ダイアも裸足で逃げ出した
人間、選択肢をすべて間違う時がある。
私は生まれた時からずっとそうだ。
選び続けた間違いは、いつしか私の運命になっていた。私は運命から、すべて間違っていたのだ。
正しさからは初めから遠い場所に居ながら、その眩い善性に届かぬ憧憬を向ける。その愚かさを、それと知りながら未だ捨てきれない。
「…椿、さん?」
人間は実現不可能なものにこそ価値を見出し、その理想と呼べるものへ手を伸ばす。届かないからこそ、ずっと思い続けることができるのである。
今になっても、君の顔はよく見えた。
「酷い顔。お化けでも見たみたい」
表通りは人の往来が絶えず溢れていた。然し椿と対峙する敦の居る路地は、水を打ったように静かであった。街の喧騒から隔たれたその場所で、2人は__否、敦は、信じられないものを見たかのようにその顔を強ばらせた。
「…っ、今まで、何処に?」
「…」
敦は、自分の体の芯が震えているのがわかった。どういった感情によっての震えなのかは分からなかった。震えるまま口にした言葉は、彼女の身を案じるものに等しかったが、椿の以前と異なる気配に、恐れも感じていた。
彼女は何も答えなかった。
今更、身元も知り合った仲のようなものであるのに、彼女は口を閉ざしていた。
無言はこれ以上の詮索の拒否を意味する。然し敦は、彼女がここ暫く、ポートマフィアどころかヨコハマの街のどこからも消えていたことを知っていた。
太宰とは犬猿の仲であり、ポートマフィア幹部の中也が探偵社ビルに姿を現したのが数週間前。
敦の虎の耳は通常時でもよく聞こえた。そして聞いていたのだ、彼らの話を。椿がポートマフィアから、街から忽然と姿を消したということを。
それが今、ふらりと、現れた。
拭うことの出来ない違和感を纏って。
彼女は見たことのない、異国の装束を身につけていた。
この路地の何処かで、上司である太宰が社長を襲った毒の首謀と接触している筈であった。自分は遅れて来いと云った太宰の指示に従い、虎の嗅覚と聴覚を使い太宰を探していた。そして道中、限りなく薄い気配と、僅かに鼻を掠めた匂いに足を止めた。
辿った先に居たのが椿だった。
嫌な予感が脳裏で警鐘を鳴らし続けている。
突拍子もない、有り得ない考えが敦の頭をよぎる。
「君に云う必要ある?」
ようやく言葉を口にした彼女は硝子玉のような瞳をしていた。声は寒風のように敦の背を撫ぜ、閑静な路地を通り抜けていった。
これほど冷たい目を今まで彼女が自分に向けてきたことはなかった。砂時計の落ちる砂を見詰めているようなその目は、一月の凍った湖を思わせる寂しさもあった。
敦は思った。彼女の瞳はもっと強い、満月のような輝きを持っていたと。組合との戦争中、路地で戦闘していた彼女と鉢合わせした時、彼女は満ちた月光のような鋭い眼差しを持っていたのに。
一体、彼女の身に何が起こったというのか。
「…先日探偵社に、中原さんが来ました」
口をついて出たのは、彼女の身を案じて敵対組織の建築物まで足を運んできた中也のことだった。少しでも彼女の気に止めるものを、と思った時、敦の中で真っ先に浮かんだのが彼と、もう一人だった。
「そう」
まず彼女が口にしたのは、その一言だった。
「私を探してる?」
「…はい。太宰さんとお話していました」
「ふふ。あの中也が、太宰とお話ねぇ」
「それほど連れ戻したいんだ、私を。それもそうか。月の女は持っているだけで組織の良い牽制になるもの。それに、私が持っているマフィアの情報も漏れたら拙いし」
失敗した、と敦は瞬時に悟った。
「それで、如何してこんな話をしたの? 中也に“私を見つけたら捕まえろ”とでも云われたの?」
「ち、がいますっ!」
「…そ。じゃあ君との話は終わりね」
「もう行くわ。人を探してるの」そう云うと彼女は踵を返し、後ろ髪引く間もなく路地の向こうへ消えようとした。
「……何?」
「あっ、いや、その。……あの、椿さんに、そっちへ行って欲しくなくて」
遠ざかっていくその手を、敦は無意識に取っていた。椿が怪訝そうな顔で敦を見遣るも、直ぐにその面から感情が消える。
「変なこと云ってる自覚ある?」
「……………………………はい……………」
然し引くに引けず、何とも云えない空気が漂う。
「離して」
握る細い手首には、白い包帯が巻かれていた。
「怪我をしたんですか?」
「……そうよ。痛いから離してくれる?」
「何処に居たんですか」
「だから、それは、君には関係ない」
「っ関係なくないです!!」
意地のように張り上げた声は思ったよりも路地に響いた。ハッとして椿を見るも彼女は相変わらず無表情で敦へ視線を向けている。いつの間にか、口の中がカラカラに乾いていた。なんとか絞り出した声は彼女に届いているのかすら怪しかった。
「関係、あるに決まってます……」
自信なさげに出した声は、語尾につれて小さくなっていった。頭がだんだんと下がり、いつの間にか自身のつま先を見詰めていた。
「…それは君が、放っておけないからでしょ。客観的に見れば私が正しくて君が間違っているわ」
もう一度拒絶の言葉が彼女の口から放たれれば、きっと自分の体はバラバラに砕けてしまうだろう。
芥川と話している時よりも心が落ち着かなかった。彼奴は自分への物理的殺意こそ強いが、多少話せばそれなりに言葉を返してくれる。言葉の中の刃に目を瞑れば会話は成立するし、先に進む。然し今の彼女には駄目だ。此方の言葉は薄い硝子を介したように跳ね返され、押し問答のように全く会話の先が見えない。自分が以前、どんな風に彼女と会話をしていたのか思い出せない。思い出せないが、彼女の手を離すことができないまま、暫くの間路地に立ち尽くしていた。
「……君に手を掴まれるのは、これで何回目だろうね」
如何していつもいつも、こんな時ばかり君に会ってしまうのかな。と、溜息と共に椿の口から呆れを含んだ言葉がこぼされる。ハッと椿の顔を見遣った。彼女の目が此方に向けられている。
どうせ離すつもりはないんだろうし、少し君と話をするのも良いだろう。君は本当に、何も分かっていないということを教えてやらないと。
「前に、殺すことが好きじゃないって聞いたでしょ」
「っ、はい」
「君には私の、答えをあげる」
「トクベツよ」と目の前の唇が告げる。掴んでいた手を寧ろ引かれ、ぐっと彼女との距離が近付く。カチリと開かれた瞳と目が合うと、冷たい流気が敦の背を通り抜けた。彼女は敦の背中にぎゅっとその腕を回し、元々近かった体を更に密着させた。
突然のことに敦の思考は暫しの間停止し、その後、カッと顔に熱が集まった。想像よりも小さな肩、ふわりと香る匂い、触れる部位の柔らかさに厭でも彼女の女の部分を意識してしまう。嘗てないほど近付いた彼女の肌は間近で見ても絹のようにすべらかで、その白の下から覗く薄く開いた唇は、雪下の花弁を思わせた。
彼女の香りが濃くなる。ぼうっと見蕩れる敦の耳元に、囁きかけるような言葉が落とされた。
「人を殺すことが好きじゃないのは本当。だけど、私は、私の大切なもののためなら喜んで殺すし、それに今更罪悪も感じられない。汚い人間なんだ。君と出会うずっと前から、私はそういう人間なんだよ」
本来なら、君のような人と関わることは許されない筈だった。私と君の関係は始めからこうなることが約束されていた。それが早いか遅いか、ただそれだけのことだった。だからもう私に構わないで。此処で私を見なかったことにして。離して、何処かに行って。それが私と君では自然な形なんだから。
長いようで短い、つかの間の出来事だった。彼女の体が遠ざかる。敦の力の抜けた指先から、解すように手を剥がしていく。
彼女の手を、汗ばんだもう一方の手が掴んだ。
椿の目が見開かれる。
「厭です」
怯えたような顔を残しているくせに、その瞳はキッと此方を強く見据えた。椿も負けじとギッとその瞳を見詰め返す。
「強情、往生際が悪い。手汗すごいな」
「ゔっンンッ!」
敦が咳払いをしたことでその目が一旦逸らされる。両手で握手でもしているかのような奇妙な光景が出来上がってしまった。折角気を逸らして離させようとしたのに、寧ろ掴んでくる敦に呆れの溜息が止まらないのも仕方がないだろう。
「椿さん、何か、困っていませんか?」
「……現在進行形で困ってる」
「そうではなくてですね!?………あの、聞いてください。誰だって、自分の大切なものの為なら誰かを傷つけなきゃいけない。…きっと今の僕の行動が、貴女を傷つけていることはわかってます」
「! …じゃあ」
「すみません。でも…それでも、僕は貴女を縛るものから扶けたい。守りたいんです」
「…………、『守って』なんて、頼んでない」
本当に会いたくなかった。君にだけは。君は突き放しても引き止めることを知っていたから。それが君の美点で、然し君の言葉は私を弱くする。
守って欲しいわけじゃない。私が欲しかったのは、誰かを守れる強さだ。
君は私にとって地上の月だ。昼間も現れて、その光で私の弱さを浮き彫りにする。
「…だから君には会いたくなかった。心の隅にそっとしておきたいのに、君は…いつもそれをひっくり返して、勝手に割り込んで。私の選んだ道が正しくないって云いたいんでしょ? わかってる、そんなこと。でも私には、この方法しかわからなかった。仕方がないでしょ?誰も教えてくれなかった。君のような、正しい人間にとっての間違いが、私の運命では正しさになるの」
「……椿さん」
「やめて。私も君の名を呼ぶつもりは無い」
「っ椿さん」
「……………………やめてって云ってるでしょ!!!」
今度は椿が声を荒らげる番だった。威嚇のように張られた声と共に、椿は敦の手を振り払おうとする。
然しその手はいつまでも離れることはなかった。寧ろ強い輝きを持った瞳が絶えず向けられる。
また、まただ。本当に諦めが悪い。諦めない。不思議で堪らなかった。如何してその輝きは褪せないのか。そんなところも含めて、私は、君が。
「やっと貴女の声が聞けた」
「…は?」
ぎゅう、と握られた手が痛い。然しそれは直ぐに緩んで、今度は包み込まれるように私の手が敦のそれに隠される。動揺が椿の体を強ばらせた。
そんな椿とは相反して、敦の穏やかな声がぽつりぽつりと落とされる。
「僕も、そうなんです。僕なんかが、一体誰のために、何が出来るだろうって。結局周りに…優しい皆さんに迷惑をかけているだけなんじゃないかって…始めは、そんな考えが止まらなくて。今もそれがなくなったわけじゃない。でも、それでも僕にできることを必死に探して、探偵社で見つけたことを、必死にやって…そうやって、誰かの為に何かができる僕を、僕は自分が存在していい理由にしているんです。椿さん、僕も、自分の為に、ですよ。同じなんです」
「っ離して。私は、」
「必死に道を探した貴女を、僕は汚いとは思いません。何もわからないうちは僕にも、他の誰にも判断できない。……でも、本当に、その道しか、なかったんですか? きっと僕以外にも…貴女の声を聞きたかった人は居た筈です」
「私は、君とは違う…!」
「誰かの為に自分を犠牲にする貴女を、僕は汚いとは思えません。でも、その前に貴女はひとりじゃないんです。中原さんも、僕も鏡花ちゃんも居ます。だから、…その、頼りないかもしれないけど、頼ってください。僕のこと。他の人のことも」
言葉の数々を云いきった敦に、椿は数秒じっとその顔を苦しげに見詰めた後に、フイと顔を逸らした。
「……汚い。汚いに決まってる。敦は何も知らないから云える。私にはそれが痛い、苦しい、妬ましい」
「…っ椿さ」
「私を縛るものから扶けたい? なら、君ができることはひとつだけ」
氷のような瞳だけが敦を見遣る。
「私を見捨てて」
今度こそ手が離れる。呆然と此方を見る敦の視線を振り切るように顔を背けて、椿は逃げるように路地の奥とは逆の方向へ、街の雑踏へと駆けていった。