますよ。貴女は、気付いていないのです。気付かないように、思考を操られている」

そんなことは無い。そう思うのに、何故だかこの男の声は、言葉は、それこそ洗脳のように鼓膜を通って頭を埋めていくのだ。

「幼い貴女はポートマフィアに引き取られ、その首領である森鴎外と一年間同じ時を過ごしましたね。その一年は、教育の為の期間ではありません。貴女を逃がさない為の洗脳期間です。貴女は幼い刷り込みによって騙され続けている。あの男は、危険です」

髪から離れた手が、今度は椿の頬を捕らえる。

「……お可哀想に。今まで誰も教えて下さらなかったのでしょう。貴女が知りたがると都合が悪いから、あの男は予め与える必要のある分だけを与え、貴女から知を求める心すら奪ったのです」

ドストエフスキーの両の手が、包み込むように椿を閉じ込めた。突き合わされた顔は然りと固定され逸らすことができない。妖しく紫を灯した瞳が暗示のような言葉と共に降り注ぎ、無意識に息を呑んだ。
逃げたいのに、体が云うことを聞かない。体中の毛穴から冷や汗が噴き出す。耳を塞ぎたいのに、この男の言葉から気を逸らしたいのに、この男の手が邪魔で全ての言葉を鮮明に拾ってしまう。

「然し、ぼくは違います。貴女が望むものは何でも差し上げます。貴女が知りたいなら、何でも教えてあげましょう。人の体の裏側が知りたいというなら、ぼくの身を切り開いても構いません。…ですから、ねえ、椿。貴女はあの場所に────ポートマフィアに戻ることなどないのです。いえ寧ろ、戻るべきではありません。あの場所に居ては貴女が曇ってしまう。貴女が本当にしたい事は何なのですか?」


本当にしたいことなど決まっている。
この男に、もう母や祖母のようなことは起こさせない。異能を制御できるようになった。もう私はあの時とは違う。
もう、


「………嗚呼、嗚呼、矢張り。貴女は思い違いをしている」

ドストエフスキーは真意の読めない笑いを口元に携え、椿の決意を嗤うように云った。


「ここでひとつの真実を、教えて差し上げます」


「異能を制御できるようになったから、何だと云うのでしょう? それで貴女の罪は消えるのでしょうか?……答えは否です。罪は罰によってしか慰めることはできません」
「ッはな、せ! そんな話っ聞きたくない!!」

男の語り口に、突如椿はバタバタと手足を振り乱し男から距離を取ろうとした。然し男の手が此方の腕を体を絡めとり、寧ろソファと男の間という、より強固な檻の中へと閉じ込められる。
ガチガチと歯が鳴るのも男から目が離せないのも、体全てが怯えているからだった。目の前の口から放たれる言葉に、また何かを壊される予兆を感じる。

「では、貴女の罪とは何でしょう。母を救えなかったことでしょうか、祖母を守れなかったことでしょうか。ふふ、残念ながら、どちらも違います。では、父親の許で、ポートマフィアで、あまたの人々を殺したことでしょうか。……これも違います」


「貴女の罪は、父親殺しです」


「………………な、ん」
「何故? 簡単です。それが貴女の意思で行われた最初の殺人だからです。最初の殺人は、この地上で何よりも罪深い。カインとアベルのように。一度でも純白の地を穢せば元には戻りません」

「貴女は物事を考えているようで、その実は何も知らないままなのです。何も。自分が侵した罪にすら、曇った眼に縛られた貴女では気付くことができない」

「今一度、よく考えてみてください。貴女は本当に望んでそこに居るのか、貴女の望みは何なのか。…若し、貴女が望むのであれば、勿論ぼくは協力しますよ。ポートマフィアでなくとも、貴女の望みは叶えられる。ぼくはその方法を知っています」


「─────…だから貴方の許に来いと云うの? 昔も今も、貴方の為に踊っているつもりはないわ」

然し、椿の頭はかつて無い程鮮明に、暗幕に隠された物々を照らし出されたような気分だった。
もう手足を乱し男の言葉を遮ろうとは思わなかった。厭に体が冷え、先程の言葉が頭の中で反響していた。