高潔なる死


ぱち、と白い天蓋が目に入る。ある時分からぷっつりと記憶が黒く塗りつぶされている。恐らく気絶してからそう時間は経っていないだろう。
上体を起こそうと力を入れた手にズキ、と痛みが走った。見れば僅かに血の滲んだ包帯が、手のひらに丁寧に巻かれている。もう片方は腕に。それを見て、気絶する前のことをぼんやりと思い出した。

「ゴーゴリ…ッ!」
「…それは少々、妬けますね」

ハッとして声の方へ顔を向けた。そこに居たのは、ゴーゴリではなくドストエフスキーだった。椿は何となく気まずいものを感じてきゅうと口を噤む。その顔は初めて見ましたと、ドストエフスキーは目尻を下げた。…笑っている筈なのに、何処か寒気がする男だ。

ドストエフスキーは椿の寝かされていた寝台に腰を下ろすと、包帯の手を取った。自然な流れで行われたそれに反応が遅れ、大人しく手のひらを男に見せる形になってしまう。じっと観察されむず痒さすら感じる。

「痛みますか?」
「………………少しだけ。や、嘘っ痛ッ痛い!」
「ふふふ」

此奴、傷があると知っていて手のひらを押しやがった。ブン!と腕を振ってこの暴漢から自身の手を救出する。「酷い傷でしたからねぇ」と云うドストエフスキーに、「…貴方が巻いたの?」と素朴な疑問を投げ掛けると肯定が返ってくる。次にドストエフスキーは、その瞳をじっと此方へ向けてきた。…何なんだ。

「此方の諺では隣の花は赤い、でしたか? どうやらぼくにとっては違ったようです。ぼくの手の中にいる貴女は、この世のなによりもうつくしく感じられます」
「………もう手に入れた積もりなのね。生憎だけど、現時点、貴方の事はまだ信用してない」

精一杯の虚勢を張った椿に、ドストエフスキーは笑みを深めた。その様子に、虚勢だということがバレているのだと気付くも、今更ころりと意地を解いて、というのも今までの自分を簡単に否定してしまえるようで嫌だった。ドストエフスキーも、それはわかっていた。だからこそ、固く閉じた彼女の心を、ひとつひとつ、紐解いてやる必要がある。努めて穏やかに、無害そうな顔と声で、ドストエフスキーは彼女の結び目に手を伸ばした。

「ふむ…? それは残念です。然し貴女の中で、マフィアとの折り合いはついたと考えていたのですが…理由をお聞きしても?」


「__…私を美しいと云ったのは貴方で3人目」



「みんな私の前から消えたわ。それで分かったことがある。見目も、それに纏わる美醜も、つなぐものとしては無力なの。言葉も、忘れて消えてしまえば意味が無い。……私はずっと消えない強いものが欲しい。だから、私を美しいと云う人は、信用しない」

なんと、彼女は。既に自分が彼女から離れることを杞憂に思っているのだという。喉の奥から歓喜の音が出そうになるのをぐっと飲み込んで、おくびにも出さずに男は彼女の言葉に静寂を持って耳を傾ける。
そんなドストエフスキーの心など、露知らず。椿の零す言葉は止まらない。

「私は、私の異能を求められて今まで生きてきたんだわ。私自身じゃない。私の意思は異能の附属でしかない。器の美しさは異能に比べれば取るに足らないものだった。絶対的な、力の前では意味が無い……でも、その絶対的な力は違う。誰も裏切らない。なら、私は異能を求められている方が良い」

その方が、信用出来る。

「マフィアは組織として私の異能を必要として利用した。だから私が異能を使える内は信用できた。____…じゃあ、貴方は? 貴方が私に求めるのは何? 貴方が信用に足るのか、私は、ずっと迷っている」

この男は私の中の母さんを殺した。祖母を殺した。大切だった仲間を殺した。それが水に流せるほど、未だ椿の中で折り合いがついていない。然し男の云う椿の“性質”は厄介なもので、誰かの為に生きることしかできない椿は、この先どう足掻いてもこの男に奪われる運命にあるのだ。そこから導き出される最適解は、当にわかっていた。椿の最適解は、この男、ドストエフスキーについて行くこと。そうすれば、破壊の元凶であった男に一番大切なものを与えられ、一番大切なものを奪われることはなくなる。きっと、そうしていくうちに今は折り合いがつけられない諸々も、きっと月日の経つうちに棘が抜け落ちて、椿はこの男を許すしかなくなるのだということも。

然しそれを受け入れる踏ん切りがついていないことも確かだった。何時も一歩を踏み出す為には手を引いてもらわねばならなかったと、今になって余計なことを思い出す。

そして、椿は真っ直ぐ男を見た。
貴方は私を望むけれど、貴方は私の望むものを本当に与えてくれるのか。
ドストエフスキーはいつの間にか、不敵な笑みを浮かべていた。何を考えているのか、何を口にするのか、椿は奥歯を噛んで身構えた。
ドストエフスキーは、「わかりました」と、一言。凡て納得がいったとでも云うような響きが、その言葉には含まれていた。

「“取るに足らない”なら、ぼくが独り占めしても何ら問題はないということですね。ふふ、安心しました」

真っ直ぐと向けられた荒れのない、穏やかな水面のような男の目に、椿は僅かに動揺する。

「……人の話、聞いてた?」
「ぼくの答えは変わりません。ぼくが求めるのは貴女です」
「っちょっと、」
「今の話なら、貴女は異能を求められた方が信用出来るようですね。然しその実、貴女は貴女を望まれることを求めていながら、恐れているのでしょう。その執着がいずれ失われ、貴女自身を捨て置かれることを……それに関しては、信用してくださって結構ですよ。先程は、言葉が足りませんでした。うつくしいと云ったのは、貴女の見目も確かに含まれますが……そうではありません。愛らしい花に水を注ぐ時、人知れず口に出る言葉があるでしょう? それと似たようなものですよ。ぼくが求めているのは貴女自身です、椿」
「…」
「貴女の異能ではなく、貴女自身が欲しいと。初めにぼくは云ったでしょう、貴女に」

男の眼は、ザラつきのない静けさを持ったまま向けられている。

「………それで、何だって云うの。貴方が私を裏切らない理由にならないわ」

ドストエフスキーに囚われていた目を逸らし何かを払うように頭を振った。椿の臓腑は先程から芯まで冷えきっていた。

「まだ、信用には足りませんか? 嗚呼、ずっと消えない強いものが欲しい、でしたね。それなら安心してください。ぼくは貴女を、愛しています」

「…愛?」
ぽかん、と呆けた声で、男の口にした言葉を返す。今この男は、それとは程遠そうな顔で、愛だと云ったのか。男の今までの行いは、椿の中では只の残虐的行為でしかない。殺傷の為の刃は愛とは遠い場所にあるはずなのに。

「貴方の口からそれが出てくるとは思わなかった。………何かの勘違いじゃないの。貴方は、狙った私を一度取り逃した。だから執着しているの。そんな感情、愛じゃないわ」

そう云うと、いよいよドストエフスキーは可笑しそうに口角を吊り上げ笑った。蠱惑的に細められた瞳は、如何なる悪も寄せ付けないおぞましさと狂気を孕んで、寧ろ男の邪悪な神秘性を掻き立てていた。

「いいえ、ぼくは知っています。勘違いしているのは、貴女の方ではありませんか? 愛が、あたたかく希望に充ちた、何物にも代えがたい純粋なものであると」

ふっと伸ばされた手が椿の背を撫で、ビクリと体が反応する。先程の邪悪は何処に引っ込んでしまったのか、云い聞かせるような眼差しで、ドストエフスキーは立て続けに口を開いた。

「愛は、高尚なものではありません。執着も依存も、情けも憐憫も、貴方が愛だと思っていない、おぞましいものすべて、愛と呼べるものなのです」

「純粋とは、何も知らないことではありません。思いが穢されなければ、それはいつまでも純粋なままです。したがって、穢れすら内包する愛とは、全ての強烈と云える感情です」

背を撫で、腕をなぞった末に取られた手の、包帯の上にドストエフスキーの唇が押し付けられる。布を介している筈なのに、そこには熱が感じられた。

「こんなにも、貴女を求める心をぼくはそれ以外に思い至りませんでした」


「貴女とぼくの行動原理、それはどちらも満たされなかった欲求の希求です。貴女とぼくは、同じなのです。どうか、受け入れてください。貴女の前でぼくは唯一、人で在れる。そしてそれは貴女も同じだと、ぼくは確信しています」


「ぼくたちは、出逢うべくして出逢った運命なのです」
その瞬間、ひと時の間に、ある既視感に襲われた。
以前にも、私は、世界から切り離された男を見たことがあると。

椿の前でしか心を認められない男。恐ろしく頭が回るが故に、世界の何処にも男を本当に理解できる者は居なかった。そして男は、遠くへ行ってしまった。椿をひとり、世界に残して。
あの時と同じように、この男を凡て理解することは出来ないのだ。然し男の云う心を、受け入れる事が出来たなら。この男__…ドストエフスキーは、この世界に唯一の安息の地を得ることができるのだ。そしてそれは、この“取引”を持ちかけられた椿も同じものを得ることができると。

嫌味なくらいに似ている。
この男と話していると、古傷がじくじくと痛み、今にも開きそうになる。

「……そこまでしているのに、最後は私の意志を聞きたがるのは何故?」
「貴女が思考し、自ら動くことに意味があるからです。ぼくは貴女の意志までもを損なうつもりはありません。ぼくは、興味があるのです。貴女という存在によって、ぼくが、どのように変わるのか」
「………へぇ。損なう? 興味? ……違うわね。聞いていて分かったわ。貴方は迷子なのよ。私を指標にしたいの」

嘗て、あの男がそうだったように。

「私を使って、貴方は自分自身の人間性を測りたい。違う?」
「……おや。では貴女は違うというのですか? 他者によって恐怖をかき立て、自己を保ってきた貴女が」

「…ふ、そう、そうね。貴方の云う通りよ。何もかも。私と貴方は似ている! そうよ、私も迷子なの。ずっと、母さんを、その代わりを、探している」

ねぇ、これも愛だと云うの?という椿に、ドストエフスキーは微笑みを絶やさずに云った。「ええ」そう、一言のみだった。

「___…………いいわ。貴方を信用する」



「測りにでも何でもなってあげる。貴方によれば、私は‘’人の為にしか生きられない”もの。貴方が、私の為になってくれるなら、私も貴方の為になる」

簡単なことだったのだ。
もっとはやく受け入れていれば。最適解は見えていたのに、いつまでも他の道を探していた。

「私の望みは。……私だけの、私のための世界がほしい。私の異能の、…ちがうわね、“私の”、人質がほしい。それが望みよ。……貴方が叶えて、

云うなればそれは利害の一致に他ならない。然しそれよりも、歪で、強固で、脆い糸がたった今、確かに2人を繋いだ。
嗚呼、とドストエフスキーは喉の奥に押し込めていた歓喜を音として口にした。この高揚を、幸福を、ずっと求めていた。何者にも変え難い、自分だけの尊い宝を漸くこの手に収めることが出来たのだと。

「人は、罪深く愚かです。自身の罪から容易く目を逸らし、自身が罪人であることを忘れる。また貴女のように、全く見当違いなことを罪と思い込み怯えながら生きる者を、ぼくは本当の罪を自覚させ、罰を与えることで救ってきました」

「貴女は、真の罪を自覚しました。そうできることではありません。矢張り、貴女は、特別な存在です」
「…その口振りだと、私を殺す?」
「ふふ。いいえ? 既に貴女は、もう以前の貴女ではありません。____ですから、此方を」

フョードルは、椿の手を取ったまま寝台から離れる。それに倣って椿の体も、寝台から抜け出した。手を引かれて向かったのは、部屋にこじんまりと置かれていたクローゼット。椿は、この扉を開いたことは無かった。いつも着替えはゴンチャロフが、ゴンチャロフが壊れてからは土人形が持ってきていた。フョードルの手が目の前のクローゼットの把手を引く。

くすみのない、ラベンダーの布地が視界で踊った。白ではない、服。それまで色を持たなかった椿の視界に、フョードルの目と同じ色を持ったそれが、静かに、クローゼットの中から椿を見ていた。

「こちらの国では、興味深い風習があるそうで」

腕を引かれ、フョードルの手から洋服を渡される。椿の腕に収まったそれは、矢張り紛れもなく色付いていた。

「きっと、お似合いになりますよ」



洋服を持ち此方を見る彼女の目は穏やかであるが、決して従順ではなかった。未だ拭いきれない此方への感情が手に取るようにわかる。
フョードルは考えていた。彼女は、長年向けていた筈の、その嫌悪を殺せるのだろうかと。

「礼を云うわ、フョードル」
「ふふ。心にもないことを」
「…嘘だと思う?」

何なら額でもつま先でもキスしてみせてやろうか、と云う彼女に、フョードルは暫し顎に手を添え考える素振りの後に「……では、此方にお願いします」と云って、包帯の腕を引き寄せた。