はらいて


「父上、なまえをここまで育て上げてくださった事、感謝してもしたりませぬ」

頭を垂れて三つ指に添える。
普段ならば、お小言や嫌味のひとつでも降りかかってくるはずであるが、その気配すら微塵も感じない。
いったいいくつになったのだろう。
この人の年齢は、娘の私にもわからない。
業病だというが、包帯でぐるぐると巻かれた皮膚の心地など幼い頃から私は知らず、たが、そのごわついた布きれの感触を父であると認識している。
他の者には、災いがうつる故もったいなき事よと己からは触れぬくせに、私には不幸よと触れて触れて一等甘やかしてきた。
父上が私に触れるときは、決まって私が何かに一人で出向くときだったと記憶している。

「主の晴れ姿。惜しい、とうにこの世を去ったが母にも見せてやりたいものよ」

「父上があの世に行かれる際、その眼ごと母上へお渡しくださりませ」

ヒヒッ、父上が小さく楽しげに笑う。

「ほんに、ヌシは母によう似ておる。父より先に往くな。そこまで母に似ることもなかろ」

「父上もどうか、孫の顔は見てからお往きくだいますよう」

「ホウ、中身は我似であったか」

嫌味を嫌味で返すこのやりとりも今日で、終わる。
とん、と父上のまわりでふわりと浮かんでいる透明で綺麗な玉が私の背中を押しやった。

「それ、行け。ヌシの家はこれから甲斐上田よ」

新しく繕ったばかりの足袋が廊下の板を踏みしめる。
この場から馬に乗り、一路甲斐へと赴けばもう大坂の地を踏むこともないのだろう。
涙は出ぬがひゅっと息をのむほどに悲しくなった。
今一度、その暖かくも冷たくもない手で頭を撫でて名を呼んでくれまいか。
今一度、互いを想って嫌味を連ねてはくれまいか。

「ヌシの不幸は全て拭うてやったわ。不幸は似合わぬ、息災であれ」

そんな小さな呟きにちらりと振り返ってみれば、父上の反転した眼がくっと細めてこちらを見ていた。

end
20131021

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