月と鏡のアイロニー


「君さぁ、本当に着いて行く積もりなの?」

支度をする椿の背後から不服そうな声が掛かる。ドレッサー越しに背後へ目を遣ると、道化師の仮面が見えた。
いつの間に入ったのか、と思いながらも直ぐに異能のことが頭に浮かび、特段気に止めなくなる。椿は視線を逸らすとカリカリと爪で包帯の端を剥ぎ取った。

「フョードルとの話は終わった?」
「君の中断から、先には進まなかったねぇ。まぁ元々取り留めもない話ではあったけれど」

「ふぅん」と興味なさげに相槌を打ちつつ、土人形が用意した靴の中から今回の外出に使用するものを選び取る。その片手間にも、ゴーゴリとの話を続けた。

「取り留めもない話なら、話す必要がないじゃない。私とフョードルの時間を邪魔しないでくれる?」
「ええ……流石の私もびっくりだよ…………」

色んな意味で凄いな、と決して褒めてはいないだろう言葉が次いで聞こえてくる。横暴、横柄な椿の態度にゴーゴリはいっそ感心すらしてしまっていた。

椿にとって、ゴーゴリは2度命を助けた存在ということになる。然しそれによって、椿が恩を感じて彼に遠慮するような態度をとることは微塵もなかった。何故なら、この道化師が手を差し伸べて話をした後は大抵ろくでもないことになったからである。ゴーゴリに対する椿の感情は、感謝よりも「よくもやってくれたなこのやろう」が大部分を占めていた。
そんなこんなで道化の言葉には真面目に耳を貸さないことにした椿は、現在も話半分に言葉を打ち返していた。
元々それほど量のない支度は直ぐに終わりへ差し掛かる。靴に足を差し込み、その後はフョードルの準備が終わるまでゆっくり包帯を替えながら待つだけ。

そうこうしている間に、椿は両手の包帯も巻き終わった。
手持ち無沙汰の間はドレッサーのジュエリーボックスをじゃらじゃらと眺めた。ぱこり、と若干開いた引き出しから、赤い宝石がちらと目に入る。

「………」

目が合ったかのように暫くそれを凝視していると、ドレッサーの机部分に手が置かれた。それを辿ってするすると上を見るといつの間にかゴーゴリがほど近くまで来ていた。
何かを云いたげに椿をじっと見る彼の目を、椿も負けじと見上げる。
そして、その口角が「ふふ」と可笑しそうに笑うのをゴーゴリは見た。

「貴方、詰まらないんでしょう? フョードルを取られたみたいで」

親友と云っていたものね、分からなくもないわ。トクベツって大切だもの。
そう椿が云うと、彼女を見る片方の目がすう、と細められた。それは心なしか睨んでいるようにも見えた。
飄々と掴みどころがない筈の道化師の、その心が今はハッキリと見えるような気がした。

椿にとってこれほど見知った感情はなかった。
然し、あえて違うかたちとして置き換えて言葉にしてやろうか。その方が、この心ある道化には堪えるだろう。徒に浮かんだ思案から、直ぐに椿は代わりの言葉をゴーゴリに突きつけた。

「貴方はフョードルを“愛して”いたから」

だからフョードルを嫌っていた以前の私の感情を、貴方は嫌った。
然し今はどうなったかと云えば…ゴーゴリの望んだ通り、椿はフョードルの傍につくようになったというのに、それも面白くないのだと云う。
望んだ筈の結果が、望み通りではなかったのだと。

「笑いものね。これも道化師のショウのひとつ?」
「…何のことだか。よく分からないなァ!この憐れな道化師にも、わかるように云ってくれる?落とし所が分からないショウじゃ食えないよ。私が嫌いなショウは、詰まらないショウ、寂しいショウ、オチのないショウだ」
「…、怒ったの? いやね、私に切っ掛けを与えたのは貴方なのに。が、欲しかったんでしょう?」


「もう仲間でしょ私達。仲良くしましょ」
親しみを込めた目がゴーゴリを捉える。それに対し、肩を竦め首を傾げたゴーゴリは、その視線と話の矛先を変えるように口を開いた。

「……君って、本当に人が変わったみたいだ。流石の私でもすこぉし戸惑ってしまうよ。変わったのは君の見る世界で、君自身はひとつも変わっていないのにね」

「なら、互いに見えている世界の話をしましょうよ。貴方の目に、この世界はどう見えるの? 貴方に私はどう映っているの?」

変えようとした矛先は、また新たな槍でもってゴーゴリに牙を剥く。
少なくとも宝物ではなさそうね、と薄く笑む椿に対し、ゴーゴリの顔は無の仮面に隠されていた。それはまるで、いつもの互いの表情が入れ替えられたようであった。両者の感情は、分厚い曇りガラスに覆われているようで読み取ることはできなかった。

然しゴーゴリは、この女の前ではその仮面も曇りガラスも、いつの間にか剥ぎ取られているような心地がしていた。
否、剥ぎ取られる、なんて可愛いものでは無い。

「…鏡を見せられている気分だったよ」

男の顔を隠していた仮面が、ゆっくりと取り払われ、青年の姿かたちを露わにする。
他者は己を映す鏡であるとはよく云ったものである。それがあらゆる人間に対して作用するものではないにしても、少なくともゴーゴリは、椿を通して確かに己の姿を見ていた。
足掻き、手を伸ばし、自由を求めて鳥の夢を追い掛けていた嘗ては、生得的に意識に染み込まされた様々によって、自分が目隠しをされている事にも気付けなかった。
その暗幕から解放し、理解と肯定を己に与えたのは、フョードル・ドストエフスキーというひとりの男だったのだ。そこからゴーゴリの世界は色を持ち、変わった。

彼女は確かに、自身と同じ道を辿っている。
フョードルというひとりの男によって暗幕を取り払われ…嗚呼、それが、何故か“面白くない”と思う自分が居るのだ。
親友の幸福を祝福できない。椿が云うように、親友であるフョードルの関心がこちらに向いていないことが面白くないというのであれば、これは逆恨みじみた感情だ。親友が幸せならそれで良いと本当に思っている筈なのに、全く相反するもうひとつの感情に戸惑っているのは確かだ。
然し彼女の、人が変わったこの有様に、違和感があるというのも、また、事実だった。この女は未だ得体が知れないと脳裏で本能が嘯いていた。根本的に似ていると感じる自身にしか、分からないだろう違和感がある、と。
フョードルは気付いているのだろうか。知っていて野放しにしているのだろうか。然し、若しもこの違和感が、自分にしか気取ることができない警告だった場合、何か取り返しのつかないことが起こる気がしてならない。

椿は暫しキョトンと目を丸く開いていた。その後、余裕綽々と頬杖をついて云った。

「“鏡よ鏡”って、唱えてみる?」

目を逸らしたくなる真実が、見えてしまうかも。


ほんの一瞬、その顔は、己の親友に酷似していたように思う。
蠱惑的に細められた瞳は、色素の薄い色をしている筈であるのに、まるで洞穴のように底が知れない。あるいは、葉の間から覗く月のように、息を潜め隠れる己を僅かな隙間から見つけ、なんの隔たりもない場所へ晒し出そうとするかのようだった。

今になってフョードルの言葉が蘇る。貴方の方が気をつけた方が良い、と云った彼の言葉の意味は、そういう事か。鏡を見続けた人間の末路など知れている。
云い表しようもない緊張のようなものがふるりと体を震わせた。僅かなそれに気付いたのは、ゴーゴリ本人だけであった。

「いいや、御免だね。もうこれ以上は見たくないからさ。…ねぇ、君は、君が思っているよりもドスくんに大切に想われていると思うよ」
「あらそう。だから何なの?」
「彼は僕の親友なんだ」
「知っているわ」
「…彼を大切にしてくれないかな」
「如何して私に? 貴方、私を信用していないでしょ? そんな相手に頼むより、貴方がそうすれば良いわ」
「僕は彼の幸せを願っているからね」
「…じゃあ、貴方の幸せは誰が願っているの?」

椿の疑問がゴーゴリを撃つ。確かに近頃は、幸福も何もあったものじゃなかった。否、近頃、何てものではない。
正気を正気のまま削る日々。狂気らしく振舞っていなければ今に足を取られる。泥濘の中は、いくら探しても砂金のひとつも見つかる気配がない。先の見えない道を進む恐怖はあるものの、足を止められる訳でもなかった。
それならいっそ、正気を狂気の泥の奥に潜らせてしまえば、泥を通した先に見つかるものがあるかもしれない、と。泥の仮面を被り始めたのは自分だ。

持っていたそれを再び顔に戻す。
道化の頬に緩く三日月が浮かび上がる。

「神様とやら、じゃないかな」

向き直したそこに、青年の姿は無く。あるのは鏡合わせのように笑う、道化師と月の姿だった。