ラストダンス


何をしていたのだっけ。

椿はいつもより重い瞼に違和感を持ちながら、それでもゆっくりと目を開いた。
ふわふわとする頭を不思議に思いながら気怠い動作で体を起こす。霞みかかった視界では、この白い部屋はどこもかしこも発光するかのような眩しさで目を開けているのが更に億劫になる。頭が痛い。この感覚は慣れない薬を飲んだ時に似ている。

ハッとして見回した視界に、フョードルは映らなかった。

「っ、あ……」

嗚呼、また置いていかれたのだと思うと同時に、ホッとしている自分が居た。首の裏がじくりと傷んだような気がして手を回して擦ると、包帯が巻かれている。塗り替えられた、と感じるのは、自分でも無意識にあの男の言葉が図星だったということなのだろう。

外に出た、自分は何処か可笑しかった。フョードルの目が逸れたその途端、待っているようにと云われた路地から走り出していたのだ。まるで夜を駆けているような心地だった。理性的ではない、本能が足と思考を動かしていた。

敦を遠ざけ、龍之介を焚き付けたのは、彼等の性質を理解していたからだ。一方は諦めが悪く、もう一方は寧ろ頭が冷える。
森さんは直ぐに処置が必要だった。太宰もあのまま無理に体を動かし喋り続ければ出血が増してしまっていただろう。多少手荒でも、あの場では最適な行動をしていた。としては。

そうだ、可笑しかったのはそこだ。
私は生まれ変わった。フョードルの手によって、彼の手を取って、自由になった筈だったのに。あれ程晴れやかな気持ちで居たというのに、フョードルの手を離れた途端、元の月へと戻っていた。

その背を更に押したのは、森さんの言葉だった。上手くやれと云った。まだ私は信頼されている。マフィアは、私を待っている。
それだけで体が先程よりも軽くなったような気になるのは、単純すぎるだろうか。

然し太宰が叫んだ通りなら、今回の一度の外出で、あの男は一組織の長を的確に捉え、そして二つの組織を衝突させる火蓋を切ったということになる。探偵社とマフィアがフョードルに辿り着かなければ、あの男の手を離れて戦争は激化し私の帰る場所は本当に無くなることになるだろう。ヨコハマが崩壊する可能性は充分過ぎるほどにある。

矢張り、恐ろしい男だ。あの男は全てを奪わないと気が済まないのだ。それが例え過去であっても。
今の私がこうなのだから、その元を断ち切るつもりなのだ。

然し幸運にも、椿はわかりやすく気落ちすることは無かった。以前にも似たような状況に陥った時のことを思い出したからだ。

「……また私は君に酷いことを云ったのに、君の言葉で勝手に救われてる」

これでは本当に自分が何者なのか分からなくなりそうだ。フョードルに連れ添いながら、椿の心を自由にするのは敦が白鯨の中で出した答えと、路地裏で零した言葉だった。

『探偵社が、見捨てないでいてくれる。必要としてくれているからです』

『僕も、自分の為に、ですよ。同じなんです』

『頼ってください』

神様みたいな人とは、彼のような人のことを云うのだろう。存在を許してくれることで救われる人間が少なからず居る。その事を知ってか知らずか、いつの間にか掬い上げていることに敦は気付いていない。否、気付いていないからこそ、私のような人間が救われるのだ。

相変わらず瞼は重かった。然し気分は晴れやかとまではいかなくとも風が通った後のようだった。

思えば決定的に動くことがなかっただけで、私は何も変わっていなかった。というより、変われなかった。フョードルの思考の順路を読むためにチェスを繰り返し、フョードルの注意が外へ向かわないように部屋に縛りつけられた自分に縛りつけた。全てはいつか出来るだろう男の隙を突く為に、マフィアの為に。

「……どうしようもない愚か者ね」

落としたのは、他の誰でもなく自身に向けた言葉だ。
所詮人はそう簡単に変わらないということだ。変わったと思っていても、本来の性質は同じ方向を見続ける。そこに向かう為の工程が変わるというだけだった。

私は今も尚、あの忘れえぬ夜から過去を清算しているのだ。

母を奪われ、祖母を奪われ、異能を恐れた。フョードルは憎むべき相手だった。然し私が抱いたのは恐れだった。恐怖は憎しみほど長く持つことは出来ない。そしてその火も、月日の前では少しずつ小さくなっていく。人の感情を持たないくせに、あの魔人は知っていたのだろう。だから手っ取り早く、小さくなった火を新たな薪に移し替えて燃え上がらせたのだ。それがあの鮮やかな夜だった。
然しそれも一時的なものだった。何故なら私の中の恐怖は、異能から既に別の物へと代わっていたのだから。それには私もつい先程まで気付かなかった。というか、忘れていた。

私は既に、母とは決別していたのだ。

それもフョードルの言葉で自覚した。首に巻いた包帯を、何となく外さなかった理由。
無意識に、本能的に縋ったのは、夢にまで見た太宰だった。私が本当に固執し行動原理としていたのは母ではなかった。求め、探していたのは母ではなく、あの日消えた太宰だったのだ。
太宰との約束。それが椿を生かしていた。誰の下で動こうと、誰のものになろうと、最期にはあの男とその終わりを迎える。歪んでいても、それが椿の変わらない、本当の望みだった。
太宰と母、生を諦め、突然消えてしまった存在。重なる部分が多い2人を、重ね合わせていた事でその輪郭がいつの間にかどちらの物なのか分からなくなっていた。
おかげでフョードルにそれを奪われることがなかったと云えば、結果的には良かったと云えるが。これがあの男にバレていればあの路地で太宰は一発撃たれるだけでは済まなかっただろう。

然し今度はフョードルについて疑問が降って湧いた。
あの男は私の罪を父親だと云ったが、どちらにせよそれでは私の中の辻褄が合わなかった。もう父親も母も私の中では過ぎた話になっていたからだ。フョードルに関して云うなら、祖母の命を奪った2度目が本当の私の罪と云えるだろう。それなのに、何故あの男は態々母を引き合いに出したのだろうか。

「…本当に私を救うつもりだった?」

フョードルは私と太宰、二人の間のみで完結した恐怖の置き換えを知らない。知る筈がない。なら、フョードルの中での私の罪の意識の対象は母のままだっただろう。フョードルはそれを、異能ではなく、単純な最初の殺人としての罪に置き換えようとしたのだろうか。殺人者の罪人は閉じ込められる。檻の中で罪を償う。その檻が、この白の部屋だとしたら。

…考え過ぎだろうか。


ざっと思考して、ふぅと息を吐く。何だ、案外起きていられるものじゃないか、と思った矢先に、くぁと欠伸が出た。気を張っていなければ途端に睡魔が襲いかかって来そうだった。
薬が打たれてからどれ程の時間が経ったのだろう。生憎この部屋には時計がない為、それを知ることは出来なかった。恐らくまだ半日は経っていない筈だ。フョードルが出掛けたのも眠った直後だとするなら、このタイミングでの外出は何らかの揺さぶりを掛けに行ったのだろう。まだ掻き乱すつもりなのか、あの男は。

椿は足を寝台から床へ着けた。ぐっと体に力を込めて立ち上がる。多少よろけるが、倒れる前に足を踏み出せば辛うじて歩ける。椿が向かったのはドレッサーだった。思えば包帯以外にも、自分を宥めてくれたものは居たと思い出したのだ。

此処に来る前、手を伸ばしてくれた姿はずっと椿の目に焼き付いていた。彼の髪と同じく、燃えるような紅を撫でる度、胸の中に希望が湧いてくるようだった。そしてこれは、此処での私の本物の希望だった。

あのチョーカーが私の居場所を逐一報せる為の発信機であることくらい、初めからわかっていた。

守ってやるという言葉を私は信じている。だから肌身離さず持っていた。それに、その言葉が嘘でも本当でも、今となってはどちらでも良い。此処での私の心の安息を守ってくれた事実は変わらない“本当”だから。

本当か嘘か、以前の私はいつも本当が知りたかった。嘘を吐かれてまで守られる意味がわからなかったから。
でも、今ならわかる。
大事だったから。大切にしたかったから嘘で隠すこともあるのだ。自分の周りは危険だから、自分から遠ざけたかった。離れようと無事なら構わない、嫌われようとも。

そんな前提を、嘗て私は嫌ったけれど、でも今は違う。大切なものが遠くにあると、それが自然とよく見えた。
大切なものを傍に置くと、其方ばかりが気に掛る。
私は壊す方が圧倒的に得意だったから、大切なものを傍に置きながら、大事にすることは難しかった。
もっと自由に動けていた筈だった。
自分の首を絞めていたのは大切なものを離す勇気のない臆病な自分だったと、今この状況で知った。

今、マフィアと探偵社は戦っている。然しその戦場に私は居ない。
私の傍には、フョードルが居る。
マフィアと探偵社、共通の敵が。

今、私に出来ることは何か。

「……」

できることを必死に。敦は云っていた。
私の行動は間違っているだろうか、と、今は無性に彼に聞きたくなった。彼に、手を握って欲しい気がした。

私がこの終盤で動くことを、恐らくフョードルは想定していた。然しそれでも私の望みの邪魔はしなかった。フョードルの余興癖も今に始まった事じゃない。それは何度も繰り返したチェスで厭というほど味わっている。現状私に何か出来るとはもう思っていないという確信の意味での戦力外判断か。
確かにそうだ。強力な睡眠剤という形で手は既に打たれている。今のこの体と精神では、異能を扱えない。
然しそれがなんだと云うのだ。異能が扱えないからと云って死ぬ私ではない。

私は月の女だ。

策を練らなければ。
最後まで、あの男が私から離れないように、出来ることを何か。
使えるものは使ってきた。残っているのはあと数手。ゲームは確実に終局へと近付いている。

泣き落としに引っ掛かるタマだろうか、と思案する椿の手がジュエリーボックスへ伸びる。
上から引き出しを順に開けていき、最後の下段を開く。それと同時に、椿の目が見開かれた。

ふわりと、視界の端で外套が踊る。


「やぁ、謀かい?」


いつの間にか、覗き込むようにしてそこに居た道化師がその口を三日月のように吊り上げ笑っていた。
驚きでガタリと大きく揺れた椿の手元によってジュエリーボックスは高い音を立てて地に落下する。

「ハハーハッハッハッ!!! 良い反応だ!悲劇的、否、喜劇的? 私は君のその顔がずぅっと見たかった気がするよ!!」

目の前の道化がキャハハと嗤う。椿の体がバランスを崩してずるりと椅子から落ちた。

「ゴーゴリ……」

忘れていた。此処にはこの厄介道化師も居た。
警戒しながら力の入らない身をゴーゴリから遠ざけようとする。

「おやおや可哀想に、何やら怯えているようだね! 怖くないよ、私は愉快な道化師さ! さてさて、そこには何が在ったのかな? 教えておくれよ、眠り姫。糸車かい? それとも、毒を孕んだ果実かな?」

落としたジュエリーボックスから宝石たちが飛び散る。然し幾度見回してもそこには無かった。椿が大切に仕舞っていたあれが。

「君も特異な趣味をお持ちだ。発信機付きのジュエリーなんてね」

ゴーゴリは一歩、一歩と近づく。
気付かれていた。知られていた! それなのにこの局面まで放っておいた。ということは、今、あの男が消えた先は。
サッと血の気が引いていく。あっという間に男の足は、椿のつま先のすぐそこへ辿り着いた。

「……フョードルは、あの男は何処へ行ったの」

苦虫を噛み潰したような椿へ近付くように、ゴーゴリは屈んだ。にこりと弧を描いた口は歪むことなく云い放つ。

「元の主へ返しに行ったよ」