それが毒と知りながら


部屋の唯一の天窓から陽の光が差し込む。もう昼頃だろう、と椿はうだうだと転がしたままだった体の上半身を起こし、隣の塊をつんつんと突っついた。
その瞼がゆっくりと開き、瞳がぐるりと動いた後に椿を捉える。

「おはよう、眠り鼠さん?」
「………………」
「ちょっと、目閉じないで」

フョードルはびっくりするほど寝起きが悪かった。元々白い肌は低血圧なのか血の気が引いてお世辞にも顔色が良いとは云えない。目の下の隈は最早取れないところまで来てしまっているのか、それらの相乗効果で5徹目の中也に勝るとも劣らない人相の悪さである。というかこれは病人だ。
然しそんなことはお構いなしに、椿はつんつんとフョードルを突っつくのを止めなかった。

「ねぇ、お腹空いたわ。私にこの味気ない部屋で一人で食事しろって云うの?」

そう云うと再びのっそりとフョードルの目が開き椿を見る。然しこれも直ぐに閉じられたかと思うと、フョードルは椿をシーツごとその腕で絡め取った。フョードルの胸と見合わせることになった椿は何とか腕から脱出しようと試みる。ぐぐ、と自身の体に乗っかる腕を上げさせ、ずりずりと体を擦りながら移動する。
そうしているとふと視線を感じ、一旦動きを止めてそれを辿った。辿った先のフョードルの目は、もうすっかり開いていた。

「……起きたなら云って」
「ふふ、すみません。可愛らしくてつい」

低血圧で寝起きが悪いと云っていたが実は嘘なのではないか。ぐぬぬと唸る椿に男は笑う。その顔は変わらず病人のように白く、低血圧なのは嘘ではないらしい。

「そういえば……今日は、ゴーゴリさんがいらっしゃるのでした…」

なら尚更早く起きろと、椿の手が未だフョードルの体に掛かるシーツへ掴みかかった。

もう暫く住み着いた地下での朝なんて、毎度こんなものである。







椿はしなやかな体をのび〜と寛げ、そしてまたフョードルの膝の上へゴロゴロと転がった。その気ままな様子が猫のようで、自身の膝に指の先で徒にのの字を描く彼女に、フョードルはくつくつと喉の奥で笑っていた。

先日の椿への心配は、全くの杞憂であった。

ご覧の通り彼女は、フョードルへの嫌悪の「け」も感じさせない、まるで人が変わったかのように、愛猫へと様変わりしていた。何かに憑かれたのだと思う者が居ても不思議ではない。あまりの手のひら返しに同僚のゴーゴリは「実は頭打っちゃった?」と云う始末である。
然しフョードルは違った。寧ろ彼女のこれは至極当然とすら考えていた。

椿は生まれ変わったのだから。

元々の性質も手伝って、椿は新しいフョードルという世界の中心へどんどん入れ込んでいった。「片時も離れたくない」とフョードルの裾を掴んでは引き寄せ、最早フョードルの膝は椿専用の枕と云っても過言ではない。そんな椿の勝手も気ままも許しているフョードルも、椿がこうなった原因の一端を担っていた。どちらかの気が済むまで共に居る2人に、ゴーゴリは勝手に何とも云えない危機感に襲われこの基地へ来る頻度が高くなったという。

元より娯楽の少ないこの部屋で、長い時間2人がする事と云えば他愛なく惰性的に行う会話か、チェスくらいであった。普通のルールに飽きれば駒の数を減らしたり、特別にルールを作ってみたりと、知り尽くした物に工夫を凝らして長く遊ぶ醍醐味はそれなりに2人を楽しませた。椿に対するフョードルのチェスは殆どが接待であったが、それでも下手に見えない所がこの男の食えないところである。それに、切り上げる時には畳み掛けるように追い詰めてくるので、椿も盤上で抵抗を試みるも結局はフョードルの勝ちで一旦小休止に入った。

現在2人の前には、勝敗の決したチェス盤が鎮座していた。遅い朝食の後に始まった試合だった。椿は未だにフョードルの膝にのの字を量産している。絶賛最後の抵抗中、という所だ。

「ゴーゴリさんがいらっしゃいますから」
「私には聞かせられない話?」
「ええ。待っていてください」
「……待つのはキライ」

膝の上の椿が身じろぎする。下を見ると、不満そうな表情の彼女が目に入る。
包帯の巻かれた白い手のひらが、フョードルの髪を避けて頬に触れた。いとおしむように、フョードルの手がそれに重ねられる。
こちらを見上げる、硝子玉のようなうつくしい瞳が細められた。自身の膝に感じる心地よい重みと温もりも、広がる美しい髪も、眼下に広がる己だけの宝物。名残惜しいのは自分も同じだ、と云うように頬に掛る手に唇を触れ合わせた。

「ほんの少しの間ですよ」
「それでもイヤって云ったら?」
「困ってしまいますね」
「行かないではくれるのね」

暫しの沈黙が二人の間に流れる。それを切ったのは椿であった。
「いいわ、我慢する。でも私の声が届く所に居て」そう云うと、椿はフョードルの手の中から手を抜き取り、膝から頭を離した。
無くなった温もりに名残惜しい気持ちがふっと湧く。起き上がった椿を引き寄せ、その背を抱けば同じように彼女もぎゅう、としがみつかんばかりに腕を回した。
これ程の幸福はない。隣に在ることを許される、求めれば返される、たったそれだけのことで麻薬のような幸福が広がるのをフョードルは感じていた。
手の中の存在を確かめるフョードルの耳のほど近くで、彼女の甘美な声が響く。

「私を連れていけばいいのに。片時も離さないで、ずっと傍に置けば」

「…それはできません」
「どうして?」
「徒に貴女を人目に晒す必要はありません。単なる独占欲ですよ」
「…困った人。私を独り占めできるのは貴方だけでしょ、フョードル。私がそう云うのよ。私の云うことが信じられない?」
「だって貴女、ゴーゴリさんとは何だかよくお話していませんか?」
「ゴーゴリの嫌そうな顔を見るのが好きなの」
「それでも駄目ですよ」

貴女に関しては、どんな小さなことでも許すことができません。と、存外小さな声で零される言葉に椿はくすくすと肩を揺らした。
魔物だ悪魔だと思っていたこの男に、存外人間らしいものを感じることが多くなったのは気の所為ではない。かの魔人と云えど、惚れた腫れたの女には弱いものであった。椿の揶揄いは、フョードルが自分に入れ込んでいるという自信の表れでもある。

ある夜、椿の視界が色を持ってから間もない日。フョードルの下で寝台に身を預ける椿は、絶えず落とされる接吻を受け入れながら云った。
「貴方は私を特別だと云うけれど、実際それは間違いだわ。聖女のような純潔はないし、聖人のように慈悲深いわけでもない。…神様に愛されてもない」
不安を溜めたような声色に、フョードルの瞳が椿を捉える。泪の膜が張った瞳がフョードルを見ている。その露の落ちる前に、柳のような手が目尻を拭った。彼女はほぅ、と息を吐いてその手に擦り寄ると、「それでも私を特別だと云ってくれる貴方だから、いいわ」と云った。
想いが通じた男と女が近くにあって情を重ね合うのは何も不思議なことではない。然しその日は結局、触れ合いもそぞろに、只フョードルは椿の体を包むように抱いて、それ以外は何も起こらずに眠った。

嗚呼、この男は、自分に求める側面というものが、他の人間とは異なるのだ。

椿は男の寝顔を見て、こんな男も眠るのだなぁと、人間であるなら至極当然のことであることをぼんやりと考えた。
それから少しだけ、この男の顔を注意深く見るようになったように思う。


「ちょっと、ねぇ、返事くらいはして」

椿を抱いて黙ったままのフョードルに返事を催促するも返ってくるのは沈黙のみ。臍を曲げてしまったか?と思った矢先、肩口に掛かる息が耳元へと移動し、鼓膜にリップ音が届いた。ビクッと反射的にのけぞらせそうになった体を、長い腕が押さえ込む。立て続けに落とされた口付けの感触。ゾクゾクとした感覚が背中を駆けてゆく。擽ったさに堪らず身をよじると、リップ音とは別にクスクスと笑う声が聞こえた。
臍を曲げたのでなく揶揄われていたのだと気付くと、椿の眉尻がくっと上がった。自身の耳朶を柔く食み、首筋に触れる男の顔は見えないがきっとその口角は三日月よろしく吊り上がっているのだろう。
悪戯のように短い間隔で落とされる接吻は肌を掠める程度で、何とも云えないどかしさが募っていく。
椿の手が、フョードルの髪へ伸ばされ、その頭を掻き抱くようにして胸に閉じ込めた。口付けが止み、「如何しました?」と、腕の間からくぐもった声が聞こえる。

「ちゃんと触ってくれなきゃイヤ」
「……本当に、困ってしまいますね」

そうは云ったが、直後見合わせた男の顔は至極幸福そうであった。

結局、暫く放っておかれることになったゴーゴリが痺れを切らして部屋に現れるまで、フョードルと椿の戯れは続いた。
ひらひらと手を振り見送る椿にゴーゴリは「もっと早くに送り出してほしかったなァ〜!!」とフョードルの背をズリズリと押す。
モニター室まで辿り着くと、フョードルは部屋に設置されたモニター前の椅子へ腰を下ろした。ゴーゴリは適当な場所に腰掛ける。
それから暫く、2人は今後の計画を指折りなぞった。
昨日、ヨコハマの街で大きな一段階が動き出したところだった。その折で、ゴーゴリには言わずと知れた気掛かりがあった。フョードルもその心情をその頭脳で察していた。

「ぼくが、踊らされていると?」
「……君に限ってそんなことはないと、思っているよ。思っているけれど…」
「ぼくなら大丈夫ですよ。…それでしたらぼくよりも、ゴーゴリさん。貴方の方が気をつけた方が良いでしょう」
「……私がかい? それは、」

『フョードル』

それは一体、と続けようとした言葉は、思わぬ音声によって遮られた。モニターが映すその向こうと繋がったスピーカーから聞こえたのは、紛れもなくこの画面の向こうに居る彼女の声だ。『フョードル』子どもが親を乞うような寂しさを孕んだ声色で、彼の名が繰り返し呼ばれる。勿論ゴーゴリの目の前の彼は、名を呼ばれた時からその目をモニターへ向けていた。


『チェスをしましょう』


花弁のような唇が動く。彼女はあの部屋に設置された監視カメラを真っ直ぐと見上げていた。

「……行くのかい?」
「ええ。直ぐに戻りますよ」
「彼女への接待はナシだよ、ドスくん。仮面の彼の動きも次に差し掛かってる。本当ならこんな悠長にしている場合じゃ……アレッ?今マトモなこと云っちゃった?!」

自身の道化の美学に反する!と、ゴーゴリは勝手に慌て出した。然し言葉を訂正するつもりはないようで、フョードルの出方をちらりと伺う。
一連の流れを鑑賞するように見ていたフョードルはもちろんその視線も捉えていた。

「…計画が崩れるのも、また一興でしょう。然し些細なものです。全容への影響はありません。ご安心を」

コツコツとフョードルがモニター室の扉に向かい、把手に手を掛ける。またドスくんの余興癖が出た、とゴーゴリはひとつ溜息を吐いて、もうそれ以上は何も云わなかった。

「すべては、神の御手の中に。ぼくはそれに従うのみです」

扉が閉まる直前に見えたフョードルの顔には、何処か挑発的とも取れる笑みが浮かんでいた。ゆっくりと扉が閉まる。
ゴーゴリはつけっぱなしのモニターの前に腰かけ、彼が戻るのを再び待つことにした。






「チェックメイトです」

あっさりと、負けた。いつもならもう少し粘れるのだが、尽くの駒の計略を見破られ、椿のキングがフョードルの手に渡ってしまう。
椿は暫く盤上を眺めた後、フョードルへ顔を向けた。

「出る積もり? 私を置いて」
「ええ。行かなければなりません」
「……やっぱり。どんなに大切だ特別だと云って、私を置いていくの」

そうしてみんな戻ってこなかった。二度と、二度とね。
震えを孕んだ声が、顔を伏せた椿の髪の隙間から聞こえた。
突如変わった彼女の雰囲気は何かに怯えるようだった。その原因は先程の言葉だろう、とフョードルは容易に察することができた。
長い髪が表情を隠すほど俯く椿の、震える背をゆっくりと撫でる。気遣うように身を寄せ、フョードルは云い聞かせた。

「泣かないでください、椿。これほど大切にしている貴女を放って行くわけがないでしょう? ほんの少しの間だけです。必ず戻ると約束します」
「…必ず?」
「ええ。だから貴女も、いい子で、待っていられると約束できますね?」
「約束……」

ピタリ、椿の背の震えが止まった。俯き見えなかった顔がゆっくりと上がり、髪の間から覗く目が、フョードルをじっとりと捉える。

「いいわ。いくらでも待ってあげる。…ただし貴方が帰った時、貴方を出迎えるのは死体よ、フョードル」

恨み言のような声が、その髪の合間から落とされた。置いていったら死んでやる、そう云いたげだった。彼女はやると云ったら本気でやる。白い部屋が彼女の赤で染まることは、できれば避けたいところだ。

「…それは、いけませんね。困りました、ぼくはどうすれば良いのでしょうか?」
「貴方なら、もう最適解を分かっているでしょ」

暫しの沈黙が流れる。
柳のような体が覆い被さり、抱きかかえるようにして椿を包んだ。低くも温かい体温が密着した体に伝わる。

椿はこれがその場しのぎの誤魔化しなら直ぐにでも蹴飛ばしてやろう、と考えていた。何も知らされずに閉じ込められ置いていかれるなんてもう御免だった。それに、自分の目で、外の様子を確認したい。
ぎゅう、とフョードルの背に回した椿の手が衣服に細い皺を作る。
深い呼吸の後に、フョードルは口を開いた。


「____…わかりました。良いでしょう」