稚気を丸めて捧げましょう
敦と別れた椿は日の下に出ていた。苛立つ足取りは自然と靴の踵を響かせる。何故こんな時に限って敦に会うんだ、と握られていた手の感触を思い出しそうになった時、それは起こった。
響いたのは、けたたましい爆発音。殆ど反射的に、敵襲を想定した『箱庭』が椿の足元から広がる。原因となった爆発物は2つ先の通りの脇に止められていた車であったらしい。既に多くの野次馬が周りを囲んでいる。
それを視た椿は走り出した。
壁のように連なる野次馬を掻き分けて、中心へ近付こうとするも、何しろ多い人の波は中々椿を通さない。揉みくちゃにされる不快感にそろそろ椿が異能を使って人の波を強制的に割ろうとした時、その中心から声が聞こえた。
「__……エリスちゃん!」
それと共に割れる波。訳も分からずに居た椿は突然の解放によって地面に膝を着く。対向から誰かが駆けてくる。
その後ろに倒れる、鴎外の姿が目に入った。
いつかの夢と重なる。鴎外はその身から血を流していた。違う、これは夢じゃない。
夢じゃ、ない。
「ッ森さん……!!」
その顔を蒼白に染めて駆け寄った椿の声に、ピクリと鴎外の瞼が動く。地に放られた手を取りその脈を測る。仰向けにして出血の原因を確認した椿の背筋が凍る。
突き刺さるは、見覚えのある柄。
「…真逆、」
バッと人の途切れた波間を見る。逃げる姿は目視できなかった。然しそれよりももっとタチの悪い方法で、椿は鴎外を刺した者を突き止めることになった。
「首領、処置はするから。一瞬我慢して」
「……っえ、なに?____ッッ!!!!」
引き抜いた、鈍い切れ味の短剣を忌々しげに見る。「椿ちゃぁん」と情けない声を出すマフィアの首領の胴に、椿は黙々と自身の長めのスカートの裾を割いて強めに巻き付け止血した。じわ、と白が赤色に染まる。眉を顰める椿の手に、鴎外の手が重ねられた。
「椿ちゃん」
「……首領」
「いいんだ、わかっているよ」
酷くやさしい目は、責め立てるよりも椿を追い詰めた。
泣き出しそうな声で自身を呼ぶ椿に、鴎外は尚やわらかな声で云う。
「うまくやりなさい」
「……」
椿は鴎外の懐を漁り、端末を手に取った。1番上に表示される文字列を選択し通話ボタンを押す。数コールもしないうちにそれは繋がった。
『はい、首領』
「…」
『……首領?』
「龍之介」
『ッ』
電話口で息を呑むのがわかった。『貴様ッ…!』と殺意増し増しに続けられた声色に苦笑いをする。
「至急黒蜥蜴を動かして。でないと間に合わない」
『待て!!説明しろ、椿ッ!!』
「説明することなんて何も無いよ龍之介。それでも答えが欲しいなら私が消える前に来ればいい…そっちの牧師は深追いするな。お前をそこに繋いでおくための囮だ」
ブツッと一方的に切った端末画面には通話終了の文字。直後、再び端末が震える。然しそれを無視して、椿は暫しの間端末をいじり、数秒と経たないうちに鴎外の胸ポケットへそれを戻した。
「龍之介には適当に云っておいて」
「また、君は……」
しょうがない子だねぇ、と云った鴎外から離れ、椿は再び走り出す。箱庭は必要ない。鴎外を刺した者の行方なんて、とうに知れていた。
芥川は、繋がらない端末を羅生門で貫いた。その黒々とした瞳は獣を携え、対峙していた仮面の暗殺者__ホーソーンを見遣る。
その体を拘束していた羅生門が、緋文字によって切り裂かれ男の体を解放した。ホーソーンは芥川の出方を伺うように身を低く保っている。
「今し方、八つ裂きにせねばならぬ奴が出来た。貴様が僕の羅生門の牙に砕かれるのはその後だ、組合の伊留満」
代わりにこれを土産に貰っていけ、と外套が大きく揺らめく。黒獣の開いた赤い口、獄門顎がホーソーンを呑み込まんと轟速で地面を削り迫った。それをホーソーンは、宙に浮かせた緋文字へ瞬時に飛び移り回避する。高く飛んだ男は、その身を隣接するビルの上へと踊らせてそのまま姿を消した。
残ったのは抉られた地面と、穴が開きガラクタになった端末。芥川はざわりざわりと騒ぐ自身の獣の牙を、いなすことはせず、ただ静かに研いでいた。
▽
銃声が響く。直後熱を帯びた痛みが腹部を襲った。地に体を伏しながら太宰はビルの上から自分を襲った狙撃手を確認する。自分がフョードルの行動を予測して動くことを予測して、フョードルはあの狙撃手を配置したのだ。最初から盛った毒の正体を隠す気はなかったということか、と思考を巡らせながら、ドク、ドクと血が流れる腹部を抑える。
「急所は外させました。貴方にはマフィアとの衝突を報せる役がありますから」
探偵社とマフィア、両組織の長を呪いで繋ぎ、そこから先はこの男自ら手を出すことはない。それぞれの組織の人間がその組織が組織たる為、この男の手を離れて戦争を始める。最小の動きで最大の成果を得る理想的な構造だ。此方としては最悪だが。
「君と私は……同類だと云ったね。確かに同類だが一点だけ違う」
立ち去ろうとしたフョードルの背後で、太宰がよろりと体を起こす。急所は外したとはいえ、その腹部からは絶えず出血が衣服に染みを作っていた。
それでも太宰は喋る口を止めなかった。
「……確かに人は皆、罪深く愚かだ。だからいいんじゃあないか」
一寸の淀みなく放たれた言葉は、ビルの影に隠された路地に微かな陽を射した。
フョードルは理解する。狙撃手の存在を知っていながら、この男はそれでも来たのだと。自身と似ていると云うこの男にとって、それ程価値ある情報だったというのか。
僅かに存在した、太宰という男と自身との異をフョードルが感じていた時、2人の居する路地に再び音が響いた。
フョードルは路地の向こうの姿を捉えると口元に笑みを作り、太宰はその姿を目視して目を見開いた。
「……これは、驚いた。こんな所に子ネズミが居たなんてね」
コツ、と踵を鳴らしこの状況に割って入ったのは消えていた筈の椿だった。太宰は考えていた最悪の事態に近いこの状況に、冷や汗をその額に流す。
「…フョードル。終わったの?」
「ええ。帰りましょう、椿」
招かれる手に、椿はその身を寄り添わせる。
椿は太宰に一瞥もやらないまま、フョードルのみに視線を向けていた。フョードルは椿の肩を抱き寄せ、2人の人間がその路地から遠ざかる。
太宰は出来うる限りの声でその背に叫んだ。
「ッ待、ち、給えよ…! 椿、その男に与することがどういうことか、わかっているのか?!」
「……」
「その男は、今、ヨコハマの夜を荒らす仮面の暗殺者の糸を引いている男だ。社長も、森さんも襲われた!」
「…知ってるわ」
椿の歩みが止まる。
振り向いて足早に太宰の方へ向かったかと思うと、勢いそのままに、椿は太宰を突き飛ばした。「えっ」と言葉を漏らし太宰が突っ込んだのは、路地脇に集められたゴミ袋の山。幸いクッションの役割を果たして傷に大きく響かなかったが、横たえた太宰に椿は次いで馬乗りになりその胸ぐらを掴む。
「貴方も、私の邪魔をする積もり? 本当に勝手よね。私はもう貴方の玩具じゃないの。だから貴方の指図は受けないし聞かないわ」
「…椿」
「私は望んで此処に居る。自分で、求めた場所が此処なの、太宰」
見下ろす彼女の髪が降りて幕のように自身と外界を遮断する。こんな状況じゃなければ、死の間際に見るには最高の眺めだと、太宰は洒落にもならなさそうなことを考えた。
椿の胸ぐらを掴んでいた手は、いつの間にか太宰の首にかかる包帯をなぞっていた。太宰はそこではたと気付く。
彼女の首に巻かれた、自身と同じそれを。
笑う状況じゃないことは重々わかっていた。それでも苦く甘美な感情が胸を埋めていく。腹部を抑えていた血塗れの手を、彼女に倣って揃いの首元へ伸ばした。なぞる度、白が赤に侵食されていく。美しく着飾っていた筈の彼女の衣服を、ぽつりぽつりと血が落ちては穢した。
太宰の手が落ちる。椿は気絶した男の上から退いて、フョードルの許へと戻っていった。殺してない、眠ってもらっただけ、と男の血に塗れた椿が云う。その姿では目立つだろう、とフョードルは自身の外套を椿の肩に掛けた。
「知り合いだったのですね」
「……知らないわ。あんな男」
視線が合わないまま云う椿に、フョードルはその顎を掬い上げる。僅かに椿の体が後ろへ引いた直後、数本跨いだ路地の向こうから太宰を呼ぶ声が聞こえた。
「…探偵社ね。見つかると厄介だわ。はやく帰りましょ」
フョードルの手を離れスタスタと歩み始める。
椿の背を、細められた紫の瞳が捉えていた。
▽
街の監視の目を掻い潜り、地下に再び潜る頃には日が傾いていた。椿はモニター室を通り過ぎ、最早住み慣れた金庫部屋へ自ら入っていく。
たった一度の外出だったのに、どっと疲れが溜まったと感じるのは気のせいではない。驚異のエンカウント率に本来する必要のない緊張をする羽目になった。
「もう何もしたくない……」と、ゾンビのようにフラフラ寝台に近付く椿を、その背後から伸びた手が捕まえる。
「うゃ?」
「いけませんよ。そのまま眠るつもりですか」
誰かと問う必要もなく、手の持ち主はフョードルである。そういえば借りたままだったと、外套を返そうと前を開いて、椿は男の言葉に合点がいった。
黒の外套の下、白地に薄紫のアラベスク装飾が散りばめられた服が現れるも、それは裾が割けている上、赤い血痕が染み付いていた。確かにこのまま白い綺麗なベッドに入るわけにはいかない。
「“外”から帰ったのですから、身を清めなければ。此処は特別な場所なのです」
「……あ、そう…」
フョードルは単純な汚れを心配したわけではなかったらしい。
その後直ぐに土人形たちが体を拭く物も替えの服も包帯も運んできた。いつまでも部屋を出ない積もりらしいフョードルに暫し首を傾げたが、「お手伝いしますよ」という申し出には丁寧にお断りしておいた。然し何だかんだ丸め込まれ背中は拭かれることになってしまい、椿はソファの上で無防備な傷一つない背をフョードルに向け、髪が背に掛からぬように抑えていた。
「………いつまで拭いているの? もういいでしょ」
「いいえ」
「背中ばかりやっても終わらないわ」
「ふふ。それは他も拭いて宜しいということで?」
「違うわよ。もういいから貸し、ッ!」
チクリとした痛みが背中に走り、反射的に背後を見る。思っていたよりも近くにあったフョードルの体は、振り向いた椿の体に覆い被さるようにその長い腕をそれぞれ背もたれと肘掛けに付き、檻のように椿を見下ろした。尚も近付くフョードルの胸を、椿はそのまま迎え入れた。
首に回される腕の感覚に、フョードルは椿の柔らかな髪を撫で、そうすることが自然であるかのように近付いた唇を合わせる。
「……ふ、ぁ……………は、ァ、」
とろりと溶ける瞳。酩酊したようなふわふわと浮くような心地がしていた。口腔を長い舌で絡め取られ、それと共に髪を撫でられたり、耳朶をこしょこしょと擽られたりする。
くたりと力が抜けた椿の体をフョードルの腕が抱きかかえる。離された口元から銀糸が引いてぷつりと切れた。そのままゆっくりとソファに上体を寝かせられ、フョードルの手が椿の顔の横へ置かれる。
鼻と鼻が触れ合う距離まで近付いた時、視線が合った男の目に椿の体はゾクリと反応した。細められた紫水晶に、気の所為かと思考を紛らわせようとした時だった。
フョードルは微笑みそのままに、口を開いた。
「何故、あの場所では抵抗を?」
「…え?」
「成程、無意識でしたか…ふふ、面白い」
貴女に関しては、疑問が溢れて尽きません。そう云った男に、「私も貴方についてはわからないことばっかりよ」と椿も云い返す。それにフョードルはにこりと口元のみで笑った。その瞳は変わらず紫の光を宿したままだった。
フョードルはその顔を椿の肩口へと移動させ、尚その言葉を続けた。
「何故、傷もない場所にいつまでも包帯を巻いているのか、時折それを鏡越しに手を添え眺めるのか…ほんの些細な事ですが、貴女の事ですから気に掛かって仕方がなかったのです」
然し今日、それがわかりました。
「太宰くんですね?」
ゆらりと、フョードルの瞳の奥が揺らめく。
反応しなければ流せたものの、椿の僅かな震えをフョードルは見逃さなかった。
「嗚呼、折角拭いて差し上げたのに」
椿の肌から僅かに汗が滲み、フョードルの手のひらがその雪の原へ吸い付く。その感触を楽しむように、フョードルの手が椿の腹部から胸部まで触れ、その輪郭をなぞるように滑らせた。
「これほど簡単に、ぼくの思考を侵せるのは貴女だけです」
「ッ、ごめん、なさ、」
「……謝る、ということは後ろめたい事を肯定するのと同じですよ」
「今度こそ、貴女をぼくで隙間なく埋められるようにして差し上げます」
その言葉で、殆ど無意識に椿の体は逃走を図ろうとした。痩せ気味の男であれば一瞬の隙を作ることくらい造作もない。体を転がしてすんなりと男の下から脱出するも、椿はこの男の腕のリーチを失念していた。直ぐに背後から抱え込まれる形で男の許へ戻されることになる。
さぁっと血の気が引いていった。一回り大きな体にすっぽりと包まれ、確りと腕まで掴まれて、逃走の道は完全に閉ざされていた。
「……その無意味な包帯を、意味あるものにしてあげましょう」
男は器用に椿の腕を背後で一纏めにすると、しゅるしゅると替えたばかりの首の包帯を解いてゆく。髪を避けられ、制止の声をあげようとした口には背後から伸びた指が差し込まれた。鼻先のようなものがぴとりと項にくっ付けられる感覚。
「ひゃ、い、や……ひゃめ、ッア゙、ァアア___!!!」
鈍い痛みが、椿の体を貫いた。
叫びは口に捩じ込まれた指によって余すことなく外へ放たれた。ぼろぼろと生理的な涙が流れては椿の頬を伝いフョードルの手を濡らす。ぐったりとした椿の体をフョードルは尚も離してはくれない。
「……嫉妬がこれほど身を穿つものとは知りませんでした。本当に、貴女は、ぼくに沢山のことを齎してくれる」
涼しい声とは裏腹に、真新しい傷跡を舌で執拗くなぞられる。ピリッとした細い痛みと熱が首裏を支配していた。逃げ出したくても抑えられた体で何か出来るわけもなかった。
腕の拘束が離れたのは、背中に歪な歯型が幾つも出来上がった後だった。
浮遊するような感覚の後に、柔らかな感触に体が包まれる。ハッ見回すとソファから寝台へと移され、フョードルが目の前に居る。その唇はいつもより滲むような血色を持っていて…否、実際舐めとった自身の血の色だ、と椿は男からできるだけ離れようと試みた。
その椿の怯えきったような様子に、フョードルは笑う。この状況を楽しむかのように。
「それほど警戒しなくても、何も怖いことはしませんよ」
「もう既に痛い思いをしているのだけど」
「おや、怖かったのですか?」
「理解できない行動に人間は恐怖を感じるようにできているわ」
「単純明快なことですよ」
いつの間にか詰められた距離は最早逃げ出すには遅かった。足首を掴まれ膝を割って男の身体が捻じ込まれる。
「ぼくも男ですから。貴女の中に自分以外の男が在ることが、心底気に食わないのです。ぼくはこんなにも、貴女を想っているのに。非道いと思いませんか? こんな裏切りは」
「………なら、貴方もそうでしょ、フョードル」
「…何がでしょうか?」
「ここに来た時の最初の約束よ」
「ふふ、まだそんなことを云ってらっしゃるのですか? 貴女は此方側に付き、今の、貴女の大切なものはぼくたち死の家の鼠でしょう?」
「ッ私は云ったわ!! 過去はそう忘れることは出来ないって、貴方も納得して…」
「納得? 真逆」
「、は……」
つぷり。見たフョードルの手には小型の注射器があった。首筋に感じる、針に刺されているような痛みが視覚のそれと繋がる。
「な、何……待って、やめて。何を入れたの。フョードル、」
「傷付くことを恐れる貴女には調度良いでしょう」
「い、厭っ!!」
手足をばたつかせるも男の下では無意味に等しかった。込められた液体はすべて注入され、フョードルは空になった注射器を放る。
「ほんの少し時間の流れを早く感じるだけです。次に目覚めた時、貴女の憂いは取り除かれています」
瞼が段々と重くなっていく。瞼だけではない。四肢のすべて、指先一本に至るまで動かせないほどの眠気が襲った。
「安心してくださって良いですよ。ただの睡眠薬ですから。まぁ、少々強力です。3日間は、起きていても夢の中のように体も思考もままならないでしょう」
「…やっぱり、貴方…うそつき、よ」そう言葉にしながら、椿の瞼は限界に近かった。眠りに誘うようにフョードルの手が髪をゆっくりと撫でる。
男は、その瞳を漸く弓形に吊り上げ笑った。
「際限はありません。欲望なのですから」